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しおりを挟む十年ぶりに見た村の中は、閑散としていた。
門番に見つかってしまわないようにと屋敷から遠回りをして大辻へ急いでいた芹は、立ちならぶ家々の影に隠れながらしばらく進んでいたが、やがてそれをすることもやめて、道を急いでいた。
既に女子どもは避難しているのか、家々から人の気配はない。それどころか、畑で使っていたであろう籠が土間に放り投げられてひっくり返っているのが開きっぱなしの引き戸から見えていたり、洗濯の途中だったと思われる濡れた着物が桶の中で揺れたりした。それらを横目に見ながら、芹は近づくにつれて大きくなっていく剣戟と喧騒に、頭から被った敷布を胸元でぎゅっと握りしめていた。
蘇芳は、どんな風に戦うのだろう。
鬼妖というのは、どんなに恐ろしいのだろう。
それだけを悶々と考えて歩いていた芹は、細い路地を抜けたとたんに広がった光景に思わず目を見開き、反射的に路地に引き返した。
「……っ」
思わず声が出そうになって両手で口をふさぐと、動きの流れについてこれなかった敷布が地面に落ちたが、かぶりなおす余裕もなく、芹はそのままそこへしゃがみこんだ。
(なに……なに、なんで)
いつもは農夫や牛馬が行き交い、その女房たちがかたまって井戸端会議をしていたり、子どもたちが走り回っているであろうのどかな土道には、十名ほどの村人が倒れていた。
傷を負ったのか、腕を抑えて呻いている者もいれば、地面に這いながら手に持った得物を離さずに口惜しげに顔をしかめている者もいる。ぴくりとも動かず、生死のあやふやな者もいた。
それだけでも十分驚愕に値する光景だったが、通りに面した家々も惨状から逃れられず、戸を破られ、柱を折られ、軒先に置かれていたであろう水瓶も割られて、あたりを濡らしていた。
混乱と恐怖で大声をあげそうになるのを必死でこらえ、数珠ごと手首を握りしめていた芹だったが、おもむろに上がった地面を揺るがすような大音声に、それこそ肩を竦めて飛び上がった。
牛の吼える声よりも低く、馬の嘶きよりも大きいそれはびりびりとあたりを震わせながら、臓腑まで揺らし、骨まで響く。明らかに人間が立てられる音ではない。あまりの恐慌に震える手で必死に両耳をふさぎ、目も瞑って耐えていたが、やがてその轟音以上のものが体を震わせていると気付いた芹は、路地の隙間に身を潜めたまま、こんなところまで来てしまったことを強く後悔した。
ずしん、ずしんと体全体に重くのしかかる音が、ざわざわとしたさざめきが、いつの間にかあたり一帯を包んでいる。
なにかよくないものが近付いている。
祠参りの時に、たびたび祠を取り囲んだりするものたちから感じる悪意のような、瘴気のような、そういった悪いものをもっと深く昏くしたようなものだ。
まるで薄い布を幾重にもかけられていくように、その気配は芹の胸が鼓動を打つたびに強くなっていく。
このままここにいては、殺されてしまう。
咄嗟に頭をよぎったのは、そんな確証だった。
近づいてくるものの正体は知れない。けれど、牙で噛み千切られるのか、爪で裂かれるのか、頭から齧り取られるのか、方法まではわからないながらも、少なくとも無事ではいられない。
(逃げなきゃ)
寒いわけでもないのに歯の根があわず、がたがたと音を立てる。それさえ聞こえてしまわないか恐ろしくて、耳を抑えていた手をずるずると口元に戻して抑える。震えながらもよろけながらもどうにか立ち上がった芹だったが、路地から見える大通りをずいと横切った影に、手だけでは抑えきれなかった悲鳴がとうとう漏れた。
「っあ……」
指の隙間から零れたのは本当にわずかな声で、響き渡る轟音の中では、芹自身の耳にさえ入らないようなものだった。
けれど、それが合図だったように、足音も轟音もぴたりと止まった。
「う、あ……」
ぎょろりと、拳ほどもある目が芹を見ていた。
爛々と光る双眸は見たこともないほど真っ赤で、時折ぐるりと動く。けれど視線だけはしっかりと芹をとらえていた。
あまりに大きな眼球に映った自分が怯えて動けずにいるのを見ながら、芹は一歩後ずさった。
「おまえ」
眼球の少し下がばくりと割れて、赤い隙間が見える。牙が立ち並ぶそこを一瞬で口だとは理解できなくて、芹はぶわりと漂ってきた生臭い臭いに顔をしかめた。
