花と娶らば

晦リリ

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 約束の期日は、あっという間にやって来た。
 襲撃から一ヶ月と半月後の期間を経て十六歳になった芹はその翌日、白い小袖に長袴姿で離れにいた。
 蘇芳さえもまだ来ていない早朝、やけにすっきりと目が覚めたので、明日はこれを着ますと渡されていた衣装を先に着こんで、私室に座り込んでいた。
 十年間見続けた、格子越しの庭ももうこれからは見ることもなくなる。季節ごとに咲く花や空の色が変わるとはいえ、さすがに見飽きたと思っていた風景が、なぜか今日はどこか目新しく映った。
 八尋のところへ行っても、こんな風に庭を眺めたりすることは出来るだろうか。それとも、そんなことさえも出来ずにいるだろうか。そもそも、呼ばれたところでなにをしに行くのか。
 一か月半、芹はずっと考えていた。
 あちらでどういった扱いを受けるか、蘇芳も深くは知らないと言っていた。ただ、命をとるようなことはしないとしか聞かされていないらしく、すみませんと頭を下げた彼が嘘をついているようには思えなかった。
 一刻ほども外を眺めていると、藍色だった空が白んでくる。すると、玄関の方から、聞き馴染んだ音がした。
 離れに入るために潜る門の閂を外から外す音だ。もう十年、毎日聞いた音。一本目の閂を外して、三つ数えたころにもう二本目の閂が外される。それから十五、六歩ほど歩く音が続いて、そうして錠前を外した後に、軽く戸が叩かれるのだ。
 耳を澄ませてその音を聞いて、いつもとなんら変わりない調子で、いつもと同じ声が芹を呼ぶ。
「おはようございます、芹様。起きていらっしゃいますか」
「おはよう、蘇芳。起きてるよ」
 どうしてだか建てつけが悪いこの戸は、蘇芳が何度か直したものの、未だにがたがたとつっかえる。少し持ち上げてがらりと引かれた戸の向こうから現れた蘇芳はいつも通りに見えて、けれど芹を見ると一瞬だけ痛ましげに眉根を寄せた。
「今日は…早起きをされたんですね」
「なんか、目が冴えちゃって」
 睡眠時間はいつもより短かったはずだが、それほど眠気はない。それどころか、晴れ晴れとしていた。
 我ながらおかしくさえあった。
 当初は不安も恐怖もあった。けれど、一か月半の猶予を与えられた間、それよりも強い感情に気付いてしまった芹は、八尋の元へ参じることになっても、寂しさはあれど、怖くはないと思うようになっていた。
 神であるという八尋の元へ行って、なにも命をとられるわけではないと、蘇芳は言った。
「芹様については、御世話と護衛を言いつかっているだけなので、仔細は知らされておらず…申し訳ありません」
「蘇芳が悪いわけじゃないよ。でも……それじゃあ俺は、あっちで何をするかもわからない?」
「それはなんとも……ただ、八尋様は芹様の強い神気が必要と仰っていたので、おそらくは神子のような要職に就くのではないかと思います」
「神様の…八尋様のお手伝いをするってこと?」
「おそらくですが」
「蘇芳は、その後はなにか任に就く予定があるの」
「俺はそのまま、芹様の護衛におかれるかと思います」
「本当?」
「おそらくですが」
 それを聞いて、芹の心はだいぶ軽くなった。なにも殺されに行くわけではないのだ。それに、蘇芳もこれまでのように傍にいてくれる。それならなにも怖いことはない。
 じわじわと土に染みこむ水のようにいつの間にか心を蝕んでいた不安や恐怖はなくなり、むしろ今では喜びさえ感じた。
 家族と離れる寂しさはあったが、芹がいなくなることで襲撃は減るうえ、更に八尋からの加護は七代先まで約束されている。それに、尋の司る神域に行けば、もう鬼の襲撃を恐れて閉じ込められることもない。芹には役割が与えられ、日がな一日無聊を持て余すこともない。
 そして、蘇芳が傍にいてくれる。
 それは芹にとって一番、重要な点だった。
 蘇芳が傍にいると嬉しいし、離れてしまうと寂しい。それは昔からだったが、胸がぎゅっとなって、たまに下腹の奥も甘く引き絞られるような感じがするこの感じの正体を、芹は遅まきながら理解していた。
 今までに目にした様々な物語の中にある、芹には今までよくわからなかった感情。
(俺は、蘇芳が好きなんだ)
 初めてそう思ったのは、蘇芳の胸の上で泣いたあの日だった。
 蘇芳が体にいくつもの傷を負いながらも自分を守ってくれていたことを知って、嬉しかった。それが彼の仕事であれ、大切にされていると感じた。そう考えるだけで胸の奥が軋むように痛んで、けれどその痛みが、震えるほど甘かった。
