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3.剣とチェス
しおりを挟む翌日から、ルーンは買ったばかりの白いシャツにブラウンのズボンとブーツという出で立ちでランド邸に現れた。ぼさぼさのぱさぱさだった髪もそれなりに梳かされ、顔も薄汚れていない。昨日に比べると格段に見られる状態になっていた。
「おはようございます、ヴォーレフさま。今日からよろしくお願いします」
「……もう来たのか」
十時にと言ったはずなのに、九時過ぎに来たルーンは、まず先に暖炉を掃除した。灰を集め、一部を傍にあった入れ物にいれて暖炉に薪をくべる時に使うためのもの、一部をキッチンへ持って行って皿などを洗浄する際に使うためのものと分けた。それが終わると玄関前と勝手口を軽く掃いてきれいにし、それから昼食の準備に取り掛かった。昨日と同じスープをとヴォーレフが注文したため、ルーンはスープを作り、貯蔵庫にあったというハーブで鶏肉を少し焼いた。パンも添えてヴォーレフの前に運ばれてきたのは昼の一時頃のことだった。
「ここに来ている間は、俺が飯を食う時はお前も食え。作る時も、お前の分も一緒に作れ」
昨日と同じやりとりを繰り返すのは面倒だ。自分が食べている間、ガリガリの子どもが腹を鳴らしながら部屋の隅に控えているのも気分が悪い。でもと口ごもるので、自分の分を持って来いとせっつくと、ありがとうございますと頭を下げて、ルーンは自分の分を用意した。痩せた子どもは、ヴォーレフの向かいで幸せそうに頬を紅潮させて、パンをひときれと少しのスープ、鶏肉のハーブ焼きをひとかけ食べた。
腹も満たされ、そうなると次は二時から三時までは休憩の時間になった。
「休憩……ですか」
「三時までに戻れば、街に出てもいい」
別に三時になにかしら用があるわけではないが、一応雇っているので、それなりの示しをつけなければいけない。食後のワインを傾けながら言うと、ルーンは少し考えたように斜め下を見て、そうだと声をあげた。
「お屋敷を周ってきてもいいですか?」
「好きにしろ」
許可を与えるとルーンはぱたぱたと居間を出て行ったが、すぐにまた戻ってきた。
「ヴォーレフさまの寝室はどちらですか? 換気をしたいんですが……」
「昨日はソファで寝た」
「そんな! 二階の一番奥の大きなお部屋に、立派なベッドがありましたよ」
「寝るのなんかどこでもいい」
戦場を駆け回っていたヴォーレフからすれば、壁と屋根があればどこでも眠れる。多少寒くても暖炉も近くにあるし、これまで過ごしてきた隙間風が容赦なく入ってくる兵舎に比べれば、この屋敷は格段に暖かいのだ。
今夜もそのままソファで寝てしまうつもりだったが、ルーンは食い下がってきた。
「ですが、風邪をひいてしまいます。整えますから、今夜からは二階でおやすみください」
「勝手にしろ」
よく動いてよく働くルーンは、結局休憩しなかった。二階に駆け上がると、ヴォーレフですら足を踏み入れていなかった二階の一番奥にあるやたら広い部屋を整えてくれた。帰り際には、ベッドで寝てくださいね、と念押しされて、その日からヴォーレフはベッドで寝起きするようになった。
毎日あれやこれやと屋敷のことを尋ねられ、仕方がないので一緒に屋敷中を歩き回ってみると、どうやらここは、貴族が払い下げた屋敷らしかった。やたら広くて天井が二階まで吹き抜けになっている広間と図書室、応接間、居間と食堂は別で、他に上下階合わせて居室が七つある。そのうちの一つがヴォーレフの寝室だった。
毎日毎日、ルーンは屋敷中を掃除していた。元々他の屋敷で勤めていたというだけあって、様々なことに気付いて、怠けることなく働く。さっき窓を拭いていたかと思えば、門から玄関までに灰を撒いて雪を融かしていたり、かと思えば部屋が乾燥しているからと暖炉の上に水を張った鍋を置いて、その脇で野菜の皮むきをのんびりしていたりもする。見ていて飽きないほど動き回るルーンを横目にしながら、けれどヴォーレフは日がな一日することもなく、ただただ怠惰に過ごしていた。
金はあるし、衣食住にも困っていない。生活の世話はルーンがやってくれる。毎日暇を持て余し、ルーンに言いつけて買ってこさせた新聞を読んだり、ひとりでチェスに興じたりしていた。けれど、それでも時折疼くように体が動き、庭でひとり、剣を揮ってみたりなどするが、相手もいなければ、磨いた剣技を披露するようなことはもうない。そう思うと苛立ちとも寂しさともつかない複雑な感情がじっとりと胸を苛んだ。
