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01:『始まらない物語』の始まり≫≫
しおりを挟むそれは心地よい春の日射しの差し込む午後だった。
深い――うねる海よりもっともっと深い、微睡みの中から私は急浮上する。なぜ午後だとわかったのかは何となくだ。カーテンの隙間からふくらはぎに当たっている陽の光はいくら春といえども午前中のそれではない――くらいの。問題はなぜ今が午後なのかということである。
私は高校二年生だ。なのに目覚めたのが午後だということは今日が日曜だからか春休みだからか、そのどちらかでしかない。というよりそうでなければ困ったことになる。とても。
「麗美! いつまで寝てんの。もうお昼よ!」
掃除機の音と共にお母さんの声が近付いてくる。よかった、やっぱり日曜なのだ。ほっとしながらミッフィーの形をした目覚まし時計に手をのばすと頭がズキリと痛んだ。私は眉間に皺を寄せた。まるで二日酔いみたいだ。もっともお酒なんか飲んだことないのだけれども。
「あんた、蘭ちゃんと約束があるとか言ってなかった?」
蘭? あれ、そうだっけかな……いや、そうだった! 無造作に前髪をかきあげると[11:36]と表示された文字盤を確認する。午後という予想は惜しくも外れたが貴重な日曜の三分の一を無駄にしたという事実は揺るがない。
残された二十四分という『午前』をシャワーと歯磨きで費やす。蘭との試験勉強の約束は午後一時。図書館までは電車を使えば三十分もかからない。ヨーグルトで適当に食事をすませながら髪を乾かしているとまた頭がチクリと痛んだ。
痛った……。なんなんだろこれ。昨日どこかにぶつけたっけかな? そもそもあたし、なんでこんな時間まで寝てたんだっけ? ああ、そうか、朝方まで勉強してて……あれ、寝落ちしたんだっけ? それでそのまんまベッドに倒れ込んだ……のかな?
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
「そんな感じで昨日の夜の行動がね、なんだかすごく曖昧なの。自分の頭の中に記憶をむりやり貼りつけていってる感じ? ここはどこ? 昨日までの世界は本当に存在してたの? みたいな、まるで……ええと、こういうの何て言うんだっけ? 五秒……五分……」
「世界五分前仮説?」
「そう、それ。そのナントカ仮説みたいな」
「私の名前は?」
「取手蘭……さんですよね?」
「昨日、学校の帰りに行った『シャトレーゼ』で私が食べてたケーキは?」
「えっと……パリパリチョコのショート、だったっけ?」
蘭は参考書の細い背中でコツリと私の額をこずく。
「いて」
「ブブーッ、苺スフレのチーズケーキ!」
「あ、そっか、そだそだ」
「何が五分前仮説よ、だいたいね、麗美は忘れっぽいだけなの。二日酔いのおっさんか」
お気に入りである窓際の席は確保できなかったものの私と蘭は図書館内中央にあるこじんまりとしたテーブルに向かい合わせで座ることができた。
「二日酔いっていえば、今朝から頭もキリキリ痛むんだよね……あ、もちろん二日酔いなんてなったことないよ、ないんだけどその感覚ってのがなんかわかるっていうか、う~ん、つまり……」
「つまり、それは麗美の前世がおっさんだったってことよ」と蘭は言葉をかぶせてくる。
「もう!」と、私は怒ったふりをしてみせたが蘭の言葉は妙に的を射ていた。私はきっと前世で酔っ払ったことがあるのだ。だから体験として二日酔いの感覚を知っているのだ。そんな感じにも似ていた。
「でもそれって矛盾してるか。世界が五分前に出来たとしたら前世なんて存在するわけがないもんね」
そう言ってあははと笑う蘭の髪の毛を後ろからぐしゃりと掴んだのは私たちと同じ私立大江高校の同級生である井戸部くんだった。
「図書館でバカ笑いしてるバカはどんなバカかと思えば……なるほど、こんなバカか」
井戸部優。クラスは隣のA組。趣味は読書で血液型はO型。好きな食べ物はもんじゃ焼きで、なぜ制服姿なのかというと、きっとそれは陸上部の朝練の帰りだから……だと思う。彼女はいない、たぶんだけど……そのはず。
私は頬のあたりが変に紅潮してくるのを感じ、少し目を伏せた。
「ふざけんなよ、放せよ、放せってば!」
そう…… そして彼は蘭の幼馴染み。こうやってじゃれ合う姿は校内でも日常茶飯事だ。もっとも本人たちはじゃれ合っているなどとは微塵にも思っていないのだろうけれど。
私はなんだか手持ち無沙汰になって眼鏡を外し、参考書に目を落とす。……って、おかしいじゃん。普通本読む時に眼鏡かけるんじゃん。逆じゃん。何やってんだろ、あたし――
自分がそんな些細な動揺をしていることに気付くと余計に頭に血が上ってきそうだった。
「あれ、奥田さんって本読む時に眼鏡外すんだ? 変わってるね」
まるで心を見透かされたように井戸部くんから素早い突っ込みが入る。何この人、超能力者なの? それとも一流演出家並の観察眼の持ち主なの? 妖怪サトリなの?
