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現
悔しさと成長と
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春の遠足では山へ登り、夏は初めての組体操、冬は初めてのスキーと、自分の頭と耳に自信を持てばよかったと初めて強く後悔した。初めての多い年でもあった。
そのたくさんの初めてのうちの一つに、ストーカー女二人からトイレをからかわれたり付きまとわれているときに注意してくれた初めての先生で、初めての経験でもあった。
それを皮切りに穏やかな学生生活が始まったのだろうなんて思える。
遠足の時には橋の下で涼みながら休憩した。
石を川に投げる男子がたくさんいた。
私は助けてくれた子と橋の下で涼んでいたけれど、誰かの投げた石が頭に当たり、助けてくれた子と先生に心配してもらいながら、冷えピタをもらってたんこぶを冷やしながらの登山になった。
運動が全然できなくなっていたので、登山はとても辛いものだった。
息が苦しいけれど酸欠とは違った苦しさがあり、息を一生懸命吸えば吸うほどきつい状態だったのを知ったのは後になってから。
途中で挫けそうになりながらもてっぺんにたどり着いたときは感動した。
風が心地よく、見晴らしも最高で、頑張って登ったからこそ到達できたという達成感を味わうことができた。
大好きな風に包まれながら人々の喧騒から遠いここで目を閉じているのが心地よかった。
ずっといられるわけではなく帰るのが惜しかったけれど、みんなで下山していった。
そのうち、また息をするのが苦しくなり、苦しいなかで一生懸命呼吸をしているとキモいなんてことを言われているのが聞こえた。
苦しいと言っても誰も助けてくれる人はおらず、誰も返事をしてくれなかったけれど、倒れることなく学校へとたどり着いた。
中学の時にこの症状の正体を、ある漫画を教えてもらって読んだときに知ることになった。
過呼吸。
周りに過呼吸を知っている人がいなかったらしく、中学になっても気持ち悪がられたことがある症状でもある。
高校の時には大会で同じように過呼吸を発症する子がいたとき、キモいなんて言われていたから症状の解説をすると、詳しいねなんて言いながら引かれたことがある。
私の周りでは知っている人の少ない症状らしかった。
時は流れ、現代ではよく知られているのかどうか知りもしないけれど、詳しい人が増えてくれて、キモいという言葉の前に手助けしてくれる人が増えてくれたらという願いが少しだけある。
過呼吸の人には安静な状態、座らせるなどしてゆっくりと息を吐かせ、リズムの整った呼吸をさせてあげると良い。
浅い呼吸を繰り返すから血液中の酸素が濃くなって二酸化炭素が減り、二酸化炭素不足が起きることで発症する症状でもあるらしい。
ペーパーバッグ法という紙袋を用いた方法もあるけれど、高齢の方の場合酸欠になることもあるそうなので、呼吸を整えさせる方が良いそう。
苦しい思いをした中で、山の頂上での心地よい思い出は宝石のように輝いていた。
次に登るときはもっと余裕でいたいし、もっと早く登れたらもっと長くあの快適な場所にいられる。
自分の中で何かがメラメラ燃えている感覚がまた心地よく、なにかを目指して鍛練を積むのが楽しいとも思えるのだった。
話すのが下手くそで、いつも途中で決めつけられて話を聞く前に怒られたり野次を飛ばされてけなされたり、立ち去られたりすることが多かった。
しかし先生は最後まで聞いてみてと、理由も聞いてあげてやってほしいといってくれたお陰で、周りに私のことを理解してくれる人ができていって、話を根気強く聞いてもらえた。
私は私で、みんなに我慢してもらってただ根気強く聞いてもらうだけでなく、どのように話せばいいかを先生から周りの子と同じ扱い方で指南してもらえた。
要領が悪い上に言葉選びも最悪で、何を話したいのかわからないと辛口な評価を受けながら、何をどう話すか順序立てて話す練習ができた。
頭の中で整理してから話すから、テキパキとスピーディーには話せなかったけれど、めちゃくちゃすぎる話し方が多少マシなくらいにはなれたと思えたが、たまに整理しすぎて結論をポンと出したら何がどうしてその返事がきたのか、途中の過程を話さねばならなかったりもした。
会話って難しいなと思いながらも、今まで誰からも耳を傾けてもらえずに決めつけで話をされていたのが嘘みたいで、上手に会話できるようになりたいと自発的に思えて楽しくはあった。
なんにでもいえることだけれど、否定されると楽しくないだけでなく、最初からやるぞという強い気持ちがある人でない限りやりたいと思えないし、どんどん気持ちも足も遠のいていく原因なのだろうと漠然と思わされた。
