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クワイエット・テラー
作倉暦 Ⅳ
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マイカは小宮山が引いてくれた椅子を、そのまま机の中に押し戻して、すぐに作倉を追いかけた。小宮山は、体調が悪いとは思えないマイカの機敏さに驚いた。
部室の扉を開けて廊下に出ると、作倉はまだそこにいた。マイカは、小走りで作倉の背中を追いかける。それに気付き、作倉は振り返った。
マイカはぜえぜえと息をきらし、膝に手をついて深く息を吸い、作倉を見上げた。
「どうした?」作倉は低い声で、一言そう言った。
マイカは「あの……」とだけ言って、今度は作倉の顔をまじまじと見つめる。作倉は無表情で何も言わず、それを受け入れていた。
「いや……その……」
マイカはそんなことを言いながら、失礼を承知で目を細め、作倉をガン見と言っていいぐらいに凝視した。しかし、全く自分の周りに変化はない。
――何も起きない?でも……。
あの現象は起きないが、心臓の鼓動がどんどん早くなっているのをマイカは感じた。
――なんかドキドキしてる?苦しくなってきた……。
マイカは心拍数の上昇にともない、ハァハァと荒い呼吸をするようになり、目の焦点も合わなくなってきた。マイカに、もしかしたら何かが起こるかもしれない期待と恐怖が入り混じった感情が湧いてきた。
「すいません、なんか心臓がすごくバクバクしています。」
マイカは体勢を保っていられず、両膝に手をついた。ゼエゼエと苦しそうに呼吸をしながら、マイカは顔を上げる。見上げた作倉の顔は、ぼやけている。なんとかピントを合わせて、その表情をとらえると、作倉は呆れ顔でマイカを見下ろしていた。
作倉はひとつため息をついてから言った。
「今、急激に体を動かしたからじゃないか?」
マイカは「あっ」と思わず口に出てしまった。あの現象を味わったせいで、そんな当たり前の理屈が完全に頭から離れていた。この心臓の高鳴りが何か特別なものと勘違いしてしまったのだとマイカは理解した。
あの現象だって、体調のせいだという可能性は大いにある。無理矢理、この不思議なオーラをまとう作倉という男と結び付けようとしていたのかもしれない。
「そっか。熱があって、いきなり動いたら、そりゃあこうなりますよね」
マイカは息苦しそうにしながら、「あはは」と照れ隠しの笑みを浮かべた。その笑みも、落胆がかき消す。そして、そのまま崩れるようにへたり込んだ。自分がたった今、してしまったことに、泣きたくなる気分だった。
――私、何やってるんだろう……。調子が悪くて、ただ変な幻を見たってだけなのに。初対面の先生の前で失礼なことしちゃった……。
マイカは下唇をギュッと噛みしめた。こんな姿を見せてはいけないと、立ち上がろうとした。そのとき、うつむいていた頭の上に何かを感じた。おもむろに見上げると、作倉の手のひらがそこにはあった。
「立てるか?」
心配そうな表情ではなかったが、そう言って差し伸べる手はどこか優しさに包まれていた気がした。その手が放つオーラに、マイカは何か特別なものを感じた。
安静にしていた心臓が再び激しく脈打ち始める。その内なる変化に賭け、マイカは躊躇なく自分の手を差し出した。そして、その手に触れた瞬間、自分の予期したことが間違いではなかったと確信する。
「何!?」
マイカと作倉の周囲が、またしても、一瞬にしてあの夢の世界に変化した。
しかも、今度は消えることはない!信じられないほどリアルだ。夢と同じような薄暗さはあるが、夢よりもかなり鮮明であった。
「来ちゃった……の?」
マイカはキョロキョロと周りを見渡す。マイカはその薄暗さが、現実の世界でいう曇天の日のそれにかなり近いものであると感じた。けれども、夢では見上げることなどなかった空には、太陽を隠す雲のようなものは一切ないように見えた。
マイカは、直感でとてつもなく高い建物のてっぺんにいると分かった。そこは、直径20メートルもないぐらいの円形の足場だ。空がすぐそこにあるような感覚がはっきりとあった。飛ばされるほどではないが、風がびゅんびゅんと吹いている。足元は、深青色に光る線状になった細いライトが外側から内側まで模様を描くように敷き詰められていた。マイカは、作倉の顔を見てハッとした。
――笑ってる?
