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第1話

始まり(6)

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 海面が大きく膨れ上がる。表面が弾けると、ずぶ濡れになった巨大な獣が現れた。ドルクに一撃で海に沈められた獅子型魔獣の姿だった。忌々しそうに喉を鳴らしながら砂浜へと上がる。

 獣の横には半裸の男が立っていた。浅黒い筋肉質の上半身は何も纏っておらず、下は膝下まである遊泳用パンツを履いていた。

 さながら波乗りのような風貌の男は海から上がってきた魔獣の背中に飛び乗る。魔獣が首を振り回し、たてがみを濡らす海水をを払う。飛沫が飛び散り背中に乗っている男にも降り注ぐ。男は両手を広げて飛沫の雨を受ける。

「んハァッ!」

 側頭部に剃りこみが入った髪を掻き上げ、男は白い歯を見せて笑った。

「海くせぇ田舎臭ぇ面倒臭ぇ。こんな辺鄙なところまで来させられるたぁ、逆に笑えてくるぜ」

 笑えると言った直後、男は真顔となり魔獣を見下ろす。

「今度はしっかりやれよおい。次しくじったらマジで沈めるからな」

 砂浜を進みながら、魔獣が返事代わりに鼻を鳴らす。波乗り男の恫喝に凶暴な魔獣が萎縮しているように見えた。

「ほんとにいる!」

「上に人が」

「まさか奴は」

 村のほうからぞろぞろとやって来た老若男女の一団が獣と男を見て口々に騒ぎ立てる。アーチたちである。魔獣の上にふんぞり返る男が、一団の中にいるドルクを見てにやりと笑った。

