北溟のアナバシス

三笠 陣

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第三章 日ソ開戦編

50 スターリンの極東戦略

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 モスクワ時間八月八日午後五時半過ぎ、ようやくスターリンは映画の鑑賞を終えた。
 日本時間でいえば八日午後十一時半を過ぎ、開戦まであと三十分もない時刻である(なお、ソ連のウラジオストク時間はほぼ同経度の日本時間より一時間進んでいる)。

「同志スターリン、ハバロフスクの同志ヴォロシーロフよりお電話です」

 先ほどまで見ていた映画の余韻に浸っていたスターリンに、秘書官が報告する。

「うむ」

 赤い皇帝は、一つ頷いて受話器を受け取った。

「同志ヴォロシーロフ、そちらの方はどうかね?」

 大好きな映画を見たあと特有の上機嫌な声で、スターリンは語り掛けた。

『はっ、同志スターリン。すべては順調に進んでおります』

 受話器の向こうにいるヴォロシーロフの声には、多少の緊張による硬さがあるように感じたが、スターリンは特に気にしなかった。

『我々は日本帝国主義勢力に完全なる奇襲を成功させられましょう』

「よろしい、大いによろしい。いずれ、同志の戦いぶりも映画にしたいものだな」

 スターリンは長年の友人に対して、そんな冗談を飛ばす余裕すら見せていた。

『光栄であります。同志スターリン』

「うむ。では、次の電話では是非、吉報を聞かせてくれたまえ」

『必ずや、同志スターリン』

 そう言って、電話は終わった。
 これでようやく、自身にとって常に悩みの種であった東方の脅威、大日本帝国を取り除くことが出来る。スターリンはそのことを思い、むしろ安堵すら覚えていた。
 確かにフィンランド軍相手には苦戦した赤軍ではあったが、ハルハ河戦争の経験を考えれば日本軍はフィンランド軍などよりも数段、劣る相手と見ていい。であるならば、自分たちにとって真の敵は日本軍ではなく時間である。
 スターリンはそのように考えていた。
 対日戦争を三ヶ月で完遂させて東方の脅威を消滅させ、西方でヒトラーと対峙する万全の体制を築き上げる。それが、スターリンが対日侵攻作戦に踏み切った理由である。
 また、対日戦には日本の脅威を取り除くという以外の目的も、存在していた。
 まず、樺太・千島を奪還(あくまでもスターリンの主観)することで、ソ連の太平洋への出口を確保して海洋進出を確実とさせること。これは、大海軍の再建を願っているスターリンにとって、日本の脅威を取り除くことと同程度に重要な戦争目的でもあった。
 作戦が予定よりも順調に進むようであれば、北海道の占領すらスターリンは視野に入れていた。そうすれば、ソ連は宗谷海峡の両岸、そして津軽海峡までもを自国の勢力圏下に収めることが出来る。
 また、出来れば対馬のロシア領への編入も、スターリンは考えていた。樺太、千島、北海道、対馬をソ連領とすることで、再建された太平洋艦隊は宗谷海峡、津軽海峡、そして対馬海峡を通って太平洋方面にも東南アジア方面にも自由に展開させることが出来る。
 朝鮮には、モンゴルのようにソ連の影響力の強い人物を傀儡として据えて独立させてしまえばいい。幸い、ソ連領には抗日闘争に敗れてソ連に逃げ込んできた金日成を中心とする朝鮮人共産主義者がいるのだ。
 そして、副次的な戦争目的として、日本人どもが満洲に築き上げた工業資産の接収があった。対独戦に備えるというのが対日戦の目的であるから、これもまた副次的ながら重要な戦争目的であった。
 日本人は満洲に航空機や自動車の工場、そして油田施設などを多数、設けている。これらの設備をソ連領内に移築してさらなる工業化、特に対独戦においては後方となるであろうシベリア・極東地域の工業化を促進する。もちろん、設備だけでなく日本人技術者も多数、連行してくる計画であったし、日本人捕虜や民間人も容赦なく労働力としてソ連領内に送るよう、スターリンはヴォロシーロフらに命じていた。
 ソ連らしく連行してこなければならない人数には数値目標(ノルマ)が設けられていたから、スターリンは対日戦によってかえってソ連の軍事力や工業力は強化されると見込んでいた。

「さて、同志モロトフにハリマン大使との会談の予定を組むよう伝えよ」

 スターリンは自らの秘書官にそう命じた。
 ハリマンとは、アメリカの駐ソ大使アヴェレル・ハリマンのことである。この人物は、かつて満鉄の日米共同経営を目的とした桂・ハリマン協定を結んだ鉄道事業家エドワード・ハリマンの息子であった。

「此度の戦争の意図について、アメリカ政府には十分、理解してもらう必要があろうからな」

 スターリンは日本よりも一手早く、アメリカに対する外交工作を開始しようとしたのだった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 スターリン・ハリマン会談は、アメリカ側も極東で発生した事態の詳細を把握しようと努めていたため、その日のうちに実現されることとなった。