作倉は、依然としてそこにいたが、表情は変わっていた。マイカには、少しだけ口角が上がっていて、微笑んでいるように見えた。
作倉とは初対面なので自信をもって言えないが、少なくともさきほどまでの険しい表情とは違うように感じた。そして、マイカは視界の端にあるものをとらえ、自分がいる場所を把握した。作倉の背後はあれがいたのだ。
――やっぱりそうだ。ここは金髪のお姉さんと会う場所だ。
足場の輪郭も、ディープブルーのライトもその曲線が描く模様も、これまで、夢では一度も意識できなかった。だが、きっとそこは馴染みのある場所だと、石の悪魔のおかげでマイカは確信できた。
「先生?これはいったい……」マイカが作倉に声をかける。しかし、作倉はただ微笑むばかりで何も答えない。マイカは探るような視線を作倉に投げかける。
「……ここはいったいどこなんですか?」
そう聞くと、作倉は黙って軽くうなずき、踵を返した。そのまま石の悪魔の方へ歩いていくようだ。
「あの…!先生!ちょっと待ってください!」
マイカが呼び止めるのも無視して、作倉は石の悪魔の前に立ち、全身があっという間に砂のようになって消えてしまった。ちょうどマイカが白い部屋から現実に戻るときのように。
「あっ!」マイカは追いかけようとするが、すでに遅すぎた。
取り残されたのだと思い、急に恐怖感に襲われる。
「なんで先に行っちゃうんですか!?」
その空間は夢と同じく、時折吹きつける風の音がする以外はとても静かで、マイカの声はむなしく残響する。
「置いてかれちゃった?」
マイカはその場にしばらく立ち尽くしていた。周囲を見渡すが、一面空で、円形の足場から踏み出そうものなら、そこは断崖。はるか下方へ真っ逆さまであろう。足元を見ても、出入り口となるような扉はついていない。
マイカは仕方がないので、自分自身も石の悪魔に近付いていった。
足音も「カツーンカツーン」とこだまする。音はどこで反射しているのだろう?マイカはその音に最初、すこし動揺したが、すぐに慣れてしまった。
石の悪魔が鎮座する1メートルほどの高さの台座は、円形の足場の縁のところに置かれている。台座の材質は、本体よりも立派で、光沢がきれいな御影石のようであった。
マイカは石の悪魔の近くまで行くと、石の悪魔越しに、この建物の下の世界が見えた。
まず目に飛び込んでくるのは、数多ある建物だ。尖塔のような形のビルが最も多い。ドーム状になっているものもあれば。UFOのような円盤がいっぱいくっついたような建物もある。
これらは、フードの少女が見ていたビルの墓場にあったものと似ている、とマイカは思った。しかし、それらのどれもが損傷しているようではなく、完璧な形をしていた。ところどころに鮮やかな青色の光が溢れている。薄暗さでそれらがさらに際立っている。
――あの空中に浮いている線は何?
