イセリック/クワイエット・テラー

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クワイエット・テラー

コールドアイズ

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 この日も数学の授業は最終の5時限目だ。

 朝から、マイカのクラスは「こよみちゃんが来る」と湧いている。普段は退屈な数学の授業を、心待ちにしている女子生徒も多くいた。

 マイカは、別の意味で数学の授業を心待ちにしていた。登校してすぐにでも作倉に会いに行って問い詰めてやろうという心意気であったが、これから作倉とは、数学の授業だけでなく、部活でも関わっていくことになるので、焦らずじっくり攻めようと考えた。

 四時限目は体育で、マイカは病み上がりながらも授業に参加した。男子、女子ともにサッカーであったが、マイカは女子だけでやるサッカーが退屈でしょうがなかった。男子がメイングラウンドを使うのに対して、女子はメイングラウンドの半分もない小さなサブグラウンドで、ゴールもフットサル用の小さいゴールで行う。

 伝統的なサッカーの強豪校であるだけに、男子はサッカー部員が中心になって皆が夢中になってプレイするため、迫力のある試合になる。一方、女子の方は運動部でもないマイカが点取り屋に担ぎあげられ、得点を量産するというのがお決まりのパターンである。

 女子はサッカーの経験者があまりいないので、父親に半ば無理矢理鍛えられていたマイカは他の女子に比べて圧倒的に上手であった。最も、マイカは自分ばかりが活躍する試合など全く面白いと思っていなかった。にもかかわらず、いくらつまらなくても一度始めたら全力でやらないと気が済まない性分であったため、この日も懸命に体を動かした。

 マイカは移動するときは、いつもひとりだ。更衣室でもひとりで着替える。マイカは誰とも行動をともにしようとしないし、誰もマイカを誘わない。マイカがクールな性格で近寄りがたい、いわゆる孤高の存在だと他の生徒が見ているというのもある。

それに加えて、マイカに近寄れない理由がもうひとつあった。それは、クールなマイカにグイグイと近づける数少ない存在であるみどりだ。みどりはSPのように、いつもマイカのそばにいる。

「マイカ、とても病み上がりとは思えなかったよ!今日もすごかったぁ!何点ぐらい決めてた?10点ぐらい?」

 一言も発せず着替えをすまし、静かに更衣室を出ようとするマイカに、すかさずみどりが張り付く。

「双葉さん」マイカはみどりに声をかけられてビクっとした。「ごめん、ちょっと考え事してて。今、なんて言ったの?」

「ちょっと!」とみどりが更衣室の扉を開けながら言った。「その双葉さんってのもういい加減やめようよ。みどりって呼んで。私もマイカって呼んでるんだからさぁ」

「え?あぁうん。そうだね」マイカはしどろもどろに答えた。

「次、いよいよ数学だね。作倉先生の授業だよ!」みどりが楽しそうに言う。

「うん」マイカは元気なく頷いた。

「え?何?マイカもドキドキしてるの?」

「ドキドキだなんて。昨日、もう会ったし」

「えー!」みどりが仰々しく大きな声をあげる。「そうだった!マイカあの後、部活行ったんだったね!こよみ先生に会ったんだ!」

「うん、まぁ……」マイカは、周りが振り向くほどみどりの声が大きかったので恥ずかしくなった。

「どうだった!?かっこよかったでしょ!?」みどりはお構いなしに声のボリュームを落とさずに言う。

「顔は確かに美形かもしれないけど、ちょっとムスッとしてて怖いかな」

「そこがいいんじゃない!あのクールな感じ!」みどりの声のトーンがますます上がる。

「なんかそこらへんマイカと通じるとこあるよ。華やかなのに、妙にクールなとこ!」

「やめてよ」マイカは顔が赤くなり、つい早足になった。

 一階の更衣室から三階の教室まで行く間、一方的にみどりがマイカに話しかけていた。マイカは小さく相槌を打つばかりであった。

 マイカは、みどりを特に迷惑とは考えていなかったが、ときどき対応に困ることがある。「放っといて」などとは言えないし、席も隣なので、ぞんざいに扱うことなどできなかった。