「ハリマン大使、ようこそいらっしゃいました」

 モロトフを同席させながら、スターリンはクレムリン宮殿でアメリカの大使をにこやかに迎え入れた。

「貴国のルーズベルト大統領は息災であられますかな?」

「ええ、十一月の大統領選挙に向けて、精力的に活動なさっております」

 ハリマン大使が、そう応じる。

「それは結構。帝国主義勢力に断乎とした姿勢をとり続けるルーズベルト氏の姿勢には、私も感銘を受けておりますからな」

 スターリンは秘書官に目配せをして、机の上に極東方面の地図を広げさせた。

「さて、この度、大使をお呼び出ししたのは、極東で起こりつつある事態について我が国の立場をよく了解していただくためです」

「私も、先ほどのラジオを聞いた際には、驚きました」ハリマンは、探るような視線でスターリンを見る。「確か、貴国と日本との間には中立条約が結ばれており、それはまだ有効であったと記憶しているのですが?」

「大使は我が国が条約違反を犯したとおっしゃりたいのですかな?」

 いかにも意外そうに、スターリンは驚いて見せる。

「それはとんでもない誤解だと申し上げましょう。日本こそ、中立条約を幾度にもわたって侵犯し、その有効性を損ねてきた国家ではありませんか? 我が国にとって、日本が侵略的軍事作戦に乗り出したハルハ河戦争はまだ記憶に新しい」

 スターリンは、まるでノモンハン事件の頃にはすでに日ソ中立条約が成立していたかのような口ぶりで続ける。

「その後も、日本は満洲に駐留させる兵力を増強し続け、ソ日の友好関係を損なう行動をとり続けておりました。さらに我が国に返還すると約束した北サハリンの油田も、言を左右してなかなか返還せず、こうした点から見てもかの国の数々の条約違反は明らかでありましょう」

「……スターリン首相のご意見は判りました。しかし、此度の対日開戦は、我が合衆国としても注視せざるを得ない事態です」

「ですから、私の口より直接、大使に説明申し上げようと思っているのです」

 善良な被害者の口調で、スターリンはアメリカ大使に述べる。

「そもそも、日本の侵略主義が今に始まったことではないことは、貴国もよくご存じでしょう? 本来、領土が保全され、その門戸が開放されるべきである中国に、日本の帝国主義者どもは五十年以上にわたって侵略行為を続けてきたのです」

 自国はアロー戦争(一八五六~一八六〇年)の頃から中国への侵略を繰り返し、沿海州を獲得した事実を棚に上げて、スターリンは日本の対外政策を非難する。

「そして日本の侵略の魔の手は、四十年前、このロシアの地をも襲いました。その結果、南サハリンとクリル諸島が日本に奪われたことは、我々ロシア人の間で今も屈辱の記憶として残っているのです」

 やはりスターリンは、千島列島がそれ以前から日本領であったことを無視して、自国の正当性を主張した。

「さらには革命期におけるシベリア出兵。そして近年に至っては、ウラジオストクに繋がる海路を日本はことごとく封鎖・妨害し、実質的な戦争行為を仕掛けてきていました。我が国には、自国の海を守る権利が、そして奪われた領土を取り戻す権利があります。最早、日本帝国主義者に対して隠忍自重することは、ソ連人民にとって耐え難いことだったのです。故に、我々ソ連人民が日本の侵略者どもに対して決然として立ち上がらねばならなかったことを、大使には、そして貴国には、ご理解いただきたい」

「つまり貴国は、満洲より日本を駆逐し、南サハリンとクリル諸島を奪還することが、今回の戦争目的だと言われるのですな?」

「より厳密にいえば、四十年前の戦争で日本帝国主義勢力に奪われたものを奪還すること、ですな」

 スターリンは訂正した。そして、地図の中にある中国東北部を差す。

「遼東半島は、かつて我が国の租借地でした。貴国の、上海租界などと同じように、です」

「……」

 そう言われてしまっては、ハリマンとしても反論に困るものであった。
 確かにアメリカは中国の領土保全と門戸開放、機会均等を謳っているが、一方で上海租界などは維持し続けていたのである。国民党と共産党が激しい内戦を繰り広げている現状では、租界の返還は現実的ではなかった。

「そして、満洲の鉄道。これもまた、我が国が日本によって奪われたものです。これらを取り戻す権利が、我が国にはあるのです」

 スターリンはそこで、柔らかな笑みを見せた。

「しかしご安心いただきたい。我が国は、日本と違い、満洲の地を独占しようとは考えておりません。あくまで、鉄道と港の利権を取り戻したいだけなのです。戦争となれば、満洲の地は日本軍によって徹底的に破壊されるでしょう。戦後の復興には、是非とも貴国のお力添えを願いたい」

「……スターリン首相のご意見は理解いたしました」

 このソ連首相がどこまで満洲の市場開放という口約束を守るのか疑問に思いつつも、あくまで大使という立場からハリマンはそう言った。
 彼はかつて駐ソ大使を務めたデイビスとは違って、ソ連贔屓ではない。さらに彼の下にいるジョージ・ケナンは、明確にソ連の脅威を主張する人物であった。
 だからこそ、ハリマンはスターリンの言葉がどこまで本音であるのか、懐疑的であったのである。
 彼は大使館に帰りこの会談結果を本国に報告すると共に、ケナンに対してソ連の対外政策について検討を加えるよう命じることを考えていた。
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