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84 婚約式
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それは皮肉なほどに爽やかな天気だった。
でも心地良い風がいくら肌をくすぐっても、わたくしの気持ちは深く沈んだままだった。
「今日の君は女神より美しい、シャーロット嬢」
玄関ホールを出ると、アーサー様が目を細めてわたくしを待ち構えていた。
「……ご機嫌よう、アーサー様」と、わたくしは静かにカーテシーをする。
ついに今日、ドゥ・ルイス家とヨーク家の婚約式が挙行される。式は教会の神殿で執り行われるが、彼はわたくしをわざわざ迎えに来てくれたのだ。
アーサー様は少し肩を竦めて、
「なにやらご機嫌斜めのようだね。やっぱり今日は不本意?」と、苦笑する。
「いえ……。ただ、緊張して殆ど眠れなかっただけですわ」
わたくしはあからさまな嘘をついた。
どう考えても不本意に決まっている。陰謀で家族を貶められて、大切な人とも引き剥がされて……これが口惜しさ以外に何があるのかしら。
「そうか……」
アーサー様はそれ以上なにも言わず、形式通りにわたくしの手を取ってエスコートをする。わたくしも不平不満を胸の中に仕舞い込んで、形式通りに彼の手を取り馬車へと乗り込んだ。
公爵家の馬車は一目で高級だと分かるけど、華美ではなく品位と伝統を感じさせる作りで、ドゥ・ルイス家の美学が表れている気がした。適度に硬いクッションが、いやに座り心地が良い。
これから自分もドゥ・ルイス公爵夫人としてこの伝統の中へ入って行くのだと思うと、今から気が滅入った。
綿に水が染み込むようにじわじわと王弟派の思想に浸っていって、いつしかわたくしも現王家を下賤の血だと嘲り笑う日が来るのかしら……。
「……」
「……」
規則正しい蹄の音が響く。向かい合って座っている二人は、ずっと黙り込んだまま静かに前を見つめていた。
でも互いの視線は決して交わることがなく、わたくしは新鮮な空気を求めるように窓の外に目線を移す。
少しのあいだ外の景色を眺めていたけど、ついに我慢できなくなってわたくしは口火を切った。
「……全て、あなたが仕組んだことなのですね」
真正面からアーサー様の瞳を見つめて尋ねる。彼は深い青色の目を微かに瞬いて、数拍置いてから沈黙を破った。
「そんな、人聞きの悪いな。私はこの国をあるべき姿に戻しているだけだよ」
「あるべき姿ですって?」
思わず声に力がこもる。
「そう。歪んでしまった歴史を戻しているだけだ」
「王族の方々は歪んでなどおりませんわ」
「そうかな?」アーサー様は軽く首を傾げて「栄光あるグレトラント王国に汚点を残したのは確実だ。現に国を二分するような争いの火種になっているしね」
「それは、あなたたち王弟派が火をつけているのでしょう?」
「その原因を作ったのは現王家だ」
「まるで子供の屁理屈ですわね」
「議論は嫌いじゃないよ。君となら延々と話していても飽きが来ないね」と、アーサー様はにこりと笑う。
「誤魔化さないでください!」
わたくしはついに声を荒げた。
「ははは、ごめんごめん」
「全然笑えませんわ」
「それは悪かった。――それで、他に聞きたいことは? 君の知りたいことなら何でも答えるよ」
わたくしは眉根を寄せた。アーサー様の、子供をあしらうような態度に腹が立ったのだ。
でも、彼には尋ねたい事柄が山ほどある。仕方がないので込み上げてくる怒りを抑えて、淡々と疑問をぶつけることにした。
「……あの毒草は、法で禁止されているはずです」
「その禁忌を第一王子は犯したみたいだね」
「第一王子は隣国から秘密裏に入手したと伺っていますわ。あなたの内に宿る、もう一つの血筋の国ですわね」
「隣国では研究が進んでいるからね」彼は涼しい顔をして他人事みたいにさらりと言う。「我が国も危険を理由に禁止するのではなく、もう少し進歩的な考えを持って欲しいところだね。これでは周辺国に遅れを取ってしまう」
「血筋や伝統に拘泥している王弟派のあなたがそれを言いますか」
「それは手厳しい意見だ」と、彼は肩を竦めて苦笑いをする。余裕のある態度がひどく鼻に付いた。
「…………」
わたくしはそれきり口を閉ざした。
アーサー様はこの国の全ての陰謀を動かしていて、それは今では濁流となって留まることを知らずに……もうお手上げだと感じてしまったのだ。
おそらく王弟派の情報組織は編み目のように国内全土に張り巡らされて、国王派の中にも間諜が潜んでいるのだろう。見えない魔の手は、既に国の中枢にまで至っているのだ。
諦念の混じった沈黙が規則的な蹄の音に溶けていく。
わたくしは、またぼんやりと窓の外を眺めた。こうしている間も馬車は教会へと近付いていて、憂鬱な気分は増していくのだった。
「……済まなかった」
しばらくして、アーサー様が独り言のようにぽつりと呟いた。それは普段の堂々とした声音とは異なり少し掠れ気味で、心細さを孕んでいるような痛ましい声に感じた。
はっとして彼の顔を見る。恐ろしいほどに整った顔は、苦悩や不安が入り混じっているような複雑な表情をしていた。
「な……なにがですの……?」
わたくしは恐る恐る尋ねる。思わず彼の痛々しい雰囲気に呑まれてしまって、身体が強張った。
彼はじっとわたくしの瞳を見つめて、
「君にあの毒草を使ったことだ。本当は君には使用するつもりはなかった……使用したくなかったんだ。私は、君を操って道具のように利用もしたくない。傷付けるつもりもない。……それだけは分かって欲しい」
「…………」
すぐには返答ができなかった。驚きで言葉が詰まって、なんて応えるのが正解なのか分からなかったのだ。
アーサー様は、目的のためなら手段を選ばない冷酷で怜悧な方だと思う。
いつもの彼の双眸は、一見穏やかそうだが猛獣が暗闇の狭間から獲物をじっと見つめているような、隙ひとつない底知れぬ恐ろしさが宿っている。
でも今の彼は、雨に打たれている子犬みたいな心もとない瞳をしていて。そこには、打算や欺瞞など少しも含まれていなくて……。
一体、どちらが本当の彼なのかしら…………?
少しのあいだ二人で見つめ合ったあと、わたくしはやっとの思いで口を開いた。
「わたくしは……あなたを許せませんわ。絶対に。……しかし、貴族としての義務は果たします。これでも、ヨーク家の娘ですから」
少なくとも今のわたくしはドゥ・ルイス家に輿入れをする身で、それはヨーク家と縁続きになるということだ。気持ちは拒否をしていても、子供みたいに駄々をこねてはいけない。個人的な稚拙な感情で高位貴族としての責務を放り出すほど、自分は愚かではないつもりだった。
アーサー様は安堵したように口角を上げる。
「そうか……。公爵夫人として家の管理や社交はやって貰うが、それ以外は好きにしていいよ。妃教育は前の人生で既に完了しているからね」
「それは……どういう意味ですの?」
「深い意味はないさ。ドゥ・ルイス公爵夫人はグレトラント国の王妃よりも輝いて欲しいんだよ。単なる私のつまらない矜持さ」
「はぁ……」
肝要な部分を何も話し合うことが出来ないまま、公爵家の馬車は教会に着いた。アーサー様に手を預けて外に出る。新鮮な空気と冷たい風が心地良かった。
わたくしは、新しい婚約者と共に教会の門を潜った。
婚約式は粛々と進んでいく。
参列者は親族のみで、厳かに時が流れていた。
お父様たちはひとつも表情を崩さずに、ただ式の様子を見つめている。一方ドゥ・ルイス家のほうは、勝ち誇ったような満足そうな様子だった。
わたくしは神官の言葉が頭に入らずに、ぐるぐると前回の人生のことを考えていた。
そう言えば、第一王子との婚約式のときはどうだったかしら?
前回の人生ではわたくしだけが一人はしゃいでいて、今思えば滑稽だったわ。第一王子は終始無言で無表情で、わたくしは愛という幻想を夢見て、本当に愚かだった。
……今回はハリー殿下と婚約したかったのに、それは叶わぬ夢だったわね――……。
わたくしたちは神官から祝福を受けて、最後に二人の署名を記す。
――シャーロット・ヨーク。
わたくしは自身のサインをじっと見つめた。隣にはアーサー・ドゥ・ルイス。
並んだ二つの名前をぼんやりと眺めていると、「あぁ、本当に終わったのね」って、無機質な感想が無感動に湧き出てくるだけだった。
これで、ヨーク家は完全に王弟派閥になったのね……。
◇◇◇
「アーサー公子様、シャーロット嬢、おめでとうございます」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
無事に婚約式が終わって、夜はドゥ・ルイス家で盛大な婚約パーティーが催された。
当然、参加者は全員が王弟派。ヨーク家がこれまで没交渉だった家門ばかりなので、挨拶回りで大忙しだった。誰も彼も、話題は現王族を腐すことばかりで……正直辟易したわ。
これからは自分がこれらの家門をまとめる立場になるのだと思うと、暗澹たる気持ちになってしまった。
……いけない。わたくしは貴族としての義務は果たすのだとアーサー様に宣言したのだから、弱気になってなんかいられないのだ。しっかりしなくては。
「二つの尊き血が縁続きになる日が来ようとは……なんと目出度い」
「しかし、ヨーク家がドゥ・ルイス家と結ばれるとなると、現王家の存続する意義などあるのでしょうか」
「…………」
嫌気がする不穏な会話がまたもや耳に入って来て、覚えず眉を曇らせる。
本当に、今夜のパーティーはこればかりね。確かにここはそういう貴族たちの集まりだけど、何度も何度も同じ話を聞かされるのはうんざりだった。彼らはいつもこの話題しかないのかしら。
「高貴な血筋」という画一的な価値観だけが蔓延っている様子に、ぞっとする感覚を覚えた。
笑顔でやり過ごしていた次の瞬間、背後からふと気になる会話が飛び込んで来る。驚きのあまり一瞬だけ身体が硬直したけど、すぐに何事もないかのように平静を保った。
わたくしは令嬢たちと会話しながらも、神経をとがらせて全力で背後の会話を聞き漏らすことのないようにした。
「……これで布石は揃いましたな。あとは……」
「ですね…………もうじき公子が……」
「早く我々が……新国王が…………」
危険な会話にぞくりと粟立った。
やっぱり、王弟派は今も王位簒奪を諦めていないんだわ!
近くにいるアーサー様をちらりと見る。彼は王弟派の高位貴族たちに囲まれて談笑していた。今この瞬間も、彼らと王位簒奪計画の話をしているのかしら?
胸の奥底に押し込んでいた不信感が急激に膨れ上がってくる。公爵令息の陰謀はまだ続いているのだ。
でも、今朝の馬車での彼の言動がふと頭を過ぎって来て、わたくしは戸惑いを隠せなかった。
誠実な彼、狡猾な彼。優しい彼、冷酷な彼。それは絡まった糸のように複雑にわたくしの心を掻き乱してくるのだった。
◇◇◇
「今日はありがとう」
きらびやかな婚約パーティーが終わって、わたくしは再びドゥ・ルイス公爵家の馬車に乗って家路に就いた。
きっとヨーク家は完全に王弟派閥に入ったのだと周囲に見せ付けるためなのだろう。わたくしとアーサー様が二人きりで馬車の中にいる姿は、大勢の人々に目撃されてしまったようだ。
「疲れただろう。今夜はゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます……」
パーティーでの王弟派の不穏な会話が頭の中で反芻する。
そのことを尋ねるべきか迷ったけど、お父様やお兄様から「今後は軽率な行動は取らずに慎重に動くように」と耳が痛くなるほどに注意されたことを思い出して、わたくしはひとまず疑問を家に持ち帰ることにした。
アーサー様はわたくしを見つめながら微かに笑顔を浮かべている。
普段の理知的な彼、公爵令息としての立派な姿の彼、子供の頃に見た平民の前での冷酷な彼、わたくしの前で見せるふとした優しさ……。
またもや色んな感情が浮かんで来て、にわかに頭が痛くなった。
「っ……!」
不意に、頬に冷たいものが当たった。
我に返ると、アーサー様の手がぴたりと肌に当たっていた。
驚いて目を見開く。突然のことで身体が硬直して動かない。
彼はわたくしの瞳をじっと見つめていたかと思うと、どんどん顔が近付いて――……、
「嫌っ!」
気が付くと、わたくしは思い切り彼を突き飛ばしていた。
目が合う。
彼の双眸には落胆と悲しみが映っていて、わたくしは慌てて視線を逸らす。
鉛のような重苦しい空気が、二人の距離感を広げた。
長過ぎる沈黙。
心臓がばくばくと脈打っていて、胸の痛みが増していく。
数拍後。
「……では、私はこれで。おやすみ、シャーロット嬢」
彼はわたくしの返事も待たずに、踵を返す。
「……」
あんなに晴れやかだった天気が、今では灰色が広がって、月を隠していた。
でも心地良い風がいくら肌をくすぐっても、わたくしの気持ちは深く沈んだままだった。
「今日の君は女神より美しい、シャーロット嬢」
玄関ホールを出ると、アーサー様が目を細めてわたくしを待ち構えていた。
「……ご機嫌よう、アーサー様」と、わたくしは静かにカーテシーをする。
ついに今日、ドゥ・ルイス家とヨーク家の婚約式が挙行される。式は教会の神殿で執り行われるが、彼はわたくしをわざわざ迎えに来てくれたのだ。
アーサー様は少し肩を竦めて、
「なにやらご機嫌斜めのようだね。やっぱり今日は不本意?」と、苦笑する。
「いえ……。ただ、緊張して殆ど眠れなかっただけですわ」
わたくしはあからさまな嘘をついた。
どう考えても不本意に決まっている。陰謀で家族を貶められて、大切な人とも引き剥がされて……これが口惜しさ以外に何があるのかしら。
「そうか……」
アーサー様はそれ以上なにも言わず、形式通りにわたくしの手を取ってエスコートをする。わたくしも不平不満を胸の中に仕舞い込んで、形式通りに彼の手を取り馬車へと乗り込んだ。
公爵家の馬車は一目で高級だと分かるけど、華美ではなく品位と伝統を感じさせる作りで、ドゥ・ルイス家の美学が表れている気がした。適度に硬いクッションが、いやに座り心地が良い。
これから自分もドゥ・ルイス公爵夫人としてこの伝統の中へ入って行くのだと思うと、今から気が滅入った。
綿に水が染み込むようにじわじわと王弟派の思想に浸っていって、いつしかわたくしも現王家を下賤の血だと嘲り笑う日が来るのかしら……。
「……」
「……」
規則正しい蹄の音が響く。向かい合って座っている二人は、ずっと黙り込んだまま静かに前を見つめていた。
でも互いの視線は決して交わることがなく、わたくしは新鮮な空気を求めるように窓の外に目線を移す。
少しのあいだ外の景色を眺めていたけど、ついに我慢できなくなってわたくしは口火を切った。
「……全て、あなたが仕組んだことなのですね」
真正面からアーサー様の瞳を見つめて尋ねる。彼は深い青色の目を微かに瞬いて、数拍置いてから沈黙を破った。
「そんな、人聞きの悪いな。私はこの国をあるべき姿に戻しているだけだよ」
「あるべき姿ですって?」
思わず声に力がこもる。
「そう。歪んでしまった歴史を戻しているだけだ」
「王族の方々は歪んでなどおりませんわ」
「そうかな?」アーサー様は軽く首を傾げて「栄光あるグレトラント王国に汚点を残したのは確実だ。現に国を二分するような争いの火種になっているしね」
「それは、あなたたち王弟派が火をつけているのでしょう?」
「その原因を作ったのは現王家だ」
「まるで子供の屁理屈ですわね」
「議論は嫌いじゃないよ。君となら延々と話していても飽きが来ないね」と、アーサー様はにこりと笑う。
「誤魔化さないでください!」
わたくしはついに声を荒げた。
「ははは、ごめんごめん」
「全然笑えませんわ」
「それは悪かった。――それで、他に聞きたいことは? 君の知りたいことなら何でも答えるよ」
わたくしは眉根を寄せた。アーサー様の、子供をあしらうような態度に腹が立ったのだ。
でも、彼には尋ねたい事柄が山ほどある。仕方がないので込み上げてくる怒りを抑えて、淡々と疑問をぶつけることにした。
「……あの毒草は、法で禁止されているはずです」
「その禁忌を第一王子は犯したみたいだね」
「第一王子は隣国から秘密裏に入手したと伺っていますわ。あなたの内に宿る、もう一つの血筋の国ですわね」
「隣国では研究が進んでいるからね」彼は涼しい顔をして他人事みたいにさらりと言う。「我が国も危険を理由に禁止するのではなく、もう少し進歩的な考えを持って欲しいところだね。これでは周辺国に遅れを取ってしまう」
「血筋や伝統に拘泥している王弟派のあなたがそれを言いますか」
「それは手厳しい意見だ」と、彼は肩を竦めて苦笑いをする。余裕のある態度がひどく鼻に付いた。
「…………」
わたくしはそれきり口を閉ざした。
アーサー様はこの国の全ての陰謀を動かしていて、それは今では濁流となって留まることを知らずに……もうお手上げだと感じてしまったのだ。
おそらく王弟派の情報組織は編み目のように国内全土に張り巡らされて、国王派の中にも間諜が潜んでいるのだろう。見えない魔の手は、既に国の中枢にまで至っているのだ。
諦念の混じった沈黙が規則的な蹄の音に溶けていく。
わたくしは、またぼんやりと窓の外を眺めた。こうしている間も馬車は教会へと近付いていて、憂鬱な気分は増していくのだった。
「……済まなかった」
しばらくして、アーサー様が独り言のようにぽつりと呟いた。それは普段の堂々とした声音とは異なり少し掠れ気味で、心細さを孕んでいるような痛ましい声に感じた。
はっとして彼の顔を見る。恐ろしいほどに整った顔は、苦悩や不安が入り混じっているような複雑な表情をしていた。
「な……なにがですの……?」
わたくしは恐る恐る尋ねる。思わず彼の痛々しい雰囲気に呑まれてしまって、身体が強張った。
彼はじっとわたくしの瞳を見つめて、
「君にあの毒草を使ったことだ。本当は君には使用するつもりはなかった……使用したくなかったんだ。私は、君を操って道具のように利用もしたくない。傷付けるつもりもない。……それだけは分かって欲しい」
「…………」
すぐには返答ができなかった。驚きで言葉が詰まって、なんて応えるのが正解なのか分からなかったのだ。
アーサー様は、目的のためなら手段を選ばない冷酷で怜悧な方だと思う。
いつもの彼の双眸は、一見穏やかそうだが猛獣が暗闇の狭間から獲物をじっと見つめているような、隙ひとつない底知れぬ恐ろしさが宿っている。
でも今の彼は、雨に打たれている子犬みたいな心もとない瞳をしていて。そこには、打算や欺瞞など少しも含まれていなくて……。
一体、どちらが本当の彼なのかしら…………?
少しのあいだ二人で見つめ合ったあと、わたくしはやっとの思いで口を開いた。
「わたくしは……あなたを許せませんわ。絶対に。……しかし、貴族としての義務は果たします。これでも、ヨーク家の娘ですから」
少なくとも今のわたくしはドゥ・ルイス家に輿入れをする身で、それはヨーク家と縁続きになるということだ。気持ちは拒否をしていても、子供みたいに駄々をこねてはいけない。個人的な稚拙な感情で高位貴族としての責務を放り出すほど、自分は愚かではないつもりだった。
アーサー様は安堵したように口角を上げる。
「そうか……。公爵夫人として家の管理や社交はやって貰うが、それ以外は好きにしていいよ。妃教育は前の人生で既に完了しているからね」
「それは……どういう意味ですの?」
「深い意味はないさ。ドゥ・ルイス公爵夫人はグレトラント国の王妃よりも輝いて欲しいんだよ。単なる私のつまらない矜持さ」
「はぁ……」
肝要な部分を何も話し合うことが出来ないまま、公爵家の馬車は教会に着いた。アーサー様に手を預けて外に出る。新鮮な空気と冷たい風が心地良かった。
わたくしは、新しい婚約者と共に教会の門を潜った。
婚約式は粛々と進んでいく。
参列者は親族のみで、厳かに時が流れていた。
お父様たちはひとつも表情を崩さずに、ただ式の様子を見つめている。一方ドゥ・ルイス家のほうは、勝ち誇ったような満足そうな様子だった。
わたくしは神官の言葉が頭に入らずに、ぐるぐると前回の人生のことを考えていた。
そう言えば、第一王子との婚約式のときはどうだったかしら?
前回の人生ではわたくしだけが一人はしゃいでいて、今思えば滑稽だったわ。第一王子は終始無言で無表情で、わたくしは愛という幻想を夢見て、本当に愚かだった。
……今回はハリー殿下と婚約したかったのに、それは叶わぬ夢だったわね――……。
わたくしたちは神官から祝福を受けて、最後に二人の署名を記す。
――シャーロット・ヨーク。
わたくしは自身のサインをじっと見つめた。隣にはアーサー・ドゥ・ルイス。
並んだ二つの名前をぼんやりと眺めていると、「あぁ、本当に終わったのね」って、無機質な感想が無感動に湧き出てくるだけだった。
これで、ヨーク家は完全に王弟派閥になったのね……。
◇◇◇
「アーサー公子様、シャーロット嬢、おめでとうございます」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
無事に婚約式が終わって、夜はドゥ・ルイス家で盛大な婚約パーティーが催された。
当然、参加者は全員が王弟派。ヨーク家がこれまで没交渉だった家門ばかりなので、挨拶回りで大忙しだった。誰も彼も、話題は現王族を腐すことばかりで……正直辟易したわ。
これからは自分がこれらの家門をまとめる立場になるのだと思うと、暗澹たる気持ちになってしまった。
……いけない。わたくしは貴族としての義務は果たすのだとアーサー様に宣言したのだから、弱気になってなんかいられないのだ。しっかりしなくては。
「二つの尊き血が縁続きになる日が来ようとは……なんと目出度い」
「しかし、ヨーク家がドゥ・ルイス家と結ばれるとなると、現王家の存続する意義などあるのでしょうか」
「…………」
嫌気がする不穏な会話がまたもや耳に入って来て、覚えず眉を曇らせる。
本当に、今夜のパーティーはこればかりね。確かにここはそういう貴族たちの集まりだけど、何度も何度も同じ話を聞かされるのはうんざりだった。彼らはいつもこの話題しかないのかしら。
「高貴な血筋」という画一的な価値観だけが蔓延っている様子に、ぞっとする感覚を覚えた。
笑顔でやり過ごしていた次の瞬間、背後からふと気になる会話が飛び込んで来る。驚きのあまり一瞬だけ身体が硬直したけど、すぐに何事もないかのように平静を保った。
わたくしは令嬢たちと会話しながらも、神経をとがらせて全力で背後の会話を聞き漏らすことのないようにした。
「……これで布石は揃いましたな。あとは……」
「ですね…………もうじき公子が……」
「早く我々が……新国王が…………」
危険な会話にぞくりと粟立った。
やっぱり、王弟派は今も王位簒奪を諦めていないんだわ!
近くにいるアーサー様をちらりと見る。彼は王弟派の高位貴族たちに囲まれて談笑していた。今この瞬間も、彼らと王位簒奪計画の話をしているのかしら?
胸の奥底に押し込んでいた不信感が急激に膨れ上がってくる。公爵令息の陰謀はまだ続いているのだ。
でも、今朝の馬車での彼の言動がふと頭を過ぎって来て、わたくしは戸惑いを隠せなかった。
誠実な彼、狡猾な彼。優しい彼、冷酷な彼。それは絡まった糸のように複雑にわたくしの心を掻き乱してくるのだった。
◇◇◇
「今日はありがとう」
きらびやかな婚約パーティーが終わって、わたくしは再びドゥ・ルイス公爵家の馬車に乗って家路に就いた。
きっとヨーク家は完全に王弟派閥に入ったのだと周囲に見せ付けるためなのだろう。わたくしとアーサー様が二人きりで馬車の中にいる姿は、大勢の人々に目撃されてしまったようだ。
「疲れただろう。今夜はゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます……」
パーティーでの王弟派の不穏な会話が頭の中で反芻する。
そのことを尋ねるべきか迷ったけど、お父様やお兄様から「今後は軽率な行動は取らずに慎重に動くように」と耳が痛くなるほどに注意されたことを思い出して、わたくしはひとまず疑問を家に持ち帰ることにした。
アーサー様はわたくしを見つめながら微かに笑顔を浮かべている。
普段の理知的な彼、公爵令息としての立派な姿の彼、子供の頃に見た平民の前での冷酷な彼、わたくしの前で見せるふとした優しさ……。
またもや色んな感情が浮かんで来て、にわかに頭が痛くなった。
「っ……!」
不意に、頬に冷たいものが当たった。
我に返ると、アーサー様の手がぴたりと肌に当たっていた。
驚いて目を見開く。突然のことで身体が硬直して動かない。
彼はわたくしの瞳をじっと見つめていたかと思うと、どんどん顔が近付いて――……、
「嫌っ!」
気が付くと、わたくしは思い切り彼を突き飛ばしていた。
目が合う。
彼の双眸には落胆と悲しみが映っていて、わたくしは慌てて視線を逸らす。
鉛のような重苦しい空気が、二人の距離感を広げた。
長過ぎる沈黙。
心臓がばくばくと脈打っていて、胸の痛みが増していく。
数拍後。
「……では、私はこれで。おやすみ、シャーロット嬢」
彼はわたくしの返事も待たずに、踵を返す。
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あんなに晴れやかだった天気が、今では灰色が広がって、月を隠していた。
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