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02:『実らない恋物語』の始まり≫≫
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男はトイレの個室に入ると後ろ手に鍵を締めた。
ぐるりと個室内を見回し、壁面に貼られたタイルを一枚一枚なぞるように確かめていく。
「この辺り……か?」
そのうちタイルの一枚に何か変化を感じたのか彼の手が止まった。125c㎡ほどのその一枚に顔を近付け、コツコツと軽く叩いてみる。
「ほれ、早く出てこいよ」
その言葉に反応するように、タイルは機械的な動作でカシャリとこちら側に倒れるように開いた。
今までタイルの壁面部分だった箇所にはディスプレイが現れ、こちら側に倒れ込んできたタイルの裏側にはタッチパッドが付いていた。ちょうど壁に小型ノートパソコンが装着されているような状態になる。
さらにキーボードの上にはこの時代――2018年最新型のスマホが備え付けられていた。男はそれを右手で掴むと、左手でタッチパッドを扱いモニターに何かを入力し始めた。
やがて右手にバイブの震動を感じ、男はスマホを耳に当てた。
「榎本か? 俺だ。現在、目標に接近中。 これからストーリー・メイカーのBシステムを落として『手動』に切り替えるとこだ。イグジステンス=レベルの増減を確認しながら出口らしいところを探しておいてくれ。……大丈夫だよ、今回はそれほど難しい仕事じゃない。すぐに戻れるはずだ。夜食はカレーが食いたい。うまいマッサマンカレーが食いたい。以上」
男は通話を切ると画面をスクロールし、打ち込んだ文章を確かめるように目を細めた。
図書館を出てから駅まで伸びる線路沿いの道すがら、蘭は口数が少なかった。時おり腕を組んで何か考えているようにも見える。
私が井戸部くんの方をじっと見つめていた姿を蘭に見られたのは間違いない。やはりそのことが原因なのだろうか。なんだかこのまま駅でバイバイになってしまうと後々ギクシャクしてしまいそうだなと思ったので、私はいっそのこと自分の方から切り出してみることにした。
「仲、いいよね、ホント」
「ん?」
「ほら、蘭と……井戸部くんって」
「はぁ? あれのどこが仲良く見えるっての?」
「なんか、その、兄弟みたいでいいじゃん。私、一人っ子だから羨ましいなって」
「あのね、私だって一人っ子だし。あんな兄貴も弟もいらないし。ましてや……」
最後の一節を口ごもり、蘭は――その華奢な身体にはやや不釣り合いな大きめのデイパックをかけ直した。そしてまたもや腕を組み「んー」と謎の唸り声をあげる。
蘭はそう言ってるけれど言葉なんてしょせん嘘つきだ。実際のところ蘭は井戸部くんのことをどう思ってるんだろう? そのへんを一度きちんと聞いてみたい気持ちも私の中には昔からあった。だって、それを確かめなければ私自身も前へ進めない。
そう、いつの頃からだろう。気付くと私は井戸部くんのことばかり考えてしまっているのだ。
「そ~んなこと言っちゃって。もし、井戸部くんに彼女とかできちゃったら寂しいんじゃないの~?」と、私はつとめて軽く明るく、そして冗談めかした感じで突っ込んでみる。
(いっそのこと付き合っちゃえばいいじゃん――)
そう口に出しかけたが――それはやめた。もしそれが本当になってしまったらと思うと怖かったのだ。
「ねえ、麗美」
「ん?」
「……ううん、何でもないの。なんだか喉乾いちゃったな」
蘭は近くの自販機に駆け寄ると爽健美茶のボタンを押し、電子マネーをかざした。小サイズのペットボトルがゴトリと落ち『アリガトウゴザイマシタ!』と自販機が機械音で喋る。蘭はキャップを空け、コクコクと喉を鳴らした。
別に喉など乾いてなかったのだが私も釣られるようにコインを自販機に投入し、紅茶のボタンを押す。
「ねえ、麗美ってさ」
「だから何よ?」
ゴトリ。
「その、麗美って、イトベーユのこと……」
一瞬イトベーユの意味がわからなかった。ジュースか何かの銘柄かと思ったが、イトベーユとは蘭が井戸部くんのことを呼ぶ時に使うあだ名だということに気付くまでにさほどの時間は必要としなかった。
蘭は児童文学が好きな井戸部くんをからかい、エンデの『はてしない物語』に出てくる勇者アトレーユに井戸部優を捩じってイトベーユと呼んでいるのだ。
私ははたと気付く。あ、あれ? このシチュエーションはやばい……のでは?