そんな日々が続いてひと月ほど経ったある日のことだった。
昼食を終えてからは一時間の休憩に入るルーンがそろりと傍に寄ったことに、新聞を読んでいたヴォーレフは気付いた。
普段から、世間話に興じるほどの交流はない。聞かれれば答えるし、用事があれば声をかけることもあるが、特にそれ以外で話すこともない。互いにちょうどいい距離がおかれていると思っていただけに、ヴォーレフはテーブルをはさんで向かいに座り込んだルーンに驚きながらも、それを悟らせないまま目の前の少年を凝視した。
「ヴォーレフさま。お願いがあるんですが」
「なんだ」
ルーンが日頃、あれやこれやと何かを求めてくることはない。一体なんだろうかと頭を巡らせるが、日払いにしている給金に関しては満足しているようだし、ヴォーレフもあれこれと用事を言いつけることもないので、自分のペースで仕事をこなしているようにも見える。それでも彼自身、思うところがあって辞めたいなどと言うのではと考えていると、ルーンは俯きがちになりながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの……ヴォーレフさまさえよろしければ、チェスを教えていただきたいんです」
「……チェス?」
思いもよらない言葉に思わずおうむ返しに呟くと、ルーンはせわしなく両手のひらを胸のあたりで左右に振った。
「ご面倒でしたらすみません、忘れてください」
「チェスを教えてほしいのか」
「あの……ご面倒でなければ……」
おそらく、ヴォーレフがぼんやりとひとりでチェスをしているのを何度か見たのだろう。教えるのは確かに手間だが、ルールさえ覚えれば、暇つぶしの相手を得られる。
「紅茶をいれてこい。その間に準備する」
「はっ、はいっ」
ばさりと新聞を閉じながら言うと、ルーンは子犬のように駆け出した。ヴォーレフがチェステーブルを暖炉の前に移動させ、その隣にサイドテーブルを置いたり椅子を持ってきたりと準備をしていると、トレイにティーセットをのせたルーンが戻ってくる。カップが一個しかないので、もう一個持って来いとキッチンに戻らせてから、チェス講座は始まった。
チェスを教えてみると、思いのほかルーンは飲みこみが早かった。二日ほどかけてじっくり教えたあとは、たまに駒の動作を確認する程度で、あとは自分で駒を動かせるようになった。それからというもの、昼食を終えた後は少し休んで、それから一戦交えることが日課になった。ひとりでやり続けるのにも早々飽きていたヴォーレフにとって、ちょうどいい相手だった。
やがて雪が融け、ルーンがヴォーレフに雇われて三ヶ月が経過したころには、初めのころは負け越しだったルーンも稀にヴォーレフに勝つようになった。チェスをしている間は、自然と他愛ない会話もするようになった。
白と黒の駒を動かしながらそれぞれが語る話は多岐に渡り、ルーンが自分のことを語ったこともあった。
「僕、生まれはここではないんです。三つ向こうの街で生まれたんですけど……両親が移民だったらしくて。親戚とかもいないんです」
「家族は」
「父と二人暮らしです。でも今は体を壊しちゃって、仕事も出来なくて……。だから、ヴォーレフさまが雇ってくださってから、すごく生活が楽になったんです。本当に、ありがとうございます」
「礼を言うくらいなら猛攻をやめろ。俺のナイトを返せ」
「それとこれとは別ですから」
楽しげに笑いながら、ルーンはチェスの駒を動かしていく。こんな他愛もない会話を重ねていくうちに、最初のころはおどおどとしていたルーンにも笑顔が見られるようになった。
そばかすの散った鼻のあたりを少し紅潮させて笑う姿は幼い。年齢を聞いたことはなかったが、体格的には十歳かその程度だ。しかし精神的にはしっかりしている。
不思議な子どもだと思いながらヴォーレフがクイーンの猛攻の隙をかいくぐってチェックメイトと呟くと、目の前で笑っていた小さな挑戦者は、子どもらしくそんなあと大げさに嘆いた。
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