 教室で着替えをすればいい男子たちはすでに着替えを終え、教室でくつろいでいた。マイカとみどりも席について、次の授業の支度を始めた。結局休み時間は、更衣室から教室への移動だけで終わってしまう。

 みどりへの対応で落ち着く間もなく、そのときがやってきてしまった。マイカとは違っておしゃべりを楽しみながらゆっくりと着替えをしていた女子たちもぞろぞろと戻ってくる。

 その女子たちが教室の外でざわざわしている。あの男が来たのだろうとマイカは察知した。

「ほら、マイカ!来た!来た!こよみ先生だよ!」

 みどりがはしゃいでマイカに報告するが、マイカは言われるまでもなく教室の前方の扉から女子たちにまぎれて入ってくる作倉をしっかりとロックオンしていた。

 作倉は自分をとりまく女子たちに、席に着くよう促して、教壇に立った。

「さぁ、はじめよう」という作倉の声で、ざわざわしていた教室内が一瞬で静かになった。

 学級委員長による挨拶のあと、「はい、授業を始める前にまず僕のことを……」と前置きをして、作倉は早速自己紹介をし始めた。

「作倉暦です。今日から清水広美先生に代わってこのクラスの数学の授業を担当することになりました。よろしく……」

 作倉はクラス全体を見まわしながら、愛敬を振りまくでもなく淡々と話し始めた。マイカのクラスメイトたちは作倉に興味津津で、注意深く作倉の話を聞こうとしている。マイカも睨むように作倉を凝視する。が、なかなか2人の目が合うことはない。

「僕自身、一年生を担当するのは初めてで、皆さんとも面識はありません。しかし、清水先生からだいたい皆さんのことは聞いています。とても良い生徒さんたちなので安心していいと言われました」

 作倉がそう言うと、クラス内はややざわざわとし始めた。緊張していた空気も緩くなり、穏やかなムードとなる。作倉は次に、自分の出身地であったり、自分の趣味であったりと、自己紹介で定番の話題をごく簡単に話した。

 マイカの心は、クラス内の時間が和やかに進むのとは対照的に、激しく揺れていた。作倉に自分と言う存在を目でアピールしていた。しかし、作倉はまるでわざとそうしているかのようにマイカと目を合わさない。

「皆さんにもひとりひとり自己紹介をしてもらいたいところですが、授業を進めないといけないので、皆さんのことはこれからだんだんと知っていこうと思います」

 作倉はそう言って、5分ほどの短い自己紹介を打ちきった。

「それでは、授業を始めます」作倉は、持参した教科書をパラパラとめくって言った。「たしか、順列まで進んでいると聞いています。今日は組み合わせからでいいかな?」

 作倉は、一番近くの生徒に聞いた。その生徒がコクっと頷くと、作倉は「よし」と言って、チョークをもち、黒板に今日の授業のテーマを書いた。

「今日は、コンビネーション、つまり組み合わせを表す記号Cについてやっていきたいと思います。前回までにやったPというのはパーミュテーション、つまり……」

 作倉は相変わらず無愛想に、話し始めた。作倉は、授業をしているときもひたすらクールだ。機械のように、新出の記号について、その定義を説明している。機械と言ったら、血の通っていないような印象を受けるが、そうでもない。作倉は言葉をしっかり選んで、分かりやすく、丁寧に説明している。

「……だから、このCという記号の意味は、まず順列を意味するPをしっかりと理解していないといけないんだ」

 ただ、ときどき、近くの生徒に理解したかどうかを尋ねるが、それ以上のコミュニケーションをとろうとしない。ただ、一方的に作倉が話し、問題を出し、解説するというようなスタイルであった。

――これなら広美先生の方がよかったんじゃないかな? 