否定されず、挑戦する機会をもらえて、アドバイスももらえて、少しずつ自分の状態がよくなるのを実感するのが楽しくてならなかった。
夏の組体操の練習をしていた時のことだった。
できないなりに一生懸命ついていこうと一人でやる演技を頑張っていると背中に激痛が走った。
痛すぎて思わず泣いてしまい、見学に回って悔しさを噛みしめていると、ヤクザの子に不細工だというよう吹き込まれても「それは違うと思う」と言ってみんなと一緒にブスだの不細工だの暴言を吐かずにいてくれた先輩が慰めてくれた。
すごく優しくて綺麗な先輩だった。
ふと昔のことを思い出す。
同じ地域の近所に、遠くからこちらを見て一緒に遊びたそうにしている子がいた。
二つ上の先輩で、遊びたそうにしていると思って声を掛けたらうれしそうに混ざって遊んでくれた覚えがある。
一緒に遊んでいた一つ上の少し意地悪なのか、ヤキモチ妬きなのかわからないけれど扱いの難しい子がひそひそと、私に対してあの子と遊ぶのはやめるよう言っていたけれど、私は聞かなかった。
除け者は寂しいし、みんなで遊ぶと楽しいんだってどこかで理解しているところがあって、一緒にワイワイ遊んだけれど、あんまりしつこくひそひそ言われるから遊びを解散し、二人で遊ぼうと言われたのがさらに気分悪かったのでそのまま家に帰ったこともあった。
二つ上で遊びたそうにしていた子のことは嫌いじゃなかったけれど、親御さんがなんか少し変わってるなという印象があったのと、何か抱え込んでいるのか、ごっこ遊びをしたとき少し攻撃的なごっこ遊びをされたことがあって、おうちでそういう扱いをされているのか少し心配だった。
どうにかして穏やかでのほほんとしたいつものごっこ遊びへ持っていきたかったけれど、その子は想像できなかったのか上手く運ぶことができなかった。
うちでもそんなにのほほんとした家庭ではなかったけれど、私はどういうわけか平和でのんびりしたごっこ遊びが大好きで、必ずしも家庭環境がそこへ影響しているとは限らないのではないかと思いつつも、その子の親がどんな人か少しだけでも知っていたから心配だった。
幼心にショックでもあった思い出でもある。
話が逸れたけれど、そうやって先輩に慰めてもらっていると、この人の家庭はきっと温かくて優しいのだろうなんて漠然と思っていたのが昨日のことのように思える。必ずしもそうではなかったのかもしれないけれど。
次こそはみんなと同じ速さで個人演技ができるようになりたい。
胸の内でメラメラと燃える何かが穏やかに勢いを増していき、筋トレというものを初めてやるようになった年でもある。
みんなと同じようにできなくて悔しがっていたときのことだった。
「腹筋したら?」
なんて周りのみんなから言われたのがすべてのきっかけだった。
腹筋って何?
私はこの時初めて腹筋という単語を知った。
二年生の頃には筋肉痛という言葉を知らなくて長々と話していると、話の途中で筋肉痛だろって言って話を切られることがあった。
筋肉痛って何か知らず、そのとき初めて知った単語で何度も連呼したことがあった。
それと似ているけれど、さすがに年を重ねて連呼はせずとも、腹筋というトレーニングを初めて知り、助けてくれた子に手伝ってもらいながら教室の片隅で腹筋をするようになった。
家に帰り、親にそのことを嬉々として話すと、父親が家の手伝いだけでなく、トレーニングを続けたらご褒美を出すという表を作って張り出してくれるようになった。
私はとにかく続けるのが苦手なところがあったけれど、頑張ればお金がもらえる上に鍛えることができるというのがさらにやる気に火をつけ、メラメラと燃え上がってくるのだった。
お金をくれるというだけあって、父親の用意したトレーニングは筋トレにとどまらず、とても厳しい修行メニューだった。
腹筋に加え、背筋二種類に腕立て伏せを20回10セット、厳しい基準――正しい姿勢で正しい位置まで腰を落とすもの――を採用したスクワット、マーホー――馬にまたがったポーズで中国の武人が修行するやつを父親がビデオで観て楽しんでいたものから採用したもの。スクワットの姿勢で腰を上げる前の状態を維持したやつ。いわゆる空気椅子――を一時間、指定されたコースを指定された周手足におもりをつけてランニング、父親が中国拳法のビデオから簡単な物を採用した棒術の構えと振り方――途中で振り方の種類追加あり――10セット......その他もろもろ。
自分の体力も記録も伸びていくのが楽しかった。
そのうち、組体操の個人演技ができるだけにとどまらず、立った状態からブリッジをして、そこから起き上がることができるようになった。
