バベルの塔の上で

三石成

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第一章 邂逅

四 むかし

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 それから数分後、私はホゥロと共に杉原家の風呂場にいた。

 ホゥロは全身から獣のような臭気を放っており、端的に言えば強烈に臭い。その状態で同じ部屋にいて話し続けるのが辛かったので、先にシャワーを浴びてもらうことにしたのだ。

 しかし、彼はシャワーというものの存在自体を知らなかった。この家に来てから一度も風呂に入っておらず、当然、風呂場の使い方もよくわからないということで、一緒に入ってしまうことにしたのだ。

 一緒に入ると言っても、私自身はズボンの裾を捲っただけで、着衣のままだ。裸にしたホゥロの体や髪を洗ってやりながら、お湯の出し方をはじめ、風呂場の使い方を教えてやっている。

「すごい。洗えば洗うほど汚れが出てくるぞ」

 泡立てたシャンプーでホゥロの長い髪を洗いながら、思わず感嘆の言葉を漏らしてしまう。

 はじめの一回はなかなか泡立たずにすぐに洗い流し、これで二回目のシャンプーだが、すでに白かったはずの泡が黄ばんできている。髪の色もあいまって、他人の洗髪をしてやっているというよりも、大型犬かなにかを洗っているような気分になってきた。徐々に手つきに遠慮がなくなる。

「う、うう……」

 ホゥロは目をぎゅっと瞑ったまま、先ほどから呻いている。

 これまた大層臭かった服を脱いで風呂場に入るところまでは、特に羞恥する様子も見せずに非常に素直だったホゥロだが、体や髪を洗われることには、それなりの抵抗を示した。抵抗といっても逃げようとしているわけではなく、

「泡が目に入ると沁みるから、髪を洗っている間は目を閉じていなさい」

 と促すと、おとなしく従う。

「痛くはないだろう? お湯が苦手なのか?」

 手を忙しなく動かし続けながら問いかける。

「いいえ。主様にこのようなことをしていただくのが申し訳ないだけで。すごく、気持ちがいいです。そして気持ちいいのが、また背徳感を覚えると申しますか」

 ホゥロはもう一度呻いてから、心底申し訳なさそうに言う。つまりこの呻き声は、苦痛が理由なのではなく、気持ちよさを我慢して出てくるものらしい。

「やり方を覚えたら、次からは自分でやってくれ。いまは夏場だし、シャワーは毎日浴びたほうがいい。しかし私に会うことが目的だったのなら、ここに長居するつもりはないのか?」

 ホゥロに聞きたいことは山ほどある。話の流れから浮かんだ一つの疑問を口にしたが、ホゥロは逆に質問を返してきた。

「先ほどの様子から気になっていたのですが、先ほどの者たちと、主様はどのような関係なのですか?」

「どのような関係って言われてもな。真澄は私の古くからの友人だ。そのほかの者たちは、同郷の者ということになるかな」

「敵地の者たちは、我らの土地を滅ぼし、主様に仇成した敵ではないのですか? 主様は彼らに虐げられているのではないのですか」

 彼の真意が掴めず、私は一度口を噤んで考えてから返事をする。

「その『敵地』っていうのは、このあたりの集落のこと、つまり古鳥のことを指しているという認識で良いのか?」

 確認すると、ホゥロははっきりと頷いた。私は慌てて言葉を続ける。

「どうしてそう思ったのかはわからないが、古鳥の人間は敵などではないぞ。虐げられてもいないし、私も今日からここでしばらく世話になる予定だ」

「なるほど……でしたら、潜暗夜を止める必要がありますね」

 再度登場した聞きなれない単語に、私は首を傾げる。

「先ほども言っていたが、その潜暗夜というのは、何だ?」

「潜暗夜は、端的に言えば敵を皆殺しにする作戦のことでございます。時間をかけて敵地の内部にまで潜入し、勢力を広めてから一晩で片をつけます。その決起の一晩のことだけを指すこともありますし、作戦全体を示す場合もあります」

 淡々と語られるえげつない内容に、思わず絶句する。話のすべてが本当なのかどうかはわからないが、不穏であることには違いない。古鳥を敵地と呼んでいるのであれば、古鳥の人間を皆殺しにする作戦を始めようとしていたということだ。

「そ、れは……是非とