邪魔者は消えますので、どうぞお幸せに 婚約者は私の死をお望みです

ごろごろみかん。

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1巻

1-2

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 そのまま地面に嘔吐えずいていると、音が遠くなってきた。
 頭がグラグラする。ぐわんぐわんと視界が揺れた。ふと手首を見ると肌が泡立っていた。
 鳥肌がひどい。硬い地面に手をつきながら、その冷たさから冬が近づいてきたことを知る。
 その時くらりと頭がまた揺れた。平衡感覚へいこうかんかくが薄い。貧血ひんけつみたいな症状も出てきて、さすがに少し焦る。その時、不意にそっと肩に何かが触れた。

「!!」

 まさか私に言い寄ってきた男が触れてきたのか。
 こんなに吐いている私に触れるなんて、一体どんな神経をしているの。
 私は思わず顔を上げて――
 そして、固まった。

「大丈夫か? きみ、落ち着いて」

 目の前にいたのは知らない男だったからだ。
 誰、この人……
 いつからいたの? どこから見てたの?
 歳は、恐らく私とそう変わらない。
 溶かし込んだような金糸は暗い路地裏ろじうらであってもよく分かる。輝くようなエメラルドの瞳をマジマジとみて、この人は恐らく階級の高い生まれなのだろうなとなんとなしに思った。
 未だに小刻みに嘔吐えずきを繰り返しながらも見つめていれば、その人の表情がじわじわと固くなっていった。

(……なに?)

 眩しいほどの白金の髪はあまり目に優しくない。
 それに、知らない人は怖い。男の人はもっと怖い。
 こわい、こわい……こわい。
 私はヒューヒューと細くなる息を吐きながら、のろのろと顔を上げる。周りの人の視線が集まっていることに気がつく。
 全く、情けなくもみっともない。無様だ。無様すぎて涙が出る。
 好奇こうきな視線に晒されて、私は自嘲じちょうする。
 さて、ここからどうしようか。そう思った時、思考に被さるように声が聞こえてきた。

「ルド、こいつどーするよ」

 見れば、また見知らぬ男が増えている。新たに増えた男は、白金の髪を持つ男に話しかけていた。
 私はふらつきながら立ち上がった。
 そうすれば、目の前の男も私を支えるようにしながら立った。
 未だ、私の肩には白金の男の手が置かれている。触れられている肩が不快で、さっとその手を振り払った。あっさりとその手は外れた。
 ルドと呼ばれた白金の髪の男は、呼びかけた男に答えた。

憲兵けんぺいにでも突き出しとけ。淑女しゅくじょへの暴行未遂だ」

 彼がそう言うと、いつの間に地面に転がっていたのか先程の熊男が野太い声で叫んだ。

「な、何もしてない! まだ何も‼ 勝手にそいつが吐いたんだ!」

 耳が痛い。うるさい。

「……」

 その通りだった。だけど手は握られていたし、路地裏ろじうらにだって連れ込まれた。
 それは何もしていないに入るのか。入るのだろうか?
 でも、もう、どうでもいい。だって今更だ。私は黙って聞いていた。
 結局、私は十年経っても、異性と触れ合うことすらできない。
 触れれば否応なく拒否反応が出て、無理をすれば吐き戻す。一時期吐きすぎて歯がボロボロになったことがあった。ガーネリアは酷く泣いていた。
 ばからしくて、情けなくて、みっともなくて、悲しくて。感情がぐるぐる回る。
 ぐるぐるぐるぐる。
 あの出来事があったせいで、今私はこうしている。
 あの時、さらわれなければ。
 いっそ、公爵家に生まれず平民として生まれていたならば。
 ……もっと私は幸せだっただろうか?
 少なくとも男に怯えて暮らすことも、触れられただけで吐くこともなかっただろう。
 可哀想だ。リリネリアという女は、可哀想だ。 
 そしてそれは、私ではない。

(……だから、私は可哀想、なんかじゃない)

 ぐるぐるぐるぐる。思考がまとまらない。私も存外、混乱しているのだろう。
 出口を失った熱が涙という形になって現れた。ぽろりと熱いしずくがこぼれる。
 悲しくて泣いてるのではない。怖くて泣いているのでもない。
 ただ、みっともないから。自分が可哀想で、哀れで。不憫ふびんで笑ってしまう。
 壊れた感情回路からこぼれた涙は地面に染みを作った。ヒートした熱を処理するためにそれが水という形になっただけ。

「……みっともないな。エレン、早く連れていけ」

 ルド、と呼ばれた男が命じた。
 手馴れた様子で命じる彼を見るに、やはり特権階級の人間なのだろう。
 エレンと呼ばれた男は茶髪なのだろうか。
 暗くてよく分からないが、少し長い襟足えりあしを前に持ってきて、ひとつで縛っていた。幼い少年のようなあどけなさを残しているその顔は、整っている一方で女癖が悪そうにも見える。
 やがてこちらを振り向いたルドと呼ばれた男は、私の涙に気がついて酷く戸惑った様子を見せた。
 こんなの、ただの生理現象なのに。
 気遣ってもらう必要はない。私は目を閉じると指先で簡単に涙のしずくを振り払った。
 そして、ルドと呼ばれた男を見る。

「ありがとうございました」
「いや……。助けに入るのが遅れてすまなかった。お嬢さん、お怪我は?」

 お嬢さん、なんてキザな言葉を告げる。彼は随分背が高かった。それでも威圧感や圧迫感はないのは、どこかこの男の線が細いからだろう。
 しっかりとした飾りの服からは分からないが、その腰は思ったより細いのかもしれない。重厚な作りの服は、騎士服きしふくのようだった。白地に金のラインが入っている。

「ありません。ありがとうございます」
「そう……。なら、良かった。僕は辺境へんきょう騎士きしのルド。こっちは同僚どうりょうのエレン」
「……エリザベートです」

 自己紹介する必要性などないように感じたが、助けられたのだから私も挨拶するべきだろう。
 名前を告げると、目の前の男の眉が僅かに寄った。
 ああ、ルド、だったか。繊細せんさいな顔立ちの彼は随分まつ毛もながい。
 したまつ毛が長いせいか、美人という言葉がぴったり当てはまるような気すらする。
 こんなに綺麗な顔をしていても彼は男なのだ。
 そう思うとどうしようもない癇癪かんしゃくに見舞われた。
 女だから、こんな目に遭う。
 女だから、搾取さくしゅされそうになる。
 先ほど私に言い寄ってきた男だって、どうせ私が【女】だから口説いてきたのだろう。
 私が女でさえなければ、声をかけるのも恐れる無骨ぶこつな男だったなら。
 私は、自分の女性という性が憎くて仕方なかった。女である意味なんてない。
 必要がない。恋をしない、壊れた私には。
 女という性を捨ててしまいたかった。
 髪を切り、胸をえぐり、顔を潰してしまいたくなった。
 そうすれば、不埒ふらちな男たちは減るだろうか。
 いや、ああいったやからは顔なんて関係なかったりするのだ、意味がない。
 そういえば、髪を切ろうとして、ガーネリアにやめさせられたことがあった。あの時は髪を切ろうとしたナイフが滑り、耳が少し切れたのだった。
 熱湯を顔にぶつけようとしたこともあった。
 だけどそれもまたガーネリアに止められた。
 熱湯は宙を舞い、薔薇ばらを飾った瓶にかかった。
 薔薇ばらは、熱い湯がかかり萎れてしまった。

「エリザベートさん。ここはあまり治安が良くない。お宅までお送りしますよ」
「……結構です、ありがとうございました」

 考えにふける私にルドという男は提案してきたが、そう言って路地裏ろじうらから抜け出した。
 助けて貰ったとはいえ、別段家まで送って貰う必要はない。路地裏ろじうらにいるのだってあの男に連れ込まれたからなだけだ。腕力の差が憎い。力がないことが悔しい。
 いつだって私は弱い人間で、弱い人間というのは、強い人間に蹂躙じゅうりんされるものなのだ。