「ひょっとしてだよ? ひょっとして――」
「ちょ、ちょーっと待った!」
蘭の言葉を遮るようにして私は口を挟む。蘭にその先を言わせてはいけない。
「な、なんか勘違いしてるんじゃない? 絶対なんか勘違いしてるよ、蘭ってば。あは、あはははは」
――チガウ、カンチガイジャナイ。
「あたしのことだったら別に気にしなくていいんだよ。ホントにただの幼馴染みなだけなんだし。あいつだって麗美のこと可愛いって言ったし。麗美だってさっき、図書館であいつのことじっと見てたじゃん」
そうだよね。やっぱり見られてたんだよね。
「だから、それは……違うんだって」
――チガウ、チガッテナンカイナイ。
「誤解だよ」
――ゴカイジャナイ。
「その、私は……」
――ワタシハ、
「私は……」
――ワタシハ、ソウ、イトベクンノコトガ、スキ。
「私……実は、あの図書館の受け付けのお兄さんのことが好きなの!」
私たちの傍らを轟音と共に快速電車が物凄い勢いで通過していく。
──は? は? はぁ?
な、なんじゃそりゃ? いくら咄嗟に出てきた出鱈目とはいえ、これはあまりにも酷すぎやしないか?
「は……?」
このあまりの突発的爆弾発言に蘭も狼狽しているようだった。そりゃそうだ。
「え? そ、そうだったの? 私、てっきり」
「そう。そうなの。ずっと前から私、あのお兄さんのことが……。だから誤解なんだってば、私が見てたのは井戸部くんじゃなくって……井戸部くんのことなんか、うん、その、全っ然タイプじゃないし、高校生にもなって児童書なんて読む人なんて……ねえ?」
ダメだ。先に進むどころじゃない。
井戸部くんの幼馴染みの蘭。
そして、私の親友である蘭。
彼女の前でこう宣言してしまった以上、彼に接近することなどもうできない。ひょっとしたら蘭の口からこのことが井戸部くんに伝わってしまう可能性だってある。
終わった――
私の恋は終わったのだ。忘れよう、井戸部くんのことは綺麗さっぱり忘れ去り、明日からまた新しい恋を探すのだ。
ぐるりと個室内を見回し、壁面に貼られたタイルを一枚一枚なぞるように確かめていく。
「この辺り……か?」
そのうちタイルの一枚に何か変化を感じたのか彼の手が止まった。125c㎡ほどのその一枚に顔を近付け、コツコツと軽く叩いてみる。
「ほれ、早く出てこいよ」
その言葉に反応するように、タイルは機械的な動作でカシャリとこちら側に倒れるように開いた。
今までタイルの壁面部分だった箇所にはディスプレイが現れ、こちら側に倒れ込んできたタイルの裏側にはタッチパッドが付いていた。ちょうど壁に小型ノートパソコンが装着されているような状態になる。
さらにキーボードの上にはこの時代――2018年最新型のスマホが備え付けられていた。男はそれを右手で掴むと、左手でタッチパッドを扱いモニターに何かを入力し始めた。
やがて右手にバイブの震動を感じ、男はスマホを耳に当てた。
「榎本か? 俺だ。現在、目標に接近中。 これからストーリー・メイカーのBシステムを落として『手動』に切り替えるとこだ。イグジステンス=レベルの増減を確認しながら出口らしいところを探しておいてくれ。……大丈夫だよ、今回はそれほど難しい仕事じゃない。すぐに戻れるはずだ。夜食はカレーが食いたい。うまいマッサマンカレーが食いたい。以上」
男は通話を切ると画面をスクロールし、打ち込んだ文章を確かめるように目を細めた。
図書館を出てから駅まで伸びる線路沿いの道すがら、蘭は口数が少なかった。時おり腕を組んで何か考えているようにも見える。
私が井戸部くんの方をじっと見つめていた姿を蘭に見られたのは間違いない。やはりそのことが原因なのだろうか。なんだかこのまま駅でバイバイになってしまうと後々ギクシャクしてしまいそうだなと思ったので、私はいっそのこと自分の方から切り出してみることにした。
「仲、いいよね、ホント」
「ん?」
「ほら、蘭と……井戸部くんって」
「はぁ? あれのどこが仲良く見えるっての?」
「なんか、その、兄弟みたいでいいじゃん。私、一人っ子だから羨ましいなって」
「あのね、私だって一人っ子だし。あんな兄貴も弟もいらないし。ましてや……」