できることがどんどん増えていく楽しさに夢中になれた時期だった。
続ければ続けるほど報酬が吊り上がっていき、表の欄外になるまで頑張ると、父親からそれ以上はお金が増えないと言われてちょっとがっかりした覚えがあった。
武術の知識を交えながら教えてくれたからか、中国拳法の作品に興味を持つようになった時期でもある。
父親の見ているビデオに酔拳や三節棍の話があり、面白い話に夢中になりながら観た思い出だった。
酔拳のお話だと、主人公は体がボロボロになりながらお酒の力を借りて相手を倒し、エンディングではボロボロだけど勝ったぞという演出がなされていたのが懐かしい。
三節棍の話では、最初はやんちゃで悪ガキな印象の強い主人公が修行を経て人間的にも武人的にも成長していき、立派な僧侶になり、修行の過程で三節棍を発明し、旅に出て善行を重ね、活躍するお話だった。
どの話も魅力的で観ていて楽しい作品だった。
少林拳と太極拳はだいたいどの作品でもライバル関係にあるらしいことも、映画を父親と観て学べた。
父親は中国の武術に詳しく、どういう関係性なのか、太極拳は力の流れに関する拳法だとか、様々な解説を交えて話してくれて楽しく観ることができたけれど、それがエスカレートして少しうるさかったり、作品に集中できないときがあるのが玉に瑕だった。
父親の話を聞いていると、主人公として取り上げられやすい少林拳よりも、太極拳の方に強く興味を持つようになった。
力の流れをそのままに相手へ返したり、受け流すことで打ち消したり、力の流れを熟知しているように思えた上に、とても格好良くて魅力的に思えるのだった。
ヤクザだったらその好みはこれを意味するとか、人の素直な感性に勝手な意味づけをしてあれこれ言うのだろうなって思いながらも、そういう他人からの勝手な意味づけから離脱する教え方をしてもらえていた私は、主人公に据えられがちなものよりもヴィラン側になりがちなものや、自分の好きだと思ったものを誰からの意味づけもなく素直にそのまま好きだと思える感性が出来上がっていた。
ちょうどこの時期、全肯定はしないまでも、アンパンマンよりもバイキンマンのほうが好きになれていたし、戦隊ものでは主人公陣営より相手陣営のが好きだと思い始めていた時期でもあった。
バイキンマンの嫌がらせするところは嫌だけれど、ドキンちゃんに一途なところや、メカのメンテナンスをしっかりできているところ、味方がほとんどいないのに一生懸命なところが好きだと思えていた。
それに、どうして太極拳が悪い側なのかがちっともわからなかった。
確かに、少林拳のようにエネルギーを自発的には発していない、他者のエネルギーに依存しているし打ち消してしまうと言われてもおかしくないかもしれないけれど、争いごとが苦手な私にはとても好印象な拳法だった。
しかし、結局父親から太極拳の指南を受けることはなかったし、父親が使えたのかどうかもわからずじまいだ。
学べる機会があるならやってみたいと思ったものの一つだった。
できないことをできるようになりたかったこと、お金というニンジンをぶら下げられて継続したことが相まって、自分の能力の向上も楽しいのもあって、続けて頑張ることができ始めていたけれど、ある日初めて足をつってしまった。
ランニングに行く準備で靴下をはいていると、変なはきかたをしたせいか足がものすごく痛くなってびっくりして、泣きながら痛いを連呼した。
親と弟が駆け付け、足をつったんだと言われたけれど、つるが何かわからなくて、とにかく痛くて悶え苦しんだ。
伸ばせと言われても痛くて伸ばせなくて、温めながらマッサージをしてもらい、少しずつ少しずつ激痛で曲げた状態から動かせなくなった足を伸ばしていった。
少しでも伸ばしすぎるとすごく痛くて、足が麻痺したような嫌な感覚と激痛があったけれど、少しずつ少しずつ伸ばせるようになってそこからひたすらストレッチをした。
そうしてようやくストレッチをなぜ入念にするのか、ストレッチでどういう予防効果があるのか、ストレッチについてすべてではなくとも大切さを理解する入り口になる出来事でもあった。
それまでどうしてストレッチをするのかなんて一つもわからないまま、ただやらされてるだけだった。
意味や理由を知る大切さを身をもって経験したことで、ストレッチ以外にも、今まで何の気もなくやらされていたことの意味や理由を気にする入り口でもあった。
できなかったことがどんどんできるようになって、弱音を吐きながらも一生懸命続けるのが楽しくて、もらえるお金が楽しみだった。
そして初めてのスキー教室。
親にもらった毛糸の帽子がだぼだぼでずれて目元を隠してとても危ないスキー教室だった。