「ひょっとして奥田さんって……老眼?」
「んなわけねえだろ!」と空かさず蘭は的確に私の気持ちを突っ込み返してくれる。さすがは我が親友。
「なんだよ、何しにきたんだよ」
「図書館に来るのに何でもくそもないだろが」
「どうせまた絵本でも借りにきたんだろ?」
「『ゲド戦記』は絵本じゃないぞ。児童文学書だ」
井戸部くんはドヤ顔でそう言い放ち、持っていたハードカバーの本を蘭の目の前に差し出した。『アースシーの風』とある。あれは確か第五巻だ。
「ガキの本はガキの本じゃねえか」
そう言うと蘭は左手でくるくるっとシャーペンを器用に回した。
「おまえな、これは哲学的な本なんだぞ。ねえ、奥田さん」
「わ、私はアニメしか見たことないから」
「アニメってジブリ? あれはダメダメ! 原作の何たるかを全然わかってないよ。俺、三巻までだったら持ってるから読んでみなよ。今度貸してあげるからさ」
「へ? ……そ、それは、ども」
私は笑顔をつくりながら自分の部屋の本棚を思い出す。実を言うと私はアマゾンで購入した『ゲド戦記』の全巻セットを持っているのだ。その中には井戸部くんが今手にしている『アースシーの風』だってもちろんある。ただ、私にはなんだかチンプンカンプンだったので児童書だというのに一巻の途中で断念したのであった。
「こら、話につけこんで人の親友を口説こうとするんじゃねっつの」
「へいへい、分かったよ、分かったって! へえ……でも奥田さんって眼鏡外すとけっこう可愛いんだね。意外」
私の心臓はドキリと跳ね上がった。
「だぁっ! もう、あっち行け、バイ菌! 麗美が腐る! しっしっ!」
いや……腐らないから。蘭に噛みつかれ、井戸部くんは私の方に軽く手を振りながら貸し出しカウンターの方へ去っていった。蘭は井戸部くんによってぐしゃぐしゃにされた髪を手櫛で直し「もう」と鼻を鳴らした。
「ちょっとトイレ行ってくるね。ごめんね、なんかすっかり水が入っちゃったよね」
そう言ってトイレのある二階へと上がっていく蘭を見届け、私は再び眼鏡をかけた。
カウンターで貸し出し手続きをしている井戸部くんの背中が見える。
(眼鏡外すとけっこう可愛いんだね――)
井戸部くんのさっき言葉が頭の中で木霊していた。胸がまたトクンと高鳴る。けれど、眼鏡がないとあなたの背中がはっきり見えない。
もう一度振り向いてくれないかなとも思ったが眼鏡をかけた姿はあまり見られたくないなとも思う。
井戸部くんは本をバッグにしまうとそのまま出口の方へ歩いていった。なんだかほっとしたような、がっかりなような、複雑な気持ちで私はその後ろ姿を目で追っていた。
そんな感じだったから「はぁ」と深い溜め息をついた時だったのだ。私がようやく蘭の視線に気づいたのは。
蘭は階段の踊り場に立ち、口を半開きにしたような顔で私を見つめていた。そしてさっきまで私が見ていた視線の先を確認するとゆっくりと階段を降りてきたのだった。
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