石の悪魔の台座にしがみついて、よく見ると、その線というのは、今足元に光るライトのような色だ。深い青の線が至る所に張り巡らされている。そして、乱立する建物群の奥の方は、他とは趣きの異なる建物が並んでいた。人が住んだり仕事をしたりするようなビルという感じではない。工業地帯やコンビナートを思わせる工場のような建物が並んでいる。そして、それらを外側から囲いこむように、ダムのような大きな壁が延々と続いている。その巨大壁に差し込まれたかのように、大きな二本の角のような塔がそびえているのが印象的だ。
――下はこんなふうになってたんだ……。
さらに、マイカは大きな瞳を思いきり細めて、その二本の角のような塔のさらに遠くを眺めた。そこから先は何もない。無の空間が広がっているようだった。建物群の列は巨大壁がだいたい境になって終わっているようだった。まるでそこがこの世界の果てであるかのように。
薄暗く視界が悪い中、マイカは目を凝らしてしばらく見ていると、その先の空間がほんの少し揺れて見えるのに気付いた。それが、自分の住む部屋からも自分が通う学校の教室からも見ているものだとすぐに分かった。
「海……!」
マイカは思わず叫んだ。揺れているのは漆黒の水面であった。違和感を覚えるほど、不気味に波打つそれに、マイカは鳥肌が立つ。一度それを海と認めてしまえば、その存在感はとても強烈なものとなった。自分の住む街も海に面しているが、この夢の世界の海はとても気味が悪い。
マイカは、もう一度周囲を見渡した。
「ここ……島だ……」
そこは、まさに絶海の孤島であった。360度見渡してみても、黒い海が果てしなく続いている。その大海原をじっと見ていると、とてつもない孤独感に襲われる気がした。
この建物より高い建物はその場所からは認められなかった。
「ここが一番高いってこと?」
マイカは、石の悪魔に語りかけるように言った。こんな不思議な体験をしているのだからと、何らかの返答を期待してみたが、石の悪魔は沈黙を続けていた。
「まぁ、そうよね」
マイカは、石の悪魔を改めて正面から見てみた。その顔は、やはりマイカにとってチャーミングに思えた。鋭い牙と尖がった鼻に一見恐さを感じるが、目はメガネザルのように丸く、猫のような耳がついている。
「なにこれ」マイカは思わず笑ってしまった。「へんてこな悪魔だね。君は」
クスクスと笑っていると、やがてマイカは自分の体調がそこまで悪くないことに気付いた。この日一日ずっと闘ってきた体のだるさはなくなっているようだ。
「そういえば……」マイカは一転、急に冷静になった。「私、いつ戻れるんだろ?」
マイカは、夢を見ているときは、起きれば現実に戻れるのだという安心感があった。しかし、今はどう考えても夢を見ているという感覚はない。これまでのように、場面も変わるわけではない。いつもとパターンが違うということははっきりと理解していた。
「ひょっとして、もう2度と戻れないの?」
マイカは、石の悪魔に再度尋ねてみたが、やはり返答はない。それは分かってはいるが、マイカは不安を紛らわすために、ついつい話しかけてしまう。人の気配を全く感じないので、ますます不安感は増すばかりだ。
ただ、マイカの感情を支配していたのはそればかりではない。
「金髪のお姉さんは来てくれるの?」
マイカには、金髪の女性が現れるかもしれないという期待感もあった。このまま待っていれば、助けに来てくれるかもしれないという期待。実際、この場所は夢の中でマイカが金髪の女性に会う場所なのだから。マイカは、帰れないかもしれないという不安感と、憧れの女性に会えるかもしれないという期待感とが絡み合った複雑な感情に支配されていた。
「まぁ、どうせだったらもうちょっと待ってもいいかな。」
それが痩せ我慢なのか本心なのかマイカ自身にも分からなかった。
マイカはふと、石の悪魔の下に目をやる。
「何か書いてある?」
石の悪魔の台座に小さく文字が彫られているのを見つけた。
テレグラフ広場で待つ
ワイズ
「なにこれ?」マイカは腕を組んで頭をかしげた。「誰かのメッセージ?テレグラフ広場ってどこ?待ち合わせかなんか?」
マイカは鼻で笑った。
「いまどき、こんな待ち合わせの仕方ってある?こんな発展していそうな世界で、スマホみたいなものもないの?」
時代に合っていない、ミスマッチな連絡手段は、なんとなく好感がもてた。なぜか分からないが、このようなメッセージはワクワクするものだ。
「君のソファ、待ち合わせの掲示板に使われちゃってるよ?」マイカは面白がって石の悪魔に言った。石の悪魔は、落書きなどされていても全く意に介していないといった様子で、ただひたすら同じ方向を見ている。マイカは、そんな彼がなんだか急に愛おしくなった。
「ワイズって人は相当アナログな人なんだね。」マイカはそう言って、石の悪魔の頬をなでようと手を伸ばした。「そういえば、君に会ったのは今日が初めてなのに、なんだかそんな気がしないな」
マイカがなにげなしに、石の悪魔の頬をなでる。すると、唐突にその時が来た。
「なに!?」マイカは、急にあの感覚に襲われ、とっさに石の悪魔から手を離した。
――これってあの!?