最後の一節を口ごもり、蘭は――その華奢な身体にはやや不釣り合いな大きめのデイパックをかけ直した。そしてまたもや腕を組み「んー」と謎の唸り声をあげる。
蘭はそう言ってるけれど言葉なんてしょせん嘘つきだ。実際のところ蘭は井戸部くんのことをどう思ってるんだろう? そのへんを一度きちんと聞いてみたい気持ちも私の中には昔からあった。だって、それを確かめなければ私自身も前へ進めない。
そう、いつの頃からだろう。気付くと私は井戸部くんのことばかり考えてしまっているのだ。
「そ~んなこと言っちゃって。もし、井戸部くんに彼女とかできちゃったら寂しいんじゃないの~?」と、私はつとめて軽く明るく、そして冗談めかした感じで突っ込んでみる。
(いっそのこと付き合っちゃえばいいじゃん――)
そう口に出しかけたが――それはやめた。もしそれが本当になってしまったらと思うと怖かったのだ。
「ねえ、麗美」
「ん?」
「……ううん、何でもないの。なんだか喉乾いちゃったな」
蘭は近くの自販機に駆け寄ると爽健美茶のボタンを押し、電子マネーをかざした。小サイズのペットボトルがゴトリと落ち『アリガトウゴザイマシタ!』と自販機が機械音で喋る。蘭はキャップを空け、コクコクと喉を鳴らした。
別に喉など乾いてなかったのだが私も釣られるようにコインを自販機に投入し、紅茶のボタンを押す。
「ねえ、麗美ってさ」
「だから何よ?」
ゴトリ。
「その、麗美って、イトベーユのこと……」
一瞬イトベーユの意味がわからなかった。ジュースか何かの銘柄かと思ったが、イトベーユとは蘭が井戸部くんのことを呼ぶ時に使うあだ名だということに気付くまでにさほどの時間は必要としなかった。
蘭は児童文学が好きな井戸部くんをからかい、エンデの『はてしない物語』に出てくる勇者アトレーユに井戸部優を捩じってイトベーユと呼んでいるのだ。
私ははたと気付く。あ、あれ? このシチュエーションはやばい……のでは?
「ひょっとしてだよ? ひょっとして――」
「ちょ、ちょーっと待った!」
蘭の言葉を遮るようにして私は口を挟む。蘭にその先を言わせてはいけない。
「な、なんか勘違いしてるんじゃない? 絶対なんか勘違いしてるよ、蘭ってば。あは、あはははは」
――チガウ、カンチガイジャナイ。
「あたしのことだったら別に気にしなくていいんだよ。ホントにただの幼馴染みなだけなんだし。あいつだって麗美のこと可愛いって言ったし。麗美だってさっき、図書館であいつのことじっと見てたじゃん」
そうだよね。やっぱり見られてたんだよね。
「だから、それは……違うんだって」
――チガウ、チガッテナンカイナイ。
「誤解だよ」
――ゴカイジャナイ。
「その、私は……」
――ワタシハ、
「私は……」
――ワタシハ、ソウ、イトベクンノコトガ、スキ。
「私……実は、あの図書館の受け付けのお兄さんのことが好きなの!」
私たちの傍らを轟音と共に快速電車が物凄い勢いで通過していく。
──は? は? はぁ?
な、なんじゃそりゃ? いくら咄嗟に出てきた出鱈目とはいえ、これはあまりにも酷すぎやしないか?
「は……?」
このあまりの突発的爆弾発言に蘭も狼狽しているようだった。そりゃそうだ。
「え? そ、そうだったの? 私、てっきり」
「そう。そうなの。ずっと前から私、あのお兄さんのことが……。だから誤解なんだってば、私が見てたのは井戸部くんじゃなくって……井戸部くんのことなんか、うん、その、全っ然タイプじゃないし、高校生にもなって児童書なんて読む人なんて……ねえ?」
ダメだ。先に進むどころじゃない。
井戸部くんの幼馴染みの蘭。
そして、私の親友である蘭。
彼女の前でこう宣言してしまった以上、彼に接近することなどもうできない。ひょっとしたら蘭の口からこのことが井戸部くんに伝わってしまう可能性だってある。
終わった――
私の恋は終わったのだ。忘れよう、井戸部くんのことは綺麗さっぱり忘れ去り、明日からまた新しい恋を探すのだ。
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