「おまえ、いっぱいあるな」
がらがらに嗄れて、聞き取りづらい声だった。
「…え、な…」
「しんき、いっぱいあるな。おいしそうだな」
おもむろに伸びてきた太い腕が、細い路地に置かれた桶や誰かが立てかけた鍬を薙ぎ倒しながら芹に迫ったのは、本当に一瞬の事だった。脚を掴まれ、そのまま引き倒された芹は桶に頭をぶつけ、頬を掠った鍬で擦り傷を作りながら、気付けばぶらんと宙づりになっていた。
「わ、あ、あっ」
頭から被っていた布がはらりと落ちていくのを慌てて追いかけようとして手を伸ばしたが、驚くほど高くまで持ち上げられていた芹は、ひらひらと落ちていくそれを呆然と見送り、それからひゅうと吸い込んだ空気にむせて、二度ほど咳き込んだ。
「な、や、離し、うああっ」
ばたばたと動いて逃れようとするが、足が当たろうとも身の丈十尺以上もあるそれはびくともしない。見たことはなくとも、皆が怖れるものがこれだと本能的に悟れる。
芹をとらえたのは、鬼だった。
立ち並ぶ小さな平屋の軒を軽く越える、人間ではありえない巨躯は黒ずんだ青錆のような肌をまとっている。申し訳程度に腰に何かが巻かれていたが、引き裂かれた獣の皮なのか、ずたずたなそれは赤黒いものが所々に散っていた。爛々と赤く光る眼球だけでなく、ぎっしりと生えた牙が口内に収まりきらずに口の端から見えていることも怖かったが、芹が鬼を鬼だと認識したのは、頭部にある角だった。
二本の黒々とした角が、額より少し上から生えていた。それは牛の角によく似ていたが、それほどなめらかではなく、ぼこぼことしている。そのいびつさが、尚更作り物ではないのだという現実を芹に突きつけた。
「ひ、ぃ、ああああっ」
一際強くぎゅっと握られた右足の脛がみしりと嫌な音を立てて軋み、感じたことのない激痛に芹が声をあげると、不揃いな牙が乱立する口をばかりと開いて笑った。
「おまえ、せり」
「なん……なんで、知って…」
握られた脛は折れてはいないようだが、激痛が酷い。痛みに喘ぐ芹に、鬼は枯葉をぐしゃぐしゃと強く擦り合わせるような耳障りな声で嘲笑を響かせた。
「おまえ、みんなしってる。くろとびのえものだ」
「くろ、とび…?」
「でももうおれがつかまえた。おれがたべる」
がはがはと笑っていた口が、耳までばっくりと裂けたかと思うと、芹など一口で入ってしまいそうなほど大きく開かれる。鬼の口の中は、錆びた刃のような歯が上下にびっしりと生えており、つんと鼻を突く鉄の匂いと、何のものだか見当もつかない強い臭気がする。けれども、そんな事よりもこの口に今から食まれてしまう恐怖の方が強い。
一口でも噛まれたら、そこの肉は容赦なくはぎとられ、骨は噛み砕かれてしまうだろう。運よく一口目で死ななくとも、それはそれで二口目を食まれる恐怖が、死ぬまで続く。そんな事は耐えきれるはずもない。
「は、離せ、いやだ、離せ!」
足は軋んでそうとうに痛むし、もしかしたら折れたかもしれない。それでも出来る限り体を捩って足をばたばと動かしていた芹だったが、死に物狂いで体を捩ったためにぶらりと下がったままだった手首から数珠がほどけ落ちそうになると、はっとしてそれを胸に抱きこんだ。
「……おまえ、それ、いやだな。」
鬼が反応を示したのは、意外だった。
芹が数珠を抱きこむと、さもいやそうに顔をしかめ、芹の脚を掴んだままの手を遠ざけて、二度三度と振った。痛みと衝撃に思わず離してしまいそうになったが、どうにか体を丸めてやりすごすと、鬼は苛立ったようにずしんずしんと脚を踏み鳴らした。
「はなせ、それはなせ」
「い、いやだ」
「はなせよお」
ぶんと振るわれ、脚がみしみしと音を立てて、そこを起点に脳髄まで痺れるような激痛が走る。子どもがずた袋を振り回すような、容赦ない力で振り回されていくうち、遠心力で、数珠を抑えていた腕がぱっと離れた。
「あっ」
二重に巻きつけていたのにあっけなく飛んで行ってしまった数珠はあたりどころが悪かったのか、地面に転がっていた桶に当たるなり糸がちぎれて弾け、そこいらに珠を撒き散らした。
「はなしたなあ」
数珠が離れたことでようやく鬼は芹を振りのをやめたが、縦横無尽に振り回されていた芹は、ひどい吐き気と頭痛と痛みに意識を朦朧とさせながら、弾けたうえにいくつかは砕けてしまった数珠の残骸を視界の端に留めながら、こみ上げてきた涙を逆さまに零した。