マイカがこの世界から放逐されるときの感覚だ。青髪の少女がいる白一色の部屋で感じていたものをマイカはそのとき感じとった。足元から始まって頭まで一気に砂のように消えていってしまうあの感覚。これが始まると、気がつけばもう夢から醒めているのだ。
――金髪のお姉さん、会えなかったな……。
マイカは、いざこの時になると、少しだけ名残惜しく思った。目の前にいる石の悪魔に別れの挨拶をする間も無く、あっという間に現実に引き戻された。
部室の扉を開けて廊下に出ると、作倉はまだそこにいた。マイカは、小走りで作倉の背中を追いかける。それに気付き、作倉は振り返った。
マイカはぜえぜえと息をきらし、膝に手をついて深く息を吸い、作倉を見上げた。
「どうした?」作倉は低い声で、一言そう言った。
マイカは「あの……」とだけ言って、今度は作倉の顔をまじまじと見つめる。作倉は無表情で何も言わず、それを受け入れていた。
「いや……その……」
マイカはそんなことを言いながら、失礼を承知で目を細め、作倉をガン見と言っていいぐらいに凝視した。しかし、全く自分の周りに変化はない。
――何も起きない?でも……。
あの現象は起きないが、心臓の鼓動がどんどん早くなっているのをマイカは感じた。
――なんかドキドキしてる?苦しくなってきた……。
マイカは心拍数の上昇にともない、ハァハァと荒い呼吸をするようになり、目の焦点も合わなくなってきた。マイカに、もしかしたら何かが起こるかもしれない期待と恐怖が入り混じった感情が湧いてきた。
「すいません、なんか心臓がすごくバクバクしています。」
マイカは体勢を保っていられず、両膝に手をついた。ゼエゼエと苦しそうに呼吸をしながら、マイカは顔を上げる。見上げた作倉の顔は、ぼやけている。なんとかピントを合わせて、その表情をとらえると、作倉は呆れ顔でマイカを見下ろしていた。
作倉はひとつため息をついてから言った。
「今、急激に体を動かしたからじゃないか?」
マイカは「あっ」と思わず口に出てしまった。あの現象を味わったせいで、そんな当たり前の理屈が完全に頭から離れていた。この心臓の高鳴りが何か特別なものと勘違いしてしまったのだとマイカは理解した。
あの現象だって、体調のせいだという可能性は大いにある。無理矢理、この不思議なオーラをまとう作倉という男と結び付けようとしていたのかもしれない。
「そっか。熱があって、いきなり動いたら、そりゃあこうなりますよね」
マイカは息苦しそうにしながら、「あはは」と照れ隠しの笑みを浮かべた。その笑みも、落胆がかき消す。そして、そのまま崩れるようにへたり込んだ。自分がたった今、してしまったことに、泣きたくなる気分だった。
――私、何やってるんだろう……。調子が悪くて、ただ変な幻を見たってだけなのに。初対面の先生の前で失礼なことしちゃった……。
マイカは下唇をギュッと噛みしめた。こんな姿を見せてはいけないと、立ち上がろうとした。そのとき、うつむいていた頭の上に何かを感じた。おもむろに見上げると、作倉の手のひらがそこにはあった。
「立てるか?」
心配そうな表情ではなかったが、そう言って差し伸べる手はどこか優しさに包まれていた気がした。その手が放つオーラに、マイカは何か特別なものを感じた。
安静にしていた心臓が再び激しく脈打ち始める。その内なる変化に賭け、マイカは躊躇なく自分の手を差し出した。そして、その手に触れた瞬間、自分の予期したことが間違いではなかったと確信する。
「何!?」
マイカと作倉の周囲が、またしても、一瞬にしてあの夢の世界に変化した。
しかも、今度は消えることはない!信じられないほどリアルだ。夢と同じような薄暗さはあるが、夢よりもかなり鮮明であった。
「来ちゃった……の?」
マイカはキョロキョロと周りを見渡す。マイカはその薄暗さが、現実の世界でいう曇天の日のそれにかなり近いものであると感じた。けれども、夢では見上げることなどなかった空には、太陽を隠す雲のようなものは一切ないように見えた。
マイカは、直感でとてつもなく高い建物のてっぺんにいると分かった。そこは、直径20メートルもないぐらいの円形の足場だ。空がすぐそこにあるような感覚がはっきりとあった。飛ばされるほどではないが、風がびゅんびゅんと吹いている。足元は、深青色に光る線状になった細いライトが外側から内側まで模様を描くように敷き詰められていた。マイカは、作倉の顔を見てハッとした。
――笑ってる?