一番最初に学んだのは上手なこけ方だった。
横向きに倒れると手を怪我するから後ろに尻もちをつくようにとのことだった。
後になって悟ることになるけれど、これは人生においても大事な事だと思えるものだった。
何事にも上手な失敗し方と上手な立て直し方があればなんとかなるということ。
上手なこけ方というのはいわば上手な受け身とも上手な失敗し方とも置き換えて話ができると気づけるのはあとになってから、大人になってバイトをするようになってからだった。
上手な失敗のし方と立て直し方さえわかっていれば、挑戦するのが怖くないし、失敗してもなんとかなるのだ。
しかし、スキー初体験のこの年では私の視界はほぼ0だったし、怖くて滑るなんて夢のまた夢でただただ危なかった。
見えない中で吹雪に見舞われながら一生懸命帽子を上げては目元までずり落ちて視界がなくなりを繰り返し、先生の声を頼りに命からがら建物の中へ避難できた。
死ぬかと思った。
吹雪で凍り付くように冷たくなった片耳は干したイチゴみたいになっていると表現された。
家に帰ってから知ったけれど、凍傷というやつになったらしい。
ものすごく痒くてたまらなかった。
年の初めの方に虫に刺されて痒くてかいた場所の皮がめくれ、さらに日焼けしてしまったせいかパンパンに腫れて激痛が走ったこともあった。
この年は耳に受難のある年でもあったけれど、それは外側だけで中の方はどんどん鋭くなっていくのを感じ取れた。
小さな物音を拾って何の音がどっちから聞こえたか話して当てることができると、周りからすごいなんて言ってもらえて少しだけ嬉しいのだった。
人一倍耳が良くなったように思えて、ちょっと誇らしい自分がいたのは否定しない。
話を耳からスキーの話に戻すと、スキーで全然滑れなかったのが悔しくて、毛糸のこの帽子のことは忘れまいと心に誓いもした出来事だった。
冬にある図画工作で自分の選択を突き通して、周りの多数に流されるべきじゃなかったと後悔した出来事の一つが起きた。
先生の話を聞いたとおり、黒を残したい部分に鉛筆で線を引いたり塗りつぶしたりし、鉛筆の線がない部分を針で削るというものだった。
聞いたとおりに削っていると、保育所で蜂に刺された子が鉛筆の部分を削るのだと、違うことしてるよなんて言ってくるのだった。
私は削ったところに色を塗るのだと言ってたよと伝えたけれど、周りの人も鉛筆のところ削ってるよなんていって見せられて、自分が間違ってるのかと思わされた。
しかし、それを聞いたからなのかわからないけれど、先生に確認した子がいて、鉛筆の部分を残すので間違いないのだとはっきりもう一度いってもらえた。
まだ取り返しのつく段階だったので、線として残したい部分を柔軟に削ってカバーすることができた。
なにかあっても柔軟に対処すればなんとかなるという経験を積めた出来事でもあり、自信を持っていればと、不安だったりわからなかったら確認をすれば良かったのだと後悔をした出来事でもあった。
似たような出来事で、行事の思い出を綴り、イラストを添えてプリントを提出をしたことがあった。
先生にモノクロ印刷になるから色鉛筆で塗っても意味がないと言われたけれど、私は敢えて色鉛筆でイラストを添えて提出した。
先生は話を聞いてなかったのかと頭ごなしにいうことはなく、まずモノクロで印刷するといったことを聞いていたかどうかの確認からはいってくれた。
そのお陰で、敢えて色鉛筆を使ったことを伝えることができて、どうして色鉛筆を使ったのか理由を話すこともできた。
白黒印刷をしたとき、色鉛筆の色合いによって黒や白の度合いが変わるのを期待してのことだった。
白黒で自分なりに色の強弱をつけても良かったな、なんて今では思う。
先生が変わり、穏やかな気持ちでいられたお陰で、排除されなかったお陰で得られた宝の山のようなたくさんの経験だった。
じゃんけんで負けたらお皿を全部運ぶというものにも参加したことがあった。
決まった曜日にだけ参加し、毎回勝ち抜けていたけれど、ある女の子とじゃんけんになったときに問題が起きた。
相手がパーで私がチョキを出したけれど、私のチョキは人差し指と中指がくっついたチョキで、それはチョキじゃなくてグーになるなんていう聞いたことのないルールで負け扱いにされそうになった。
チョキはチョキだと、負けていないと主張して食器を持っていくのを拒否すると、みていた先生は全員それぞれ自分のを持っていくようにと指示をだした。
みんな不平不満を言いながら持って行ったので、恨みを買っててもおかしくないと思ったけれど、開いてないハサミはハサミじゃないわけではないので、やはりチョキはチョキに違いないというのが私の考えだった。