    ★


 ――レジナルド・リームヴは十歳のあの日に、全てを失った。
 二つ下の婚約者、リリネリアは無邪気むじゃきでよく笑う少女だった。
 レジナルドによく懐いており、ご本を読んでとせがまれたものだ。
 レジナルドとリリネリアは生まれながらの婚約者だった。レジナルドは屈託くったくなく笑うリリネリアが好きで、政略結婚が故の婚約者とは思えないほどよく一緒にいた。
 太陽のような少女だった。朗らかであたたかくて、可愛かった。
 初めて出会った時のリリネリアは泣いていた。
 顔合わせに連れてこられたはずのリリネリアがいない、と当時は騒ぎになり、王太子の自分まで駆り出されてリリネリアを捜す羽目になった。
 その時たしか、自分は僅か六歳で、リリネリアは四歳だったはずだ。
 紹介の場から逃げ出すような少女が一体どんな顔をしているのか気になって、意気込んでレジナルドはリリネリアを捜した。
 リリネリアを見つけたのは偶然だった。
 父王から言付けられているリリネリアの容姿を手がかりに庭を見ていると、緑と緑の間にふわふわした蜂蜜色はちみついろの髪を見つけた。まさか、と思って近づいてみれば、それはリリネリアだった。
 リリネリアは泣いていた。ひとりで紹介の場から逃げ出した少女は広い城内で迷子になり、こころ細くて泣いていたのだ。

「きみ、リリネリア?」
「だれ……」

 リリネリアは真っ赤に腫らした目をしながらもレジナルドを見た。リリネリアの目はさながらうさぎのようだった。レジナルドはもう一度リリネリアに聞いた。

「僕はレジナルドだよ。きみはリリネリアだね」
「わたし……うん……リリネリア」

 まだ幼い四歳の少女はそれだけ言った。
 一生懸命紡ぎ出したたどたどしい言葉に、レジナルドは胸がふわりとした。
 多分、それがレジナルドの初恋だった。
 レジナルドはリリネリアを見つけて、父王の所に連れていくことはしなかった。
 そのかわり、自分もリリネリアのそばに座り、ふたり見つかるまでずっと話をしていた。
 なぜリリネリアが紹介の場から逃げ出したかと言うと、蝶を見つけたからだという。
 白いふわふわした蝶を見て、すぐに絵本を想起そうきしたそうだ。
 まだ幼い少女はその絵本の内容を嬉々ききとしてレジナルドに語った。

「さいごはね、おうじさまとむすばれるのよ! それで、ずーっとしあわせになるの!」
「それが、絵本の内容?」
「ないよう?」
「あ、えーと。絵本のお話?」
「うん! そうよ! おひめさまと、おうじさまはずーっとしあわせになるの! それでね? おかあさまがね。いうのよ。わたしもしあわせになれるって。そういうほしのめぐりあわせ? なんだって!」

 たどたどしい口調で“ほしめぐわせ”という彼女は、その単語を母から教えて貰ったのだろう。
 教えられた言葉をそのまま使う彼女に苦笑しつつも、レジナルドは胸がいっぱいだった。
 レジナルドは彼女のふわふわした蜂蜜色はちみついろの髪を手に取って、口付けた。
 柔らかい、シナモンのような甘い匂いがした。

「そうだね。リリネリア……リリィは幸せになれるよ。僕が幸せにしてあげる」
「りりぃ?」
「きみのことだよ。ねぇ、僕のことはレジーって呼んで」
「レジー?」
「うん。そうだよ、リリィ」

 庭の片隅で、ふたりはそうやってお互いの将来の話と、約束をしていた。
 レジナルドは初めて抱いたこの柔らかな感情を大切に、大事に大事にしようと思った。
 それから、ふたりはずっとこんな感じで、変わらずに関係を続けていた。

「あのね、お家の薔薇ばらが綺麗に咲いたの!」

 ちょうど、あの事件が起きる一年前だっただろうか。
 リリネリアは幸せそうに笑って、その頬をバラ色に染めた。
 リリネリアとのお茶会は楽しい。リリネリアと会うのも楽しみだが、リリネリアが可愛くはしゃいでいるのを見るのがレジナルドの楽しみだった。

「そうなんだ。赤?」
「ええ、そうなのよ! ねぇ、レジー。赤の……薔薇ばらの花束に意味があるのは知っていて?」
「花束に?」
「あっ、違うわ! 花束じゃなくて、本数! 薔薇ばらの本数によって意味が変わるの!」
「……へぇ、知らなかった。リリィは物知りだね。僕にもその意味を教えて?」

 もちろん、その意味は知識として知っている。
 だけどあえて知らないふりをして、嬉々ききとして知識を披露するリリネリアを見ていたかった。水を向ければ、リリネリアは楽しげに話を始めた。

「ふふ。あのね。一本の薔薇ばらは一目惚れ、なんですって! 可愛いと思わない?」
「へぇ、じゃあそうなんだ」

 一目惚れ――。まさしく、レジナルドのことだった。
 レジナルドはリリネリアを見て一目で、恋をしてしまったのだから。激しい恋情れんじょうというよりも、穏やかで、優しくて、絶対的な愛情。
 レジナルドにとって、リリネリアは全てだった。

「二本は、世界……世界で……えーと」

 だけど、リリネリアは全ての意味を網羅もうらしているわけではなかったらしい。
 たどたどしく知識を披露するリリネリアの頭に?マークが浮かんでいく。
 レジナルドはそれを見て、笑みを浮かべながらリリネリアに助け舟を出した。

「世界でひとつだけ、とか?」
「違うわ。もっと二人だけの……あっ、そうだわ、この世界は自分とあなただけ、っていう意味!」
「へぇ、素敵だね」

 そうしながら全ての薔薇ばらの知識を、レジナルドの助言を得ながら披露したリリネリアに、レジナルドは笑みを浮かべた。偶然にも今日は薔薇ばらの花びらが浮かんだ紅茶だった。もしかしたら、リリネリアは紅茶を見て薔薇ばらの本数の持つ意味について思い出したのかもしれない。
 全て話し終えて満足そうにするリリネリアに対し、レジナルドは蜂蜜はちみつの混ざった紅茶をかき混ぜていった。レジナルドは甘いものが好きじゃなかった。
 甘い顔立ちをしながら、甘いものを受け付けられなかったのだ。
 それでも、紅茶に蜂蜜はちみつを浮かべる意味は、ただひとつ。
 蜂蜜はちみつがリリネリアの髪を思い出させるからだ。
 レジナルドの白金色の髪よりも黄金味が強く、太陽の光のような色。まさしくリリネリア本人のようで、レジナルドはそれが好きだった。
 甘いものを一切受け付けないレジナルドが唯一口にするのが蜂蜜はちみつだった。

「じゃあ、今度僕がリリィに薔薇ばらの花束を贈るね」
「本当⁉ ロマンチックね!」

 幼い時に読んだ絵本の影響なのか、リリネリアは成長してからも恋愛小説が好きだった。
 それも、王子様と結ばれるようなハッピーエンドのものが。
 リリネリアの好きな小説の話を聞くのも、レジナルドは好きだった。
 恋愛小説はいまいち何が楽しいのかよく分からないが、とにかくリリネリアが楽しそうにしているのを見るのが好きだったから。

「何本? 何本の薔薇ばらをくれるの?」
「そうだな……百本の薔薇ばら、とかどう?」
「百? 百は、えーと……」

 百本の薔薇ばらの意味は、百の愛。
 だけどレジナルドは渡す時に一本だけその花束から薔薇ばらを抜き取って、リリネリアに渡すつもりだった。そうすれば、九十九本の薔薇ばらと一本の薔薇ばらになる。
 九十九本の薔薇ばらの意味は、永遠の愛。
 一本の薔薇ばらは一目惚れ。両方、自分のこころそのものだ。
 だけどそれを今からリリネリアに言うつもりもない。何より恥ずかしい。レジナルドはまだ九歳の少年だった。気取ったことをするには、まだ年齢が足りない。

「ずっと一緒にいようね、って意味だよ」
「……そんなの、あったかしら?」

 そんな花言葉、あっただろうかと目を丸くするリリネリアに、レジナルドは笑ってみせた。

「あるんだよ。だから、その時は受け取ってね」

 レジナルドの言葉に、リリネリアはふわりと花が開いたような笑顔を見せた。花開くような柔らかな笑顔が、レジナルドは大好きだった。リリネリアは手を合わせながらレジナルドに答えた。

「もちろんよ! そしたら、その時は――」


    ☆


 ハッとして目を覚ました。
 気がつけば、朝のようだった。
 レジナルドは呆然と目を開けながらも息を吐いた。外はまだ暗い。溜息をつきながらベッドから起き上がると、冷たいものが耳に触れた。触れば、それは涙だった。