 マイカは、広美先生のいわゆる双方向的な授業の方が楽しかった。「納得できなかったら、授業を止めてまで質問しろ」と広美先生はよく言っていた。おしゃべりが好きで、よく雑談もして、クラスを和ませていた。いくらお勉強好きが多い若王子の生徒でも、この眠くなりそうな一方通行の授業は退屈に感じるのではないかと、マイカは教室中を見渡した。

 しかし、マイカの予想に反して、多くのクラスメイトは、目を輝かせて作倉の言葉に耳を傾け、必死にノートをとっているようだ。マイカはため息をついた。

――いつまでそんな前傾姿勢が続くかしらね。

 マイカは、自分を欺いていているであろう作倉を信用しきっていなかった。疑いの目で見ている人の言葉が頭に入ってきますか!マイカはそう思いながらも、授業は別だと割りきって集中しようとした。

 しかし、見た目が良いからといって、それだけで必要以上に受け入れようとするクラスメイトたちを改めて眺め、思わずため息が出た。

 全力で体育の授業をこなし、体力を消耗しきっている男子の中で、何人かが眠たそうにしているのにもマイカは気付いたが、それは作倉であろうとなかろうとよくあることだった。マイカは、いつもそのような男子生徒を冷ややかな目で見ていた。

 だが、この日はマイカも病み上がりで体育の授業をこなしたので、思っている以上に体力を消耗していた。

――ちょっと、彼らの気持ちが分かったような気がするな。

 マイカは、これまで授業中の居眠りなどとは無縁であったが、このとき初めて授業中にもかかわらず、まぶたが重くなってきているのを感じた。マイカは、両目をこすって、下唇をギュッと噛み、気合いを入れ直した。

――よりにもよって、こんなときに……。

 作倉の低い声が、心地よく、さらにマイカの眠気を誘った。それに加えて、nだのrだのというという文字を使った、数学の抽象的な説明は子守唄以上に効いた。マイカは、集中しようとすればするほど、ますます眠くなるという負のスパイラルにはまってしまう。

 マイカは、作倉に眠たそうにしているところなど絶対見られたくなかった。少しでも弱みを見せることは、決して許されない。これから、あの世界のことを追及していかないといけないのに!

 マイカは眠気の波が襲ってくるたびに、目をパチクリさせ、下唇を噛む。第二、第三の波が来たときは、もっと強く噛んだ。それでも、眠気の波は次々と容赦なく押し寄せる。

 マイカは、それに対処するのに精一杯で、もはや作倉の授業を追いかけることができなくなっていた。コンビネーションを表すCがどのようなものかなど頭に入っていなかった。

 そして、幾度目かの眠気の波がやってきたとき、マイカはそれに負けそうになっていた。ついに、どの角度から見ても「眠たそうにしている」とばれしてしまうぐらい頭を垂れてウトウトし始めてしまう。

 そんなときだった。

「大丈夫か!」

 作倉の声だった。マイカはその声で、一瞬で目が覚めた。教室はシーンとしている。作倉は、マイカではなく違う方向を見ている。

「ここがふんばりどころだ。もうちょっとがんばってくれ」

 作倉は、ひとりの男子に声をかけていた。その男子は、優しく注意されて、「すいません」と照れながら言った。どうやら、その男子は、先ほどからひどく眠気に襲われていた中のひとりのようだ。

 自分が声をかけられたのかと思ってマイカは肝を冷やした。一瞬、作倉の唐突に発せられた言葉が、教室内に緊張感をもたらしたが、作倉は居眠りに寛容なのだと分かり、クラス内は再び温和な雰囲気に包まれた。