 好きという感情を知らなかったわけではないが、その中に今まで区分はなかった。なかなか会うことは出来ないが、父である清三や養母の妙、二人の兄と、芹が幽閉されてから生まれたと聞いている弟妹のことはもちろん好きだ。その他にも、書物や花や甘いお菓子、木登りも好きだ。けれど、それらの好きと、蘇芳に対する好きは、どこか違う。
 何度顔を見ても飽きることはないし、傍にいてくれるだけで嬉しい。いなくなれば寂しいし、もし二度と会わないなどということがあったらと考えると、それだけで死んでしまいそうに胸が痛んだ。
 好きという感情の中でも、それが恋という名前のものとは芹には思いもよらない。けれど、その名前のつかない想いだけが、未知の世界へ連れて行かれる芹の拠り所になっていた。
「あちらへ持っていくものは、まとめましたか」
「うん、筆と硯と書物と…着替えは必要ないんだっけ」
 芹の私室に上がってきた蘇芳に見せるべく、芹は脇に寄せていた包みを引き寄せた。
 昨日の昼過ぎ、あちらへ持っていく者があればまとめるようにと言われて、少ない私物の中から選りすぐったものを入れていた。
「着替えはあちらで用意します。荷物は…それだけでよろしいのですか」
「うん、あとは頭に入ってるから」
 元々物が少ないので、あちらへ持っていきたいものも多くはない。愛用している筆と硯と、好きな詩の載っている書物が数冊だけが、あちらへ渡る芹の持ち物だった。
 風呂敷に包んだそれらを広げて忘れ物がないかを確認し、また包みを結んでいると、どんどんと玄関の方で音がした。
「芹」
 声は清三のものだ。
 今日はこれから、祠へと向かう手はずになっていた。八尋の方から特に迎えなどは寄越されないらしく、代わりに蘇芳が芹を連れて行くらしかったが、あちらへ入るために指定されたのは祠だった。そこで清三が、祠参りの時と同じようにした方がいいのではと提案したため、今日は祠参りと同じ手筈で、芹は見送りを受けることになっていた。
 玄関に向かった蘇芳が戸を引くと、そこには既に身支度を整えた清三と、いつもの輿と、女中や男衆たちがいた。
 いつもの面々に、今日は帰路のない祠参りに行くのだという現実が薄らぐ。けれど、手に触れた包みの中には、ここを出て行くためにまとめた荷物が入っている。
 その時がまさに今来ているのだと強い実感が沸いたが、今になって撤回することは出来ないし、する気もなかった。
「準備は出来たか」
「はい」
「…それなら、輿へ」
 促され、片手で持てる程度の荷物を持って、十年を過ごした家から足を踏み出す。開かれた御簾の中に体を滑り込ませるとぱさりとすぐに閉じられたが、せめて、と芹はそれを中からあげた。
「一個目の門を潜るまででいいから、あげててください」
 突然話しかけられた男衆は驚いた顔をしていたが、どうすればと向けた視線の先で清三が頷くと、御簾を上でまとめる紐をかけて、芹から外が見えるようにしてくれた。
「それでは、参じます」
 蘇芳の声に応じて、輿がすいと持ち上がる。玄関から門までの短い距離の間、芹は家を、庭を見ていた。
 こぢんまりとはしているが、居心地のいい家だった。いつも掃除をしていたので、綺麗に整っていた部屋は過ごしやすかった。出られない日も多かったけれど、庭はいつも蘇芳が世話をしてくれていたおかげで、芹の大切な遊び場だった。外に出られなかった芹の、十年間の記憶がそこかしこに散らばる離れだ。
 芹がいなくなれば、二つの門と高い塀は壊されて、自由に本宅と行き来が出来るようになるのだろう。もしかしたら、そろそろ嫁を貰ってもいい頃合いの、長兄や次兄が住むようになるかもしれない。もしそうなら、窓という窓全てについている格子は取り外した方が、あの綺麗に整えられた庭を見られるななどとのんきに考えていると、一つ目の門を潜り、二つ目の門の閂が外された音がした。
「芹様、御簾を下ろしますよ」
「うん」
 輿の斜め後ろをついてきていた蘇芳の手が、御簾をまとめている紐を引こうと、上にあがる。けれどその手はすぐに紐を引かず、袂に戻って、畳まれた手拭いを取り出した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
 手拭いを受け取ると、ぱさりと御簾が下ろされる。
 幽閉を目的で作られたあの家が、けれどとても好きな場所だったのだと思い返しながら、芹は渡された手拭いを頬に伝う雫で濡らした。
 輿はゆっくりと、今までに幾度も行き来した山道をあがっていった。



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