このときのじゃんけん相手の子は次の学年で私の書道道具の一つを捨てちゃう子でもある。
いろいろな経験をした一年だった。
そのたくさんの初めてのうちの一つに、ストーカー女二人からトイレをからかわれたり付きまとわれているときに注意してくれた初めての先生で、初めての経験でもあった。
それを皮切りに穏やかな学生生活が始まったのだろうなんて思える。
遠足の時には橋の下で涼みながら休憩した。
石を川に投げる男子がたくさんいた。
私は助けてくれた子と橋の下で涼んでいたけれど、誰かの投げた石が頭に当たり、助けてくれた子と先生に心配してもらいながら、冷えピタをもらってたんこぶを冷やしながらの登山になった。
運動が全然できなくなっていたので、登山はとても辛いものだった。
息が苦しいけれど酸欠とは違った苦しさがあり、息を一生懸命吸えば吸うほどきつい状態だったのを知ったのは後になってから。
途中で挫けそうになりながらもてっぺんにたどり着いたときは感動した。
風が心地よく、見晴らしも最高で、頑張って登ったからこそ到達できたという達成感を味わうことができた。
大好きな風に包まれながら人々の喧騒から遠いここで目を閉じているのが心地よかった。
ずっといられるわけではなく帰るのが惜しかったけれど、みんなで下山していった。
そのうち、また息をするのが苦しくなり、苦しいなかで一生懸命呼吸をしているとキモいなんてことを言われているのが聞こえた。
苦しいと言っても誰も助けてくれる人はおらず、誰も返事をしてくれなかったけれど、倒れることなく学校へとたどり着いた。
中学の時にこの症状の正体を、ある漫画を教えてもらって読んだときに知ることになった。
過呼吸。
周りに過呼吸を知っている人がいなかったらしく、中学になっても気持ち悪がられたことがある症状でもある。
高校の時には大会で同じように過呼吸を発症する子がいたとき、キモいなんて言われていたから症状の解説をすると、詳しいねなんて言いながら引かれたことがある。
私の周りでは知っている人の少ない症状らしかった。
時は流れ、現代ではよく知られているのかどうか知りもしないけれど、詳しい人が増えてくれて、キモいという言葉の前に手助けしてくれる人が増えてくれたらという願いが少しだけある。
過呼吸の人には安静な状態、座らせるなどしてゆっくりと息を吐かせ、リズムの整った呼吸をさせてあげると良い。
浅い呼吸を繰り返すから血液中の酸素が濃くなって二酸化炭素が減り、二酸化炭素不足が起きることで発症する症状でもあるらしい。
ペーパーバッグ法という紙袋を用いた方法もあるけれど、高齢の方の場合酸欠になることもあるそうなので、呼吸を整えさせる方が良いそう。
苦しい思いをした中で、山の頂上での心地よい思い出は宝石のように輝いていた。
次に登るときはもっと余裕でいたいし、もっと早く登れたらもっと長くあの快適な場所にいられる。
自分の中で何かがメラメラ燃えている感覚がまた心地よく、なにかを目指して鍛練を積むのが楽しいとも思えるのだった。
話すのが下手くそで、いつも途中で決めつけられて話を聞く前に怒られたり野次を飛ばされてけなされたり、立ち去られたりすることが多かった。
しかし先生は最後まで聞いてみてと、理由も聞いてあげてやってほしいといってくれたお陰で、周りに私のことを理解してくれる人ができていって、話を根気強く聞いてもらえた。
私は私で、みんなに我慢してもらってただ根気強く聞いてもらうだけでなく、どのように話せばいいかを先生から周りの子と同じ扱い方で指南してもらえた。
要領が悪い上に言葉選びも最悪で、何を話したいのかわからないと辛口な評価を受けながら、何をどう話すか順序立てて話す練習ができた。
頭の中で整理してから話すから、テキパキとスピーディーには話せなかったけれど、めちゃくちゃすぎる話し方が多少マシなくらいにはなれたと思えたが、たまに整理しすぎて結論をポンと出したら何がどうしてその返事がきたのか、途中の過程を話さねばならなかったりもした。
会話って難しいなと思いながらも、今まで誰からも耳を傾けてもらえずに決めつけで話をされていたのが嘘みたいで、上手に会話できるようになりたいと自発的に思えて楽しくはあった。
なんにでもいえることだけれど、否定されると楽しくないだけでなく、最初からやるぞという強い気持ちがある人でない限りやりたいと思えないし、どんどん気持ちも足も遠のいていく原因なのだろうと漠然と思わされた。
否定されず、挑戦する機会をもらえて、アドバイスももらえて、少しずつ自分の状態がよくなるのを実感するのが楽しくてならなかった。
夏の組体操の練習をしていた時のことだった。