「じゃあ、練習問題のページをやってみましょう。」と作倉が言った。「もし理解が足りていないと思ったら、迷うことなく呼んでください。助けます」

 マイカは、すっかり眠気は飛んでいたが、作倉の話が頭に入っていなかったので、問題を解ける気がしなかった。せっかく昨晩寝る前に必死でやった復習もこれじゃ台無しだ。しかしだからと言って、分からなくて手をあげて作倉を呼ぶなど、死んでもしたくないとマイカは思った。

 マイカは作倉の方をちらっと見た。作倉は分からなくて困っている生徒を探しているようで、教室内をゆっくりと見回っている。幸い廊下側から見回り始めていたので、窓側のマイカの席に来るまではまだ時間があった。

――昨日の夜、一応復習したんだけどなぁ。

 マイカは、その問題がPを使うのかCを使うのかでつまずいていた。すぐに、眠気と闘っていたときに必死でとっていたノートのメモを見直した。マイカの書いた文字は所々ミミズのような線になっていてわざわざ解読するのに手間がかかった。

――コンビネーションは選ぶだけで、パーミュテーションは選んで並べるから、並びのバリエーションの分だけ割らないといけない……?なんのことやら……。そもそも広美先生はピーって言っていたのに、いきなりパーミュテーションだなんて英語で言われてもね。

 マイカは、問題を考えてみては、作倉がまだこちらに来ないかチェックする。そのため、頭を上げたり下げたりを不自然に繰り返していた。

 恥を忍んで、作倉を呼び、無事解決に至った生徒がいたようだ

「うおー、分かった!ありがとうございます!」という男子の高らかに叫ぶ声が静かな教室内に響く。

 すると、堰をきったように、あちらこちらから作倉を呼ぶ声が出てきた。作倉は、一見無愛想な感じではあるが、ひとりひとり丁寧に対応した。作倉に導かれて、一人、また一人と問題を解決していく。その中には、眠気に負けていた男子もいただろう。

――私は、事情が違うんだから。

 マイカは、黙々と考え続けた。しかし、分からないものは分からない。ペンを握る力が思わず強くなる。これまでも、プライドが理解の妨げになっているというのは、マイカもよく分かっていたが、作倉には因縁ができてしまった。弱いところを少しでも見せたら、心があの世界の闇に取りこまれたままのような気がした。

 マイカは一瞬、あの怪物のことを思い出しそうになる。

 だが、すぐに頭を横に強く振り、邪年を振りほどこうとした。この一日、朝からずっと怪物たちの影が頭にちらついては、懸命に他のことを考えて、思い出さないようにしていた。この時も、マイカは教科書の問題文を繰り返し読み、思考の最奥にあの三体を追いやろうとした。

――あれ?目が…?

 マイカは問題文を目で追っていると、だんだんとその文字が浮かび上がって見えてきた。それに気付くや否や、目の表面に涙がいっぱいたまっているかのように、視界が歪んできた。

 マイカは、実際目にゴミでも入ったのかと思って、両目を何度もこすり、目を大きく見開くが、依然として目の前の景色はぼやけたままだ。

「あれ?どうして?」

 マイカの口から声が漏れた。もう教科書の文字なんて見えない。視力の良さには自信があるはずだが、マイカは、ひどい乱視にでもなったかのような状態になっていた。

「マイカ、どうしたの?」

 みどりの声が聞こえた。おそらくマイカの様子がおかしいので、心配して声をかけたのだろう。

 マイカは突然のことで、パニックに陥っていた。パニックになればなるほど、あの怪物たちの影が何度も頭にちらつく。

 傍から見れば、マイカの様子は明らかにおかしかった。顔を両手で覆い、「あぁ……」とうめくような声を出し、何かに怯えているようであった。

 マイカの視界は、次にだんだんと暗くなっていった。まだ、昼のはずなのに、マイカの目に映るのは、もう夜の暗さであった。

 暗さが増していく一方で、ひどい乱視状態から、だんだんと視力が回復してくる。ゆっくりと顔を上げて、マイカが最初にとらえたのは、意外なものだった。

「石の……じゃなくて」
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