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本当に攫いたいのは初恋の君
第五話
しおりを挟む「なにしてるんだろ、私……」
すっかり日は暮れている、それでも街の明かりが明るいシャンゼリゼ通りを歩きながら琴はそう呟いた。
感情的になって加瀬の止める声も聞かず出て来てしまった事を申し訳なく思いながらも、まだ彼のいる家に帰る気にはなれない。
あの家から攫ってくれただけでも十分感謝しなくてはいけないと分かっている。そのうえ加瀬は父の優造や旅館の事まで気にかけていてくれた。
今までの自分ならそれ以上望んだりしなかったはずなのに、と琴は悩んでいる。
「いつの間にこんなに欲張りになっちゃったのかな? 志翔さんが優しいから」
加瀬は可哀想な自分に同情して攫ってくれたに違いない、彼は何だかんだと思いやりのある人だから。きっとあの時、旅館の庭で泣いているように見えた自分を放ってはおけなかったのだろう。
そう考えれば、琴の胸がズキズキと痛む。心のどこかで琴も加瀬に特別扱いされているのではないかと期待していたから。
加瀬がいつから初恋の君を想い続けていたのかは知らない、それでも少し前に出会ったばかりの自分では勝ち目なんてないはずだ。
やはり聞かなければよかった、いまさらそう思ってもきっと好奇心が勝っていつかは聞いてしまっていたに違いない。
「駄目よね、誰かの所為にしちゃ。でも、これからどうしよう……」
薄着のまま出て来てしまって、少し肌寒くもある。それでもどんな顔をして加瀬の待つ家に帰ればいいのか、琴はまだ迷っている。
だが、そんな時に限って冷たい何かが琴の頬を濡らし始めていく。
「……雨?」
こういう時に限って雨が降ってくるなんて本当にツイていないと琴は思う。どこかの店に入ろうにも財布すら持ってこなかった。
雨脚が強くなる前にどこかで雨宿りをしなくてはと思うのに、何故だか妙に身体が重くて走る気になれない。
実家にいる時はどんな理不尽な事にも黙って耐えることが出来ていたというのに、これくらいの事で家を飛び出してしまうなんて自分らしくない。そう分かっているのに、なぜかあの時だけは我慢出来なかった。
琴にとって加瀬にずっと思い続けている女性がいたことはそれほどショックだったのだ。
「冷たい、もう帰りたい……」
加瀬の元へ、そう心は望んでいるのに気持ちの整理が出来ない。妻は自分なのだから堂々としていればいいのかもしれない、そう開き直れる強さが琴にはなかった。
もし自分が妻だとしても、もし加瀬の初恋の君が現れたらどうなる? その時自分はもう用済みになるのではないかという不安に襲われて。
雨に濡れて身体から体温が奪われていく、冷えていくのは身体だけでなく心もだ。琴の頬を濡らすのが雨なのか涙なのか区別がつかくなってきた頃……
「琴!」
今、一番名前を呼んで欲しいと思っていた相手の声が聞こえてきた。それも随分と焦っている様子で。
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