蘇芳の言うとおり、隠れてやり過ごしていればよかった。知りもしない脅威を軽く見たせいで暴力に晒され、命の危機に瀕している。あとはもう、このまま蘇芳の雄姿など見ることもなく、この鬼の歯に噛まれ砕かれ、無残に死ぬ道しか想像できない。
なんて馬鹿な事をしたんだろうと、こめかみを流れ、髪を濡らしていく涙に視界を歪ませていると、不意にどかんと地響きが鳴り渡った。
芹を捕まえている鬼が近づいてきたときと同じような強く荒々しい振動は、こちらへと近づいてくる。やがてもせずに腹の底に響くほどの唸り声がして、地面を深く蹴りながらこちらへ駆けてくる影が、一瞬にして近付いたかと思うと、芹を掴んでいる鬼を薙ぎ倒した。
「ゴアアアアッ」
容赦なく地面に叩きつけられた鬼は牛の断末魔のような声をあげて倒れ、その動きに引きずられる形で芹もぐわんと大きく振り回されたが、鬼の手が衝撃で開くと、今度はそのまま宙に高く投げ出された。
十尺どころか、その倍以上も高く放り出された芹は、まるで夢を見ているような心持ちで、なにかが起きた地上を見下ろしていた。
地面に鬼が倒れている。そのすぐ傍にも、鬼が立っていた。
襲われた鬼よりもどこか人間に近い形をしている鬼は、深く黒ずんだ赤い肌をしていた。
あれも、自分を襲いに来たんだろうか。
そんな事を考えていたが、おそらくは一秒にも満たない時間だったのだろう。投げ出されたまま空に舞い上がった芹の体は、落下をはじめた。
幼い頃に樹から落ちた時も、相当に痛かった。けれど、今はそれよりもはるかに高い場所から落ちている。地面に叩きつけられれば、痛いどころでは済まないのだろうが、食べられて死ぬよりはましだと、芹は瞼を強く瞑った。
最後に、両親と兄弟に会いたかった。自分という存在がいるせいで面倒を強いてしまったことを詫びて、あまり話すことは出来なかったけれど、今までありがとうと言いたかった。
蘇芳とも、最後に一目会いたかった。いつも世話をしてくれて、話し相手になってくれて、読み書きを教えてくれて、悪いことをしたら叱ってくれて、悲しいときは傍にいてくれて、ずっと一緒にいてくれてありがとうと言いたかった。そして、書物でしか知らない感情だったが、おそらく芹は、蘇芳を好きだったのだ。だから、その感情を伝えておきたかった。
けれども、そんな願いももう叶わない。
今から芹は地面に叩きつけられ、遅かれ早かれ死ぬ。遺体はおそらく、鬼か異形か、どちらかに屠られるだろう。
食べられてしまうならいっそその残骸を両親や蘇芳が見ないで済むように、血の一滴もこぼさずに全部平らげてほしいとまで考えて、芹は我ながら馬鹿な事を考えていると、落下している最中にもかかわらずこみ上げてきた笑いに、口元を緩めた。
死んでしまったら、もう誰のこともわからなくなるのに。
(そういえば、八尋様の元へやるって約束も無しになるのかな)
もしそうなら八尋には悪いことをしたが、最後まできちんと守ってくれなかった八尋も悪いのだから、出来るだけ長く、藤村の治める土地を加護して欲しい。芹は死んでしまうのだから、せめてあと十年くらいは、手厚い加護をお願いできないだろうかと、最期に考えるにしては呑気なことを考えながら落下した芹は、やがてもせずにどすんと落ちた。
放り投げられてから三秒程度の後のことだった。
ああ死んだ、短い人生だったと思うのもつかの間だった。
「芹様!」
目を閉じていた芹は、耳元で自分を呼んだ声にびくっと体を震わせた。
落ちてから声が聞こえるなんて嫌だ。死ぬしかないだろうに、生にしがみつきたくなる。けれど、最期に聴くのが蘇芳の声というのは、神様からの慈悲だろうかと考えていた芹だったが、自分が落ちた地面がゆさゆさと揺れたことに気付いて目を開いた。
「あ……え、あれ…」
地面に落ちたとばかり思っていたが、芹は誰かに抱えられていた。
「芹様」
上から聞こえるのは、蘇芳の声だ。どうして、という疑問は一瞬だけ浮かび上がったが、助けに来てくれたのだという歓喜がそれを押しのけた。
「すお……」
上向いた芹は、最後まで蘇芳を呼ぶことが出来なかった。
芹が落ちた場所にいたのは、そもそも鬼と異形だけだった。そこに蘇芳はいなかったし、走ってくる姿も周りにはなかった。
どうして、と混乱に揺れる芹の目に映るのは、赤黒い肌の鬼だった。
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