作倉は、依然としてそこにいたが、表情は変わっていた。マイカには、少しだけ口角が上がっていて、微笑んでいるように見えた。
作倉とは初対面なので自信をもって言えないが、少なくともさきほどまでの険しい表情とは違うように感じた。そして、マイカは視界の端にあるものをとらえ、自分がいる場所を把握した。作倉の背後はあれがいたのだ。
――やっぱりそうだ。ここは金髪のお姉さんと会う場所だ。
足場の輪郭も、ディープブルーのライトもその曲線が描く模様も、これまで、夢では一度も意識できなかった。だが、きっとそこは馴染みのある場所だと、石の悪魔のおかげでマイカは確信できた。
「先生?これはいったい……」マイカが作倉に声をかける。しかし、作倉はただ微笑むばかりで何も答えない。マイカは探るような視線を作倉に投げかける。
「……ここはいったいどこなんですか?」
そう聞くと、作倉は黙って軽くうなずき、踵を返した。そのまま石の悪魔の方へ歩いていくようだ。
「あの…!先生!ちょっと待ってください!」
マイカが呼び止めるのも無視して、作倉は石の悪魔の前に立ち、全身があっという間に砂のようになって消えてしまった。ちょうどマイカが白い部屋から現実に戻るときのように。
「あっ!」マイカは追いかけようとするが、すでに遅すぎた。
取り残されたのだと思い、急に恐怖感に襲われる。
「なんで先に行っちゃうんですか!?」
その空間は夢と同じく、時折吹きつける風の音がする以外はとても静かで、マイカの声はむなしく残響する。
「置いてかれちゃった?」
マイカはその場にしばらく立ち尽くしていた。周囲を見渡すが、一面空で、円形の足場から踏み出そうものなら、そこは断崖。はるか下方へ真っ逆さまであろう。足元を見ても、出入り口となるような扉はついていない。
マイカは仕方がないので、自分自身も石の悪魔に近付いていった。
足音も「カツーンカツーン」とこだまする。音はどこで反射しているのだろう?マイカはその音に最初、すこし動揺したが、すぐに慣れてしまった。
石の悪魔が鎮座する1メートルほどの高さの台座は、円形の足場の縁のところに置かれている。台座の材質は、本体よりも立派で、光沢がきれいな御影石のようであった。
マイカは石の悪魔の近くまで行くと、石の悪魔越しに、この建物の下の世界が見えた。
まず目に飛び込んでくるのは、数多ある建物だ。尖塔のような形のビルが最も多い。ドーム状になっているものもあれば。UFOのような円盤がいっぱいくっついたような建物もある。
これらは、フードの少女が見ていたビルの墓場にあったものと似ている、とマイカは思った。しかし、それらのどれもが損傷しているようではなく、完璧な形をしていた。ところどころに鮮やかな青色の光が溢れている。薄暗さでそれらがさらに際立っている。
――あの空中に浮いている線は何?
