38 / 46
9 勇樹のいない家
1
しおりを挟む
その後の術後の経過も順調だったらしく、ちょうど一週間後には退院したと連絡があり、さらにその二週間後には、病理検査の結果が出て今後の治療のスケジュールが決まったとのことだった。
その数日後に届いたメールは食事の誘いだった。世話になったからお礼に好きなものを奢ってくれると言う。世話になったなんて、奈瑠は手術のときただ隣にいただけだ。
仕事をしながら母親のサポートをするのは大変だろうと、「何でも言って」と伝えていたのだったが、勇樹が何かを言ってくることはなかった。
頼まれてもいないのに出しゃばるわけにもいかず、結局何にもしてあげられなかった。だから奢ってもらう理由なんかないけれど、誘ってくれたのはすごくうれしかった。
四日後、待ち合わせの場所に現れた勇樹は元気そうだった。わりとマメに連絡は取っていたものの、顔を合わせるのは手術の日依頼だ。
勇樹が連れて行ってくれたのは、ビルの地下一階にある、一見して高そうなお寿司屋さんだった。
何がいいか聞かれて、お寿司が食べたいと言ったのは奈瑠だけれど、まさかこんなお店を選ぶとは思っていなかった。
「ここに入るの?」
「そうだよ」
「ここってきっとすごく高いよ。別のところにしない?」
「もう予約してあるから。予約だってなかなか取れないんだぞ」
「でも……」
「俺の奢りだから心配しないで」
「だから心配なんじゃない。だいたいわたし、勇樹にお礼してもらう筋合いないし」
「とにかく、味は絶品だから。以前仕事関係の人に連れて来てもらってさ。今日の予約もその人の伝手で無理言って。だから今さら行かないとかありえないから」
もうここに入るしかなさそうだ。
「わたしもちゃんと半分払うからね」
「俺がしたいようにさせてよ。支払いのときに財布出してわたしもわたしもとか、おばさんみたいなことするの絶対やめろよ。恥ずかしいから」
「しないよ。何よおばさんって……」
店の中はカウンター席のみだったが、狭苦しい感じはなく、さすがに高級店の店構えだった。
こういう店に来たことがないわけではないけれど、やっぱりちょっと気遅れする。だが、勇樹と言葉を交わす大将は親しみやすい雰囲気で、奈瑠がちょっと固くなっているのを察してか、「たらふく食べて行ってくださいね」と笑顔で声をかけてくれた。
とりあえずビールを注文したあとは、“本日のおまかせコース”ということになった。こうなったらもう開き直って高級寿司を楽しむしかない。
コチンとグラスを合わせ、ビールを喉へと流し込む。居酒屋で飲むビールよりも泡が繊細で、味が濃い気がする。
「お母さんの調子はどうなの?」
「元気だよ。通院での治療はけっこう続くみたいだけど。そろそろ少しずつ仕事も始めるようだし」
「そっか。よかったね。でも無理しないようにしないといけないよね」
「そうなんだよ。あの人仕事好きだからなあ。ちょっとよくなるとすぐ無理しそうでこわいんだけど」
「退院してしばらくはお母さんのマンションに泊まってたんだよね?」
「三泊だけ。母さんが今住んでるマンションは五年前に引っ越したところでさ。俺が中学まで一緒に住んでたところじゃないから、なんか落ち着かなくて」
「でもお母さん、心強かったんじゃないかな。勇樹がいてくれて」
「どうかな。逆に落ち着かなかったんじゃないの。ほら、手術のとき叔母さんが来てただろ? 母さんの妹。あの人が母さんのマンションのすぐ近くに住んでて、毎日通って世話してくれてたから、本当言うと俺はいなくてもどうってことなかったわけ」
アジやスズキ、アナゴにあわびなど、小ぶりの寿司がタイミングよく順番に出される。勇樹が言っていたとおり、味は絶品だ。
店の雰囲気もあって、ビールを空けたあとは冷酒を頼んだ。
深刻な話は一切しなかった。席は全部お客さんで埋まっていたし、カウンターの向こうにはお店の人がいたから、状況的にしづらいというのもあったかもしれない。でも最初から別に、そういう話をするつもりもなかった。
ただ純粋に、勇樹と普通におしゃべりできる時間を楽しんだ。
「すっごく美味しかった。ごちそう様でした」
「よろこんでもらえたならよかったよ」
「この後どうする? どこかで飲み直す?」
「ごめん。そろそろ帰らなきゃいけないんだ」
「お母さんとこ?」
「そうじゃないけど」
「じゃあまた今度だね。あ、そうだ。これ」
奈瑠はバッグの中から鍵を取り出し、差し出した。
「知世ちゃんから預かってた合鍵」
受け取った勇樹の表情からは、何を思っているのかうかがい知れなかった。
最寄りの駅で、それぞれ反対のホームへと別れた。
奈瑠はホームに着くと同時に滑り込んで来た電車に乗り込み、反対側のドアのガラス越しに勇樹の姿を捜した。
向かいのホームで電車を待つ人たちに混じって、勇樹は立っていた。
奈瑠が手を振ると、少し笑って、手を振り返してくれた。
その数日後に届いたメールは食事の誘いだった。世話になったからお礼に好きなものを奢ってくれると言う。世話になったなんて、奈瑠は手術のときただ隣にいただけだ。