「獲物のほうからお出ましか。手間が省けて助かるぜ」

「貴様が魔族の手先か」

 ドルクが前に出る。

「てめぇが元英雄か。有難く思えよ、このヴァンテラ様が老いぼれの処分をしに来てやったぜ」

「生憎、その老いぼれにも最後のひと仕事が残っていてな」

「遠慮はいらねぇ。大人しく休んでろよ──棺桶の中でな!」

 ヴァンテラと名乗った男は手に持っていた横笛を構えた。右の手の甲にひし形の魔石が埋め込まれていて、血液のように赤黒いそれが怪しい光を放つ。

 笛が奏でられると甲高い不快な音色が響き渡る。魔獣が腹の底に響くほどの遠吠えを上げて突進を仕掛けてきた。

 速い。最初の襲撃のときを明らかに凌駕する速度で、魔獣が急激に距離を詰めてくる。

 だが英雄は微塵も動じていない。

「ヴァーエイルよ、再び私と共に──」

 右手に聖剣を、左手に核の魔石を掲げる。鍔の窪みに魔石を嵌め込もうとすると──

 バチイッ! と魔力の抵抗が発生し両者の接近を拒否した。

「何っ!?」

 弾かれた剣と魔石がドルクの手から砂浜に落ちる。

 眼前に魔獣が目前に迫っていた。

「もらったぁッ!」

 鋭利な爪が振り下ろされる。ドルクは横に飛び退き紙一重で回避する。しかしわずかに爪が肩を掠め、肩口から鮮血が噴出した。

「ぐっ!」

 傷口を押さえ片膝を付くドルク。

「ドルク! 何が起きた!」

「ヴァーエイルが拒絶した……? 今の私では相応しくないというのかっ……」

 剣が答えることはない。元所有者の問いかけに対し冷徹な沈黙を貫いていた。

「ドルク逃げて!」

 パラァが飛翔し魔獣の上の男に突っ込んでいく。顔の前で飛び回り攪乱する。

 ヴァンテラが舌打ちをし腕を振り回す。

「鬱陶しいんだよ!」

 振り回した腕がパラァに命中。呆気なく吹き飛ばされた。

「きゃあっ!」

 アーチは自分のいるほうに飛んできたパラァをキャッチする。手の中でパラァが「うぅ……」と小さく呻いた。

 小さい。手のひらの中に納まるフェアリーの少女はあまりに小さく、軽かった。人間がその気になったらどうとでもできてしまいそうなのは想像に難くない。

 か弱く脆い命。それを簡単に傷付けるなんて──。

 アーチの胸の奥から沸々と何かが沸き上がってきた。

「この子は頼んだ」

 アーチはロウルにパラァを預ける。

「アーチまさか」

「そのまさかだよっ!」

 言うやいなや駆け出していた。

 今日はこんなことやってばっかだな、とアーチは心の中で自嘲した。

「なんだぁテメェ!」

 ヴァンテラが突っ込んでくる女を見て、すぐに手負いの標的に目を戻す。どちらを優先して対応するべきか判断しかねていた。

 その一瞬の迷いが隙となった。アーチは走ったまま剣と魔石を拾い上げ、魔獣の背後に逃げていく。

「こっちだ筋肉野郎!」

「なんだとぉ?」

 安い挑発に乗り魔獣ごと振り返る筋肉男。これでドルクがすぐに襲われることはない。

「無茶だ!」

 デフトンの叫びは波音に流されていく。

 アーチの目には覚悟が宿っていた。

 一か八かだ。

「聖剣だがなんだか知らないけど、こんなときに選り好みすんな! 大人しく──力を貸せええええええっ!」

 アーチは剣に叩きつけるような勢いで魔石を振り下ろした。鍔の窪みに翡翠色の玉石がぴったりと嵌め込まれ、魔石と聖剣が一体となった。

 この瞬間、〈聖剣ヴァーエイル〉が幾星霜の時を経て復活を遂げた。

「おもしれぇ。死に損ないのジジィを相手にするより楽しめそうだぜ!」

 ヴァンテラが笛を吹き魔獣がアーチ目掛けて猛進してくる。

 アーチは聖剣を構え、

「……で、これどうやって使うの?」

「おらぁっ!」

 爪の攻撃を回避すると、アーチは砂浜を逃げ回った。

「ちょっと待ってちょっと待って! どうすりゃいいのこれ!」

「逃げんじゃねぇコラ!」

 勢いで剣を拾ったものの、性能や能力を一切把握していないのなら聖剣とて無用の長物だ。

「〈符律句フリック〉だ! アーチ! 〈符律句〉の印を魔石に刻むのだ!」

「〈符律句〉を?」

 デフトンから説明された途端、アーチの中ですべてが繋がった。

 幼い頃から稽古と称して毎日のように繰り返し書かされてきた〈符律句〉。忘れたくても忘れられないくらい体に染みついた動き。ひとつひとつの〈符律句〉が表す意味までも記憶している。

 そして聖剣。かつて世界を救った英雄の愛器として使われていた最強の武器。魔石。マジェット。魔法。〈符律句〉を刻む。これらの関係が示すことは。

 ──そうか、そういうことだったんだ。

 アーチは走りながら、剣を握る右手の親指を翡翠色の魔石に添える。

「〈符律句〉第一番、起動の相!」

 添えた親指をまっすぐ左にスライドさせ横一文字を描く。すると魔石に輝きが灯った。

「〈符律句〉第二番、鋭利の相!」

 右から左へ。さっきとは逆方向の一文字を描くと、剣の刀身に光が駆け抜ける。砂浜を踏みしめて後方へ反転。迫り来る敵を眼前に捉えながら、さらに左、上、と魔石に刻む。

「〈符律句〉第三番、疾風の相!」

 剣を振り下ろすと、強烈な衝撃波が放たれた。間近で直撃した魔獣をヴァンテラもろとも吹き飛ばした。

「どわぁっ!?」

「わっ!?」

 ──と同時にアーチ自身も反動で飛ばされた。ぺっぺっと砂を吐きながら立ち上がる。

 あれほど巨大な魔獣が吹き飛び砂浜に転がっていた。

 アーチは自分が握るヴァーエイルを驚きの顔で見つめる。

「これが聖剣の……〈符律句〉の力……」

 これこそが〈符律句〉の真の役目。〈符律句〉とは、聖剣の魔法を発動させるためのものだったのだ。

「早く起きやがれ。さっさとあの女を始末すんだよ!」

 ヴァンテラが横たわる巨体を蹴けり、笛を奏でる。不快な音色が響くと魔獣が起き上がり突進を仕掛けてきた。

 だがアーチはもう恐れることはない。魔石に再び第三の相の〈符律句〉を刻む。

「はぁっ!」

 二発目の衝撃波を放つ。

「同じ手は食わねぇ!」

 魔獣が横に飛び退き迂回して距離を詰めてくる。アーチがもう一度衝撃波を放とうとすると、魔獣が突如反転し、うしろ脚で砂を蹴り上げた。

「うわっ!」

 大量の砂をかけられ目に入ってしまう。視界が遮られ目が開けられないでいると、

「アーチうしろだ!」

 ロウルの叫びが聞こえた。言われるままに振り返り辛うじて薄目を開くと、大きく開かれた魔獣の口内が見えた。

 背筋に悪寒が走る。身をよじり寸でのところで牙をかわすが、大きな体躯までは避けられず体当たりを食らってしまった。

「くあっ!」

 アーチは大きく突き飛ばされ、波打ち際に落下した。横たわる体にさざ波が追い打ちをかけてくる。
 波乗り男が下卑た微笑を浮かべた。

「オレのマジェット〈ピールーヒュー〉は魔獣を意のままに操ることができる。ただ突っ込んでくるだけと思うなよ」

「馬鹿な。たしかにそのマジェットには野生の動物を手懐ける力があるが、魔獣を操れるほど強力なものではなかったはず」

 負傷に跪くドルクが疑問を投げると、ドルクが得意顔で右手を掲げた。手の甲に埋め込まれている赤黒い魔石がギラリと光る。

「その通りだぜ死に損ない。本来ならガキの玩具程度の能力しかないマジェットでも、魔族の力を借りればこの通り強力な武器になるってわけだ。おもしれぇだろ?」

「愚かな。そんなものに頼れば、身体にどれだけの負担がかかるか……」

「知ったこっちゃねぇ。オレは今この瞬間が楽しけりゃそれでいいのさ……っと、無駄話をしすぎたな」

 ドルクとヴァンテラが問答をしている間もアーチはなかなか起き上がれなかった。突き飛ばされた痛みが予想以上に大きかった。

「くっ……」

 剣術を身に付けていようとも、聖剣を握ろうとも、所詮は戦闘経験のない村娘でしかないのだ。痛みへの耐性がなかった。

「もう終わりか? つまらねぇなぁ」

 魔獣の大きな影がアーチを覆う。唾液に塗れた牙を剥き出しにし、その凶器を柔肉に突き立てる瞬間を待っていた。

「……終わりだ」

 ヴァンテラが笛を奏でると、魔獣が大口を開いて襲い掛かる。
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