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しおりを挟むふと、誰かに呼ばれたような気がして薄く開いた瞼の向こうを、ひらりきらりと、細くたなびく光の筋が視界の端を落ちていく。
ごく短く小さなそれはどこからともなく現れて、少しの風もない中をゆらゆらと揺れながら漂ったあと、手垢と年月によって変色した紙面に横たわる。ふっと息を吹きかけると、ふわりと舞い上がって朝の光に溶けて消えてしまった。
庭に咲く花や草のように確かにそこにあったのに、吹くと消えてしまう埃はどこに消えるのだろう。光にあたって溶けてしまうようなものでもないのに、少し目を離すともう見えない。目覚めたばかりでぼんやりとする視界のなか、それでも芹は消えた埃を探すべく、襖の桟をよく見ようと目を見開いた。しかしそれもわずかな時間のことで、畳にぺたりとくっつけていた頬をぱっとあげると、おもむろに立ち上がった。
本はだいぶ半ばだったが、すでに本の端が擦り切れるほど読み返している。未練などない。呆気なく閉ざしたものの、無聊を慰める大切な品を放り出すことなどはしない。部屋の隅に置かれた書棚の中に丁寧にしまい、ぴったりと閉ざされていた襖ににじり寄りながら腰を上げた。
風や鳥や、葉の擦れる音に混じってかすかに聞こえるのは、こちらへ向かう足音。少し遠くから向かうそれは、何年も聞き続けてきたものだ。
寝間の隣にある居間に移動しながら耳を澄ませ、使い古した座布団に腰を下ろす頃には、近づく足音は、近くまで差し掛かっていた。芹のいる離れとは同じ敷地内にある本宅との間には、二枚の扉がある。やがてごとりと重い閂を外す音と、立てつけの悪い扉を開く音が二度ずつした。
あとは玄関の扉が開くだけだ。
上がり框を降りて土間に下り、引き戸を引きたい気持ちはあるが、それは芹には許されていない。仮に土間まで降りていい許しを得たところで、戸は開きはしない。この離れは閂のついた関所のような門を二つくぐり、さらに玄関に外からかけられている錠前を解かなければならないのだ。
ここまでは良いと許されている上がり框に腰かけて、裸足を土間につけながら待っていると、戸板が叩かれ、くぐもった声が芹を呼んだ。
「おはようございます、芹様。起きていらっしゃいますか」
「起きてるよ、おはよう、蘇芳」
脚をぶらぶらと揺らしながら応えると、立てつけの悪い戸ががたがたともどかしく引かれた。
揺れながら開いた戸の向こうからぬっと顔を突き出したのは、芹が生まれた時からの世話人である蘇芳だった。
「今日はずいぶん早起きですね」
「昨日は早くに寝たから、夜明けに目が覚めたんだ」
蘇芳が朝に本宅から運んでくるのは、二人分の朝餉と茶葉の入った急須だ。差し出された膳だけを芹が受け取って立ち上がると、蘇芳は外からかけられていた錠前を今度は内からかけて、自由に外へは出られないようにした。
がちゃり、ごとんと重厚な鉄が木の戸板にあたる音を背後に聞きながら、畳の上に置いてある座布団を足先で引きずって位置をただし、いつもの定位置に膳を整える。そうしていると、蘇芳が土間に申し訳程度に作られた小さなかまどに火をおこし、湯を沸かし始めた。
「早く起きたし暇だから本を読んでたんだけど、埃かな、きらきら光る糸みたいなものが天井から落ちてきたから、それを見てたら、また寝てた」
「天井から埃ですか。それなら今日は天井の掃除でもしますか。夢は、なにを見ましたか」
「昔の…五歳の時だっけ、初めて祠で眠った日の夢」
やけに鮮やかに覚えているのは、夢とは言っても過去の追体験だからなのだろうか。指で数えた数珠の感覚がまだ残っている気がして親指と人指し指の腹を擦りあわせた。
あの日から既に、十年が経っている。その間蘇芳はずっとそばにいてくれたが、芹の身の回りは大きく変化していた。
「それより、昨日市に行ったんでしょ? 市はどうだった? なにかあった?」
矢継ぎ早に問いかけると、湯を入れた急須を片手に居間にあがってきた蘇芳は苦笑しながら湯呑に茶を注いだ。
「いつも通りでした」
「いつも通りってどんな?」
ねえ教えて、と言い募る芹にいやな顔もせず、それぞれの膳に湯呑を置いた蘇芳が座すると、とりあえずは朝餉が始まる。
稗や粟が混ざる飯に菜っ葉の浮いた味噌汁。他には柚子の皮がちょこんとのった冷奴と、小魚を焼いたものが載った膳は、庶民ならば少しばかりの贅沢と言ったところだが、芹の朝餉はだいたいこういったものだ。向かい合って手を合わせ、どちらからともなく食事が始まると、芹の「ねえ教えて」が再開した。
「市、どんなだった? 行商とかは来てた?」
御飯茶碗を片手に、箸より口を動かしながら問いかける芹に、蘇芳は小魚を口に運びながら頷いた。
「来てましたよ。西の方からの行商一座が。あとは、そうですね、呉服屋が夏物の安売りをしていました」
「貸本屋は開いてなかった?」
「仕入れに出ているようで、帰りは五日後と張り紙がありました」
「そうなんだ…」
蘇芳が市に出向いた時、貸本屋が開いていればなにかしら書物を借りてきてくれる。きっとなにか新しいものを携えてきてくれるに違いないと踏んでいただけに、芹は肩を落とさずにはいられなかった。
自分で外へ出てけるなら構わない。自由に出歩けるならば、家になどこもらずに市へ行き、貸本屋を巡り、茶屋で団子を買ったり出来た。けれどそれは芹には叶わぬ願いだった。
三日ほどは蘇芳が借りてきてくれた新しい本を読んで楽しめると思っていただけに、落胆は激しい。持っていたお椀を膳にかたんと戻してしまうほどがっかりした芹だったが、続いた蘇芳の言葉に、目を大きく見開いた。
「本は借りて来られませんでしたが、今日は庭に出ましょうか」
「えっ、本当」
「ただし、俺が木の世話をしている間だけですよ」
「どのくらい?」
「木を剪定して、柿の実の様子を見ている間くらいです」
「梨は収穫しない?」
「ああ、梨も様子を見ないといけないですね」
「あと…えっと、あと……そうだ、いちじくは? いちじくの世話は」
「そうですね、いちじくも世話をしないと」
「じゃ、じゃあ早く食べて庭に行こう。猫は、今日はいた?」
「本宅の庭にいたのを連れてきてます」
「黒のブチの子かな、前に柿の木に登って降りれなくなった子」
先ほどまでの落胆ぶりはすでになりをひそめている。せわしなく箸を動かして膳の上のものを片付けていくと、芹はまだ食後のお茶で喉を潤している蘇芳の膳と自分の膳を重ねると、土間の水場に運んだ。
庭に出てもいいと許可が出るのは、十日ぶりのことだ。かといって物珍しいものがあるわけでなく、広い敷地内に果樹が十本程度と、小さな畑があるだけだ。庭と家を取り囲むのは高い壁で、容易に越えられるものではなく、もちろん外の風景も見えない。けれど、家の中に押し込められている日々を送る芹にとっては嬉しいことこの上ない『外出』だった。
「蘇芳、早く!」
やっと茶を飲み終えた蘇芳が片手に湯呑を持ってのんびりと立ち上がるのを急かして袖を引っ張る芹は、外から聞こえたにゃあという鳴き声に、早くもぱっと顔をほころばせた。
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