石の悪魔の台座にしがみついて、よく見ると、その線というのは、今足元に光るライトのような色だ。深い青の線が至る所に張り巡らされている。そして、乱立する建物群の奥の方は、他とは趣きの異なる建物が並んでいた。人が住んだり仕事をしたりするようなビルという感じではない。工業地帯やコンビナートを思わせる工場のような建物が並んでいる。そして、それらを外側から囲いこむように、ダムのような大きな壁が延々と続いている。その巨大壁に差し込まれたかのように、大きな二本の角のような塔がそびえているのが印象的だ。
――下はこんなふうになってたんだ……。
さらに、マイカは大きな瞳を思いきり細めて、その二本の角のような塔のさらに遠くを眺めた。そこから先は何もない。無の空間が広がっているようだった。建物群の列は巨大壁がだいたい境になって終わっているようだった。まるでそこがこの世界の果てであるかのように。
薄暗く視界が悪い中、マイカは目を凝らしてしばらく見ていると、その先の空間がほんの少し揺れて見えるのに気付いた。それが、自分の住む部屋からも自分が通う学校の教室からも見ているものだとすぐに分かった。
「海……!」
マイカは思わず叫んだ。揺れているのは漆黒の水面であった。違和感を覚えるほど、不気味に波打つそれに、マイカは鳥肌が立つ。一度それを海と認めてしまえば、その存在感はとても強烈なものとなった。自分の住む街も海に面しているが、この夢の世界の海はとても気味が悪い。
マイカは、もう一度周囲を見渡した。
「ここ……島だ……」
そこは、まさに絶海の孤島であった。360度見渡してみても、黒い海が果てしなく続いている。その大海原をじっと見ていると、とてつもない孤独感に襲われる気がした。
この建物より高い建物はその場所からは認められなかった。
「ここが一番高いってこと?」
マイカは、石の悪魔に語りかけるように言った。こんな不思議な体験をしているのだからと、何らかの返答を期待してみたが、石の悪魔は沈黙を続けていた。
「まぁ、そうよね」
マイカは、石の悪魔を改めて正面から見てみた。その顔は、やはりマイカにとってチャーミングに思えた。鋭い牙と尖がった鼻に一見恐さを感じるが、目はメガネザルのように丸く、猫のような耳がついている。
「なにこれ」マイカは思わず笑ってしまった。「へんてこな悪魔だね。君は」
クスクスと笑っていると、やがてマイカは自分の体調がそこまで悪くないことに気付いた。この日一日ずっと闘ってきた体のだるさはなくなっているようだ。
「そういえば……」マイカは一転、急に冷静になった。「私、いつ戻れるんだろ?」
マイカは、夢を見ているときは、起きれば現実に戻れるのだという安心感があった。しかし、今はどう考えても夢を見ているという感覚はない。これまでのように、場面も変わるわけではない。いつもとパターンが違うということははっきりと理解していた。
「ひょっとして、もう2度と戻れないの?」
マイカは、石の悪魔に再度尋ねてみたが、やはり返答はない。それは分かってはいるが、マイカは不安を紛らわすために、ついつい話しかけてしまう。人の気配を全く感じないので、ますます不安感は増すばかりだ。
ただ、マイカの感情を支配していたのはそればかりではない。
「金髪のお姉さんは来てくれるの?」
マイカには、金髪の女性が現れるかもしれないという期待感もあった。このまま待っていれば、助けに来てくれるかもしれないという期待。実際、この場所は夢の中でマイカが金髪の女性に会う場所なのだから。マイカは、帰れないかもしれないという不安感と、憧れの女性に会えるかもしれないという期待感とが絡み合った複雑な感情に支配されていた。
「まぁ、どうせだったらもうちょっと待ってもいいかな。」
それが痩せ我慢なのか本心なのかマイカ自身にも分からなかった。
マイカはふと、石の悪魔の下に目をやる。
「何か書いてある?」
石の悪魔の台座に小さく文字が彫られているのを見つけた。
テレグラフ広場で待つ
ワイズ
「なにこれ?」マイカは腕を組んで頭をかしげた。「誰かのメッセージ?テレグラフ広場ってどこ?待ち合わせかなんか?」
マイカは鼻で笑った。
「いまどき、こんな待ち合わせの仕方ってある?こんな発展していそうな世界で、スマホみたいなものもないの?」
時代に合っていない、ミスマッチな連絡手段は、なんとなく好感がもてた。なぜか分からないが、このようなメッセージはワクワクするものだ。
「君のソファ、待ち合わせの掲示板に使われちゃってるよ?」マイカは面白がって石の悪魔に言った。石の悪魔は、落書きなどされていても全く意に介していないといった様子で、ただひたすら同じ方向を見ている。マイカは、そんな彼がなんだか急に愛おしくなった。
「ワイズって人は相当アナログな人なんだね。」マイカはそう言って、石の悪魔の頬をなでようと手を伸ばした。「そういえば、君に会ったのは今日が初めてなのに、なんだかそんな気がしないな」
マイカがなにげなしに、石の悪魔の頬をなでる。すると、唐突にその時が来た。
「なに!?」マイカは、急にあの感覚に襲われ、とっさに石の悪魔から手を離した。
――これってあの!?
マイカがこの世界から放逐されるときの感覚だ。青髪の少女がいる白一色の部屋で感じていたものをマイカはそのとき感じとった。足元から始まって頭まで一気に砂のように消えていってしまうあの感覚。これが始まると、気がつけばもう夢から醒めているのだ。
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