「……は」

 どうやら自分は夢を見ながら泣いていたようだと知る。女々しい自分にため息がこぼれた。
 あれから十年。二十歳を迎えてなお、彼は過去を振り切ることができなかった。
 まだ太陽すら昇っていない時間帯。寝室は薄暗く、肌寒さを彼に運んだ。


 あの後――庭で彼女に薔薇ばらを送ってから、一年後。
 彼女は、ある日突然はかなくなった。
 あの日のことは未だに忘れられない。
 突然、レジナルドは国王に告げられたのだ。

「リリネリアがこの世を去った」

 ――と。
 最初、レジナルドは父王が何を言っているのか理解できなかった。
 だけど何度も繰り返されるうち、ようやく理解した。
 ただ、理解はしても、意味がわからなかった。納得できなかった。
 リリネリアが死んだ?
 誰よりも、何よりも大切にすると誓った、あの少女が? あの少女が、死んだ? 
 ……ひとは、そんなにも呆気なく、儚くなるものなのだろうか?
 なぜ、リリネリアが。どうして、そんなことに?
 レジナルドの頭の中にぐるぐるとそればかりが駆け巡る。父王はレジナルドを心配そうに見て、ゆっくりと状況を説明した。
『一週間前にリリネリアは儚くなった。
 風邪をこじらせ、肺炎を引き起こしたことが原因だった。
 レジナルドは立太子りったいしの儀があって忙しかったから、話すのを控えていた。
 夏場だから遺体の傷みが早い。既にリリネリアの遺体は火葬かそうに処した』と。
 リリネリアが風邪を患い、遠方で療養りょうようしていることは聞いていた。見舞いに行こうと何度も思ったが、立太子りったいしの儀のほか、公務が立て込んでいて時間が取れなかった。
 そして、リリネリア本人からも調

「リリネリアのことを想うなら、彼女のことはもう忘れなさい」

 父王の言葉は、レジナルドにリリネリアの死を受け入れさせるためのそれだった。
 そして、レジナルドは十歳のその日――
 何よりも大切な少女を失ったのだ。
 あれからレジナルドは感情の何かを失った気がした。
 大切な、何にも変え難いものを失った。
 なぜもっと早くに教えてくれなかったのかと父王を詰った。
 死を目前にして、リリネリアは怯えただろう。怖がっただろう。
 その時、なぜ近くにいてやれなかったのか――
 レジナルドは深く、後悔していた。
 あの日。あの夏の日。レジナルドはこの世でいちばん大切なものを失った。
 もうそれは戻らないのだ。不思議と涙は出なかった。
 ただひたすら、悔いだけが残った。
 レジナルドは、リリネリアの死に目にも立ち会えなかったのだ。
 上辺だけいつも通りの毎日を取り繕って、それでもひとりになると、ぼうと考え込む日が続いた。
 そうして、リリネリアが死んでから、いつの間にか十年が経過していたのだ。


    ★


「兄さん、大丈夫?」

 五歳年下の弟アレックスは、リリネリアと一緒にいるレジナルドを見たことがない。
 そのため、兄がなぜこんなにふさぎ込んでいるのか、よくわかっていなかった。
 元から気が難しいひとなのかな、ともアレックスは考えたが、王宮務めの人間は、

『昔は絵に描いたような王子様だった』
『娘たちの夢想する王子様像そのまま』
『光の王子様、といった言葉がそっくりそのまま当てはまるような方だった』

 ……と次々に口にした。
 アレックスは、にわかには信じられなかった。今とは正反対ではないか、と。
 兄の婚約者が早逝そうせいしたことはアレックスも知っていたが、もう十年も前の話だ。弟として、過去に囚われず、前を向いて生きて欲しいと願っていた。

「何が?」

 レジナルドは、アレックスの心配の理由がわからないようで眉を寄せた。
 こうして、話している分には何も問題ないように見えるのだ。
 だけど違う。レジナルドは、ふとした瞬間にどこか遠くにこころを奪われたような表情を浮かべる。
 笑っていても、それは愛想笑いに過ぎないとすぐにわかる。
 アレックスは、兄の、こころからの笑顔というものを見たことがなかった。

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