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第5話② もう一人の『最強』 

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 鏡面のようなコンクリートを蹴って、ゴッ太郎は男に向かってまっすぐ走り出した。十メートル、五メートル――ぐんぐんと距離は近付いていく。直にゴッ太郎の射程圏内に入るというのに、それでも男は相変わらず、一歩たりとも動かずに座り込んだままだ。

 近付けば近付くほど大きく見えるその男は、膝立ちなのにゴッ太郎と身長がほぼ変わらない。こんなにデカい人間は見たことがない。

 捉えた――!

 ゴッ太郎は男を射程に捉えるほんの直前、前跳びを見せた。ゴッ太郎が相手を吸い込む為には、体の重心を回さなければならない。今までは地面で重心を回し、その後最後に重心を上に回していた――つまり、相手の目の前で一度無防備に跳躍する必要があった。
 しかしゴッ太郎は気付いたのだ。跳んでいる最中に重心を回してしまえば、無防備に跳ぶ必要はない。立ち回り改良版、名付けてジャンピングパイル!

「いい跳躍だ――だが、甘い」

 射程ギリギリを狙って跳んだゴッ太郎の肉体は、ほぼ狙いの位置通りに着地する。跳びの頂点から身体が落下を始めたその時、初めて男は動いた。動いたのは、眼球だった。目が合ったのである。青い瞳が、ゴッ太郎に語りかけていた。

 ――今からお前を、落とす。

 号――。

 ゴッ太郎に届いた変化は、音だった。鞭を振り回したような風を切る音、次いで電磁波のような肌を震わせる衝撃。ゴッ太郎は目を疑う。眼の前の男は一歩も動いていない。動いていないのに、既に動き終わった後のような――残心。侍が一刀を切り払った後に見せるような余韻の表情。

「行くぞ」

 後数センチ、数センチで地面に届く。届けば、ゴッ太郎の吸い込みの射程に入る。間もなくこの『座った男』を捉えることができる。できれば、勝てる――。ゴッ太郎は守りを捨てた。止まって負けるくらいなら――一歩でも前へ。前のめりに突っ込んだ身体には、なおも目の前から吹き上がる『圧』が壁のように立ちはだかっていた。

 どうして、俺は、勝利目前なのにこんなに圧倒されてるんだ……?

「くらえっ」
「ムーン――」

 男の身体が、動いたのだろうか。ゴッ太郎はその瞬間、男が二人に分身したような錯覚に囚われた。ほんの一呼吸前まで座っていた男が、今は自分の顎を蹴っている――。稲妻が落ちたような瞬撃と、空気の断層がズレたような痺れ、その衝撃が顎から脳に走った時、既にゴッ太郎の足は地面から遠く離れていた。

「スレイッ!」

 顎に引っかかった踵は、恐ろしいことにもう一段階加速を秘めていた。背中が弓反りになり、ゴッ太郎の肉体はプロペラみたいに回った。圧倒的な威力を秘めたはずの蹴りの一撃は、だが、

「がああああああああああッッっ」

 コンクリートに転がったゴッ太郎は両の手を地面について、必死に勢いを殺すと奥歯を噛み締めた。生傷が開き、血液が吹き出す。悔しい――。手応えでわかる、先程の一撃には手加減があった。一発で意識を飛ばすことだって、殺すことだってできたはずだ。でも、そうしなかったのは、『そうするに値しない』と値踏みされたからだ。

「手加減、すんじゃねえぞこのジジイがッ!!! もう一回だ……!!! てめえぜったい埋める――! ふうぅう――ッ」

 怒り心頭に達したゴッ太郎は、真っ直ぐと男へ走り込んだ。空がダメなら、今度は地上だ。しっかり固めた足元は、逆に言えば移動ができない。まっすぐとぶつかりあえば、勝機は十分に見える。