仕事をしながら母親のサポートをするのは大変だろうと、「何でも言って」と伝えていたのだったが、勇樹が何かを言ってくることはなかった。
頼まれてもいないのに出しゃばるわけにもいかず、結局何にもしてあげられなかった。だから奢ってもらう理由なんかないけれど、誘ってくれたのはすごくうれしかった。
四日後、待ち合わせの場所に現れた勇樹は元気そうだった。わりとマメに連絡は取っていたものの、顔を合わせるのは手術の日依頼だ。
勇樹が連れて行ってくれたのは、ビルの地下一階にある、一見して高そうなお寿司屋さんだった。
何がいいか聞かれて、お寿司が食べたいと言ったのは奈瑠だけれど、まさかこんなお店を選ぶとは思っていなかった。
「ここに入るの?」
「そうだよ」
「ここってきっとすごく高いよ。別のところにしない?」
「もう予約してあるから。予約だってなかなか取れないんだぞ」
「でも……」
「俺の奢りだから心配しないで」
「だから心配なんじゃない。だいたいわたし、勇樹にお礼してもらう筋合いないし」
「とにかく、味は絶品だから。以前仕事関係の人に連れて来てもらってさ。今日の予約もその人の伝手で無理言って。だから今さら行かないとかありえないから」
もうここに入るしかなさそうだ。
「わたしもちゃんと半分払うからね」
「俺がしたいようにさせてよ。支払いのときに財布出してわたしもわたしもとか、おばさんみたいなことするの絶対やめろよ。恥ずかしいから」
「しないよ。何よおばさんって……」
店の中はカウンター席のみだったが、狭苦しい感じはなく、さすがに高級店の店構えだった。
こういう店に来たことがないわけではないけれど、やっぱりちょっと気遅れする。だが、勇樹と言葉を交わす大将は親しみやすい雰囲気で、奈瑠がちょっと固くなっているのを察してか、「たらふく食べて行ってくださいね」と笑顔で声をかけてくれた。
とりあえずビールを注文したあとは、“本日のおまかせコース”ということになった。こうなったらもう開き直って高級寿司を楽しむしかない。
コチンとグラスを合わせ、ビールを喉へと流し込む。居酒屋で飲むビールよりも泡が繊細で、味が濃い気がする。
「お母さんの調子はどうなの?」
「元気だよ。通院での治療はけっこう続くみたいだけど。そろそろ少しずつ仕事も始めるようだし」
「そっか。よかったね。でも無理しないようにしないといけないよね」
「そうなんだよ。あの人仕事好きだからなあ。ちょっとよくなるとすぐ無理しそうでこわいんだけど」
「退院してしばらくはお母さんのマンションに泊まってたんだよね?」
「三泊だけ。母さんが今住んでるマンションは五年前に引っ越したところでさ。俺が中学まで一緒に住んでたところじゃないから、なんか落ち着かなくて」
「でもお母さん、心強かったんじゃないかな。勇樹がいてくれて」
「どうかな。逆に落ち着かなかったんじゃないの。ほら、手術のとき叔母さんが来てただろ? 母さんの妹。あの人が母さんのマンションのすぐ近くに住んでて、毎日通って世話してくれてたから、本当言うと俺はいなくてもどうってことなかったわけ」
アジやスズキ、アナゴにあわびなど、小ぶりの寿司がタイミングよく順番に出される。勇樹が言っていたとおり、味は絶品だ。
店の雰囲気もあって、ビールを空けたあとは冷酒を頼んだ。
深刻な話は一切しなかった。席は全部お客さんで埋まっていたし、カウンターの向こうにはお店の人がいたから、状況的にしづらいというのもあったかもしれない。でも最初から別に、そういう話をするつもりもなかった。
ただ純粋に、勇樹と普通におしゃべりできる時間を楽しんだ。
「すっごく美味しかった。ごちそう様でした」
「よろこんでもらえたならよかったよ」
「この後どうする? どこかで飲み直す?」
「ごめん。そろそろ帰らなきゃいけないんだ」
「お母さんとこ?」
「そうじゃないけど」
「じゃあまた今度だね。あ、そうだ。これ」
奈瑠はバッグの中から鍵を取り出し、差し出した。
「知世ちゃんから預かってた合鍵」
受け取った勇樹の表情からは、何を思っているのかうかがい知れなかった。
最寄りの駅で、それぞれ反対のホームへと別れた。
奈瑠はホームに着くと同時に滑り込んで来た電車に乗り込み、反対側のドアのガラス越しに勇樹の姿を捜した。
向かいのホームで電車を待つ人たちに混じって、勇樹は立っていた。
奈瑠が手を振ると、少し笑って、手を振り返してくれた。
0
あなたにおすすめの小説
さようなら、私の初恋
しょくぱん
恋愛
「さよなら、私の初恋。……もう、全部お返しします」
物心ついた時から、彼だけが世界のすべてだった。 幼馴染の騎士団長・レオンに捧げた、十数年の純粋な初恋。 彼が「無敵」でいられたのは、アリアが無自覚に与え続けた『治癒の加護』があったから。
だが婚約直前、アリアは知ってしまう。 彼にとって自分は、仲間内で競い合う「賭けの対象」でしかなかったことを。
「あんな女、落とすまでのゲームだよ」
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる