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恐怖の炎
赤き涙の雫3
しおりを挟む戦場の風は冷たく、血と鉄の匂いを運んでくる。
絵美の手の中で、天沼矛はただの金属の塊と化していた。
かつて水の刃を迸らせ敵を切り裂いたその矛は、今は力なく震える絵美の腕に重くのしかかる。
ムスペルの騎士の剣撃は、動きが鈍っているにもかかわらず絵美の心を容赦なく抉り続けた。
絵美は必死に刃を受け流し逃げようと後退するが、その瞳には恐怖と無力が滲んでいく。
(どうして……どうして、力が? 神器の力が無いと、戦えないよ!)
絵美の胸を締め付けるのは、ただの疲労だけではなかった。
自分を信じてくれた仲間の信頼が、音を立てて崩れていくような感覚に襲われる。
「くそっ! 絵美の天沼矛も、力を失ってるのかよ! 何なんだよ、これは? いきなり力が消失するなんて、聞いてねぇぞ!」
航太の叫びが、戦場の喧騒を切り裂く。
重みの増したエアの剣を握りしめ、絵美の援護に飛び込んだ航太。
その刃からも、風の力が消え失せている。
力が回復する気配は、無い。
ムスペルの騎士と一撃を交えた瞬間……エアの剣を握る航太の手に、先程までは感じなかった痺れが伝わってくる。
いとも簡単に、衝撃で後方へと吹き飛ばされる身体。
地面に叩きつけられた航太の心に、虚無感と無力感が渦巻いた。
「ちくしょう! 神剣の力が無くなったら……エアの剣の能力が無くなったら、こんなにも無力なのかよ!」
這うように立ち上がる航太。
その動きを見るムスペルの騎士の冷たく鋭い視線が、航太の心をさらに追い詰めた。
まるで、己の弱さを嘲笑うかのように心を締め付けてくる。
ガイエンを仕留めようとデュランダルを振り上げていたランカストが、航太と絵美の危機に気付いた。
ペンダントの光によって、何故か敵の動きが鈍っている。
手負いのガイエンを討つ、絶好の好機である事は間違いない。
しかし神器の力を失った航太達が、動きが鈍くなったとはいえムスペルの騎士相手に無事で済む訳がない。
ガイエンを倒せたとしても、航太と絵美を失う可能性は充分にある。
(ガイエンを逃がせば、また悲劇が繰り返されるかもしれん! だが……結局はスルトを倒さない限り、炎による攻撃は止まらない。ガイエンを倒し、仲間達への弔いにしたかったが……)
復讐の炎は、ランカストの心から消える事はない。
だがそれと同時に、今生きている仲間を守らなければならないという使命感がある。
ランカストの心は、一瞬だけ躊躇した。
それでも航太と絵美の悲鳴にも似た叫びが、ランカストの決意を突き動かす。
優先順位を決めたランカストの動きは、迷いもなく素早い。
今にも崩れ落ちそうなガイエンには目もくれず、航太と絵美に襲いかかろうとするムスペルの騎士に突撃する。
ガシィィィン!
デュランダルとムスペルの騎士の剣が激突し、火花が空間を焼き焦がす。
ベルヘイム12騎士の名を背負うランカストの剣技は、動きの鈍いムスペルの騎士を圧倒する鋭さがある。
それでも、僅かに脳裏に残るガイエンを逃がしたくないという執念……その思いが、ランカストの動きに微かな乱れを生む。
(雑念が邪魔をする……冷静になれば、今のムスペルの騎士程度! 落ち着くんだ!)
剣に雑念を混ざるのを、ランカストは必死に止めようとした。
しかし仲間達の最後の叫びを、自然と思い出してしまう。
焦りが、ムスペルの騎士1体を仕留めるのに手間取らせた。
その隙を突くように、別のムスペルの騎士がガイエンに近付く。
右胸を押さえて倒れ伏すガイエンを抱え、素早く後退を始める。
血に濡れたガイエンの顔には、なおも不敵な笑みが浮かんでいるように見えた。
それが航太とランカストの心に、新たな怒りの火を点ける。
「ガイエン! 逃げるんじゃねぇ! あれだけの事やっておいて、てめぇは死にそうになったらトンズラか? ふざけんな!」
航太の握る拳は、震えている。
無力だった自分への……そして、不利になると逃げ出すガイエンへの怒りだった。
「ガイエン! お前も騎士を名乗るなら、正々堂々と戦え!」
ランカストが咆哮するが、目の前のムスペルの騎士は一瞬の隙も見逃さない。
ランカストの意識がガイエンに向けられた事を察知すると、剣を押し合う力を利用し反動で後方へ跳ぶ。
そのまま自らの馬に飛び乗り、仲間と共に砂塵の彼方へと消えていく。
その鮮やかな逃走に、航太たちはただ立ち尽くすしかなかった。
ムスペルの騎士の背中が、まるで勝利の余韻を残すかのように遠ざかる。
「やれやれ……敵ながら、見事過ぎる撤退だな。こちらの言葉など、聞く耳もなかった」
ランカストの声は、疲労と苛立ちに震えていた。
「将軍、追撃しようぜ! 今なら、ガイエンを倒せる!」
ランカストは航太の言葉に首を横に振ると、デュランダルを鞘に収め追撃を諦める。
「航太、気持ちは分かるが無理だ。絵美の疲労もピークだろうし、ホワイト・ティアラ隊の面々を無事に隊に戻さなくてはいけない。我々だけで、戦っている訳ではないんだ。だが航太、必ずこの借りは返すぞ」
治療班の仲間達も、危険に晒してしまった。
仲間たちの憔悴した顔を見れば、無理に追うことがどれほど危険かをランカストは知っている。
幸い絵美は天沼矛の力を失う前は防御に徹していたため、身体に傷はなかった。
傷はない……だが絵美の瞳はまるで嵐の後の海のように揺れ、疲弊と不安がその顔を歪ませる。
(このまま、ずっと力が無くなるって事……ないよね。私、こんなんじゃ……智ちゃんを探す事も、仲間を守る事も……何もできないよ!)
絵美の心は、力の喪失と戦場の無情さに押しつぶされそうだった。
「ティア……あのペンダントの光のおかげで、皆が助かった。辛かったと思うが、よく耐えてくれた。礼を言う」
ランカストの言葉は優しかったが、ティアの小さな身体は震えている。
ガイエンとの再会が、ティアの心に深く暗い傷を刻んでいた。
ペンダントが放った光は、仲間を救った……同時にガイエンの影を呼び起こし、ティアの心を恐怖で縛り付ける。
エリサがそっとティアを抱きしめ、細い肩を優しく包み込む。
その温もりにティアは小さく頷くが、瞳には涙が滲んだ。
(ガイエン……主人と子供を私から奪った憎い男が、何故このペンダントの事を知っているの? 夫から大切な家族の忘形見って聞いていたのに、ガイエンは私の知らない家族の事を……知っている?)
ティアの心は過去と現在の間で引き裂かれ、深い傷が刻まれる。
誰もが、ペンダントとガイエンの繋がりを感じていた……それでもティアの傷ついた心を慮り、誰もそのことに触れようとはしなかった。
ガイエンやムスペルの騎士との戦いで誰も肉体的な傷を負わなかったのは、せめてもの救いである。
だが航太と絵美の心は、戦いの重さと力の喪失によって深く傷ついていた。
(ガイエン……てめぇだけは、絶対に許さねぇ! 次に会ったら、必ずぶっ倒してやる! そのためにも、もっと強くなんねぇと! って……そういや、エアの剣の力が……)
航太はエアの剣を握りしめ、力の喪失に苛立ちを覚える。
ランカストに力の喪失の原因を尋ねようとしたが、全身を覆う重い疲労が航太の思考を鈍らせた。
隣に立つ絵美を見ると、力なく首を振っている。
(絵美も、すっかりやられてるな……そりゃ、そうだよな。連戦だったし、精神も体力も全て削られた感じだ……)
航太の胸に、仲間への心配と自分への苛立ちが入り乱れた。
(とりあえず、今日は休もう。そして明日から、また歩き出そう。こんな状態じゃ、何やっても空回りになるだけだ……)
大きく息を吐いた航太は、腕を天に伸ばす。
疲れ切った身体から、少しだけ力を抜く。
ランカストは仲間たちを見渡し、気力を振り絞るように声を張り上げる。
「全員、無事だな! よし、幕舎に引き上げるぞ! あと少し進めば、休める。もう一息だ!」
その声には仲間を鼓舞する力強さと、自身を奮い立たせる決意が込められていた。
航太たちは、重い足を引きずりながら進み始める。
(これで、まだ移動しなきゃなんねぇんだもんな……もう、限界だぜ! こんな戦いを続けて、智美も失って……オレ達は、何をやってんだ?)
航太の心に、ふと疑問が浮かぶ。
なぜ、自分は神話の世界に足を踏み入れたのか?
なぜこの戦争に巻き込まれ、戦い続けているのか?
その答えを求める気持ちは、疲れ果てた身体と心に押し潰されそうになる。
今はただ身体を休め、心を癒したい。
その願いだけが、航太の胸の奥深くで静かに強く響いていた。
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