 生ぬるい風が脇を抜けていく中、ゴッ太郎は零春が負けた時に『殺せ』と呟いた理由がわかった気がした。本気も見えていない、全力を出せたわけでもない。まだ何もしていない相手に負けて、その上手加減されるとなると、これほどの侮辱はない。だがゴッ太郎が零春と違ったのは、『殺せ』ではなく『殺す』という強い怒りが外に向かったことだった。

「いいですか。御鈴波のご令嬢」

 男は、御鈴波に許可を求めた。

「……ええ、イーグル。やりなさい。どうせいつか超えなければならない壁よ」
「Yes,ma'am.仰せのとおりに」

 ゴッ太郎を迎え撃つように、イーグルと呼ばれた男はしゃがんだ。
 構えは変わらない。

「ゴッ太郎、君と語るのはこの後にしよう。いい戦士ウォリアーになれる男だ」

 五メートル。
 屋上の面は、ちょうど一メートル単位で線が引かれ、碁盤の目のようになっている。ゴッ太郎の走っている時の歩幅は一メートル半。つまり、後二歩で射程に入る。青筋を立てて激昂しつつも、ゴッ太郎の脳は冷静に戦術を組み立てていた。

「ナメて動かないんならよォ~~~、これなんてどうだァ?」

 射程一歩前で歩みを止めたゴッ太郎は、いつの間にか拾い上げて背中に隠していたシャツを男に向かって投げつけた。動かないなら、動かないなりに対策してしまえばいい――そこにいるなら、蓋してしまえばいい。見えない内に気持ちよく殴れば、さっきまでの鬱憤も綺麗に晴れるだろう。

「決まったァ、頂きィ!」

 ふわり、シャツが男の顔に向かって投げつけられて、視線が遮られた。ゴッ太郎は拳を構える。見えなければ、さっきのインチキな蹴りを打つタイミングも計れまい。となれば、ストレートで殴り飛ばして守らせなければ良い。

 筋肉を直列に繋いだゴッ太郎は、細胞一つ一つから供給される全ての酸素をエネルギーに変換した。今度はゴッ太郎が男に恐怖を味合わせる番だ。拳の照準を合わせる。収縮と脈動で溜まったエネルギーの安全弁は開放されていた。

 筋肉の超電磁加速砲レールガンのトリガーは、既に引かれている。動かないのであれば、その壁をぶち抜くまで。わざわざ隙を見せる必要もない。

「いくぜェ!」

 薄い布の向こう側、影がぴくりと動いた。ゴッ太郎は確信する。既に遅い。今から予備動作に入る程度では、拳の方が先に届く。無策な殴り合いなら分があるかもしれないが――戦闘とは全てを使う争いだ。競技ではなく、生命の削り合い。その紙一重において、化かし合いは番狂わせを起こしうる。

 ゴッ太郎はこれまで、何度となく『格上』との戦いに勝利を収めてきた。その引き立て役となったのは、いずれもここ一番でろうする策、勝利の為のプランニングであった。

 固められた拳は大口径のフルメタル・ジャケット弾のような、鉄板でもぶち抜きそうな高い音を伴って射出されていた。全体重が乗ったまっすぐと落ちる拳は、無言で佇むその男の影が映るシャツをまず射抜いた。

 空中に浮かんだ心もとない薄皮一枚、それを容易く破り抜くほどの速度と切れ味。ゴッ太郎の拳は、敗戦から成長している。
 直後、ゴッ太郎の背中には冷たいカミソリの刃が急に当たったような、背筋を這い寄る本能的な恐怖を感じた。それが目の前のシャツの向こうから漂うものだと分かったのは、ゴッ太郎が自らシャツを撃ち抜いたからである。

「いい策だ――ここまで生き残ってきただけのことはある。ゲリラの少年兵のような強かさだ。だが、まだ甘い」

 破れたシャツの隙間から、男と目が合った。冷たい瞳はまっすぐとこちらを見つめたまま、まったくぶれていない。
 直後だった。再び肉に埋まった骨と肌が震えるような振動が辺りに響き、風向きが変わった。相変わらず汗ばむ熱気が全身を覆っているのに、本能的な恐怖が強制的に身体を冷却している。
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