できないなりに一生懸命ついていこうと一人でやる演技を頑張っていると背中に激痛が走った。
痛すぎて思わず泣いてしまい、見学に回って悔しさを噛みしめていると、ヤクザの子に不細工だというよう吹き込まれても「それは違うと思う」と言ってみんなと一緒にブスだの不細工だの暴言を吐かずにいてくれた先輩が慰めてくれた。
すごく優しくて綺麗な先輩だった。
ふと昔のことを思い出す。
同じ地域の近所に、遠くからこちらを見て一緒に遊びたそうにしている子がいた。
二つ上の先輩で、遊びたそうにしていると思って声を掛けたらうれしそうに混ざって遊んでくれた覚えがある。
一緒に遊んでいた一つ上の少し意地悪なのか、ヤキモチ妬きなのかわからないけれど扱いの難しい子がひそひそと、私に対してあの子と遊ぶのはやめるよう言っていたけれど、私は聞かなかった。
除け者は寂しいし、みんなで遊ぶと楽しいんだってどこかで理解しているところがあって、一緒にワイワイ遊んだけれど、あんまりしつこくひそひそ言われるから遊びを解散し、二人で遊ぼうと言われたのがさらに気分悪かったのでそのまま家に帰ったこともあった。
二つ上で遊びたそうにしていた子のことは嫌いじゃなかったけれど、親御さんがなんか少し変わってるなという印象があったのと、何か抱え込んでいるのか、ごっこ遊びをしたとき少し攻撃的なごっこ遊びをされたことがあって、おうちでそういう扱いをされているのか少し心配だった。
どうにかして穏やかでのほほんとしたいつものごっこ遊びへ持っていきたかったけれど、その子は想像できなかったのか上手く運ぶことができなかった。
うちでもそんなにのほほんとした家庭ではなかったけれど、私はどういうわけか平和でのんびりしたごっこ遊びが大好きで、必ずしも家庭環境がそこへ影響しているとは限らないのではないかと思いつつも、その子の親がどんな人か少しだけでも知っていたから心配だった。
幼心にショックでもあった思い出でもある。
話が逸れたけれど、そうやって先輩に慰めてもらっていると、この人の家庭はきっと温かくて優しいのだろうなんて漠然と思っていたのが昨日のことのように思える。必ずしもそうではなかったのかもしれないけれど。
次こそはみんなと同じ速さで個人演技ができるようになりたい。
胸の内でメラメラと燃える何かが穏やかに勢いを増していき、筋トレというものを初めてやるようになった年でもある。
みんなと同じようにできなくて悔しがっていたときのことだった。
「腹筋したら?」
なんて周りのみんなから言われたのがすべてのきっかけだった。
腹筋って何?
私はこの時初めて腹筋という単語を知った。
二年生の頃には筋肉痛という言葉を知らなくて長々と話していると、話の途中で筋肉痛だろって言って話を切られることがあった。
筋肉痛って何か知らず、そのとき初めて知った単語で何度も連呼したことがあった。
それと似ているけれど、さすがに年を重ねて連呼はせずとも、腹筋というトレーニングを初めて知り、助けてくれた子に手伝ってもらいながら教室の片隅で腹筋をするようになった。
家に帰り、親にそのことを嬉々として話すと、父親が家の手伝いだけでなく、トレーニングを続けたらご褒美を出すという表を作って張り出してくれるようになった。
私はとにかく続けるのが苦手なところがあったけれど、頑張ればお金がもらえる上に鍛えることができるというのがさらにやる気に火をつけ、メラメラと燃え上がってくるのだった。
お金をくれるというだけあって、父親の用意したトレーニングは筋トレにとどまらず、とても厳しい修行メニューだった。
腹筋に加え、背筋二種類に腕立て伏せを20回10セット、厳しい基準――正しい姿勢で正しい位置まで腰を落とすもの――を採用したスクワット、マーホー――馬にまたがったポーズで中国の武人が修行するやつを父親がビデオで観て楽しんでいたものから採用したもの。スクワットの姿勢で腰を上げる前の状態を維持したやつ。いわゆる空気椅子――を一時間、指定されたコースを指定された周手足におもりをつけてランニング、父親が中国拳法のビデオから簡単な物を採用した棒術の構えと振り方――途中で振り方の種類追加あり――10セット......その他もろもろ。
自分の体力も記録も伸びていくのが楽しかった。
そのうち、組体操の個人演技ができるだけにとどまらず、立った状態からブリッジをして、そこから起き上がることができるようになった。
できることがどんどん増えていく楽しさに夢中になれた時期だった。
続ければ続けるほど報酬が吊り上がっていき、表の欄外になるまで頑張ると、父親からそれ以上はお金が増えないと言われてちょっとがっかりした覚えがあった。
武術の知識を交えながら教えてくれたからか、中国拳法の作品に興味を持つようになった時期でもある。
父親の見ているビデオに酔拳や三節棍の話があり、面白い話に夢中になりながら観た思い出だった。
酔拳のお話だと、主人公は体がボロボロになりながらお酒の力を借りて相手を倒し、エンディングではボロボロだけど勝ったぞという演出がなされていたのが懐かしい。
三節棍の話では、最初はやんちゃで悪ガキな印象の強い主人公が修行を経て人間的にも武人的にも成長していき、立派な僧侶になり、修行の過程で三節棍を発明し、旅に出て善行を重ね、活躍するお話だった。
どの話も魅力的で観ていて楽しい作品だった。
少林拳と太極拳はだいたいどの作品でもライバル関係にあるらしいことも、映画を父親と観て学べた。
父親は中国の武術に詳しく、どういう関係性なのか、太極拳は力の流れに関する拳法だとか、様々な解説を交えて話してくれて楽しく観ることができたけれど、それがエスカレートして少しうるさかったり、作品に集中できないときがあるのが玉に瑕だった。
父親の話を聞いていると、主人公として取り上げられやすい少林拳よりも、太極拳の方に強く興味を持つようになった。
力の流れをそのままに相手へ返したり、受け流すことで打ち消したり、力の流れを熟知しているように思えた上に、とても格好良くて魅力的に思えるのだった。
ヤクザだったらその好みはこれを意味するとか、人の素直な感性に勝手な意味づけをしてあれこれ言うのだろうなって思いながらも、そういう他人からの勝手な意味づけから離脱する教え方をしてもらえていた私は、主人公に据えられがちなものよりもヴィラン側になりがちなものや、自分の好きだと思ったものを誰からの意味づけもなく素直にそのまま好きだと思える感性が出来上がっていた。
ちょうどこの時期、全肯定はしないまでも、アンパンマンよりもバイキンマンのほうが好きになれていたし、戦隊ものでは主人公陣営より相手陣営のが好きだと思い始めていた時期でもあった。
バイキンマンの嫌がらせするところは嫌だけれど、ドキンちゃんに一途なところや、メカのメンテナンスをしっかりできているところ、味方がほとんどいないのに一生懸命なところが好きだと思えていた。
それに、どうして太極拳が悪い側なのかがちっともわからなかった。
確かに、少林拳のようにエネルギーを自発的には発していない、他者のエネルギーに依存しているし打ち消してしまうと言われてもおかしくないかもしれないけれど、争いごとが苦手な私にはとても好印象な拳法だった。
しかし、結局父親から太極拳の指南を受けることはなかったし、父親が使えたのかどうかもわからずじまいだ。
学べる機会があるならやってみたいと思ったものの一つだった。
できないことをできるようになりたかったこと、お金というニンジンをぶら下げられて継続したことが相まって、自分の能力の向上も楽しいのもあって、続けて頑張ることができ始めていたけれど、ある日初めて足をつってしまった。
ランニングに行く準備で靴下をはいていると、変なはきかたをしたせいか足がものすごく痛くなってびっくりして、泣きながら痛いを連呼した。
親と弟が駆け付け、足をつったんだと言われたけれど、つるが何かわからなくて、とにかく痛くて悶え苦しんだ。
伸ばせと言われても痛くて伸ばせなくて、温めながらマッサージをしてもらい、少しずつ少しずつ激痛で曲げた状態から動かせなくなった足を伸ばしていった。
少しでも伸ばしすぎるとすごく痛くて、足が麻痺したような嫌な感覚と激痛があったけれど、少しずつ少しずつ伸ばせるようになってそこからひたすらストレッチをした。
そうしてようやくストレッチをなぜ入念にするのか、ストレッチでどういう予防効果があるのか、ストレッチについてすべてではなくとも大切さを理解する入り口になる出来事でもあった。
それまでどうしてストレッチをするのかなんて一つもわからないまま、ただやらされてるだけだった。
意味や理由を知る大切さを身をもって経験したことで、ストレッチ以外にも、今まで何の気もなくやらされていたことの意味や理由を気にする入り口でもあった。
できなかったことがどんどんできるようになって、弱音を吐きながらも一生懸命続けるのが楽しくて、もらえるお金が楽しみだった。
そして初めてのスキー教室。
親にもらった毛糸の帽子がだぼだぼでずれて目元を隠してとても危ないスキー教室だった。
一番最初に学んだのは上手なこけ方だった。
横向きに倒れると手を怪我するから後ろに尻もちをつくようにとのことだった。
後になって悟ることになるけれど、これは人生においても大事な事だと思えるものだった。
何事にも上手な失敗し方と上手な立て直し方があればなんとかなるということ。
上手なこけ方というのはいわば上手な受け身とも上手な失敗し方とも置き換えて話ができると気づけるのはあとになってから、大人になってバイトをするようになってからだった。
上手な失敗のし方と立て直し方さえわかっていれば、挑戦するのが怖くないし、失敗してもなんとかなるのだ。
しかし、スキー初体験のこの年では私の視界はほぼ0だったし、怖くて滑るなんて夢のまた夢でただただ危なかった。
見えない中で吹雪に見舞われながら一生懸命帽子を上げては目元までずり落ちて視界がなくなりを繰り返し、先生の声を頼りに命からがら建物の中へ避難できた。
死ぬかと思った。
吹雪で凍り付くように冷たくなった片耳は干したイチゴみたいになっていると表現された。
家に帰ってから知ったけれど、凍傷というやつになったらしい。
ものすごく痒くてたまらなかった。
年の初めの方に虫に刺されて痒くてかいた場所の皮がめくれ、さらに日焼けしてしまったせいかパンパンに腫れて激痛が走ったこともあった。
この年は耳に受難のある年でもあったけれど、それは外側だけで中の方はどんどん鋭くなっていくのを感じ取れた。
小さな物音を拾って何の音がどっちから聞こえたか話して当てることができると、周りからすごいなんて言ってもらえて少しだけ嬉しいのだった。
人一倍耳が良くなったように思えて、ちょっと誇らしい自分がいたのは否定しない。
話を耳からスキーの話に戻すと、スキーで全然滑れなかったのが悔しくて、毛糸のこの帽子のことは忘れまいと心に誓いもした出来事だった。
冬にある図画工作で自分の選択を突き通して、周りの多数に流されるべきじゃなかったと後悔した出来事の一つが起きた。
先生の話を聞いたとおり、黒を残したい部分に鉛筆で線を引いたり塗りつぶしたりし、鉛筆の線がない部分を針で削るというものだった。
聞いたとおりに削っていると、保育所で蜂に刺された子が鉛筆の部分を削るのだと、違うことしてるよなんて言ってくるのだった。
私は削ったところに色を塗るのだと言ってたよと伝えたけれど、周りの人も鉛筆のところ削ってるよなんていって見せられて、自分が間違ってるのかと思わされた。
しかし、それを聞いたからなのかわからないけれど、先生に確認した子がいて、鉛筆の部分を残すので間違いないのだとはっきりもう一度いってもらえた。
まだ取り返しのつく段階だったので、線として残したい部分を柔軟に削ってカバーすることができた。
なにかあっても柔軟に対処すればなんとかなるという経験を積めた出来事でもあり、自信を持っていればと、不安だったりわからなかったら確認をすれば良かったのだと後悔をした出来事でもあった。
似たような出来事で、行事の思い出を綴り、イラストを添えてプリントを提出をしたことがあった。
先生にモノクロ印刷になるから色鉛筆で塗っても意味がないと言われたけれど、私は敢えて色鉛筆でイラストを添えて提出した。
先生は話を聞いてなかったのかと頭ごなしにいうことはなく、まずモノクロで印刷するといったことを聞いていたかどうかの確認からはいってくれた。
そのお陰で、敢えて色鉛筆を使ったことを伝えることができて、どうして色鉛筆を使ったのか理由を話すこともできた。
白黒印刷をしたとき、色鉛筆の色合いによって黒や白の度合いが変わるのを期待してのことだった。
白黒で自分なりに色の強弱をつけても良かったな、なんて今では思う。
先生が変わり、穏やかな気持ちでいられたお陰で、排除されなかったお陰で得られた宝の山のようなたくさんの経験だった。
じゃんけんで負けたらお皿を全部運ぶというものにも参加したことがあった。
決まった曜日にだけ参加し、毎回勝ち抜けていたけれど、ある女の子とじゃんけんになったときに問題が起きた。
相手がパーで私がチョキを出したけれど、私のチョキは人差し指と中指がくっついたチョキで、それはチョキじゃなくてグーになるなんていう聞いたことのないルールで負け扱いにされそうになった。
チョキはチョキだと、負けていないと主張して食器を持っていくのを拒否すると、みていた先生は全員それぞれ自分のを持っていくようにと指示をだした。
みんな不平不満を言いながら持って行ったので、恨みを買っててもおかしくないと思ったけれど、開いてないハサミはハサミじゃないわけではないので、やはりチョキはチョキに違いないというのが私の考えだった。
このときのじゃんけん相手の子は次の学年で私の書道道具の一つを捨てちゃう子でもある。
いろいろな経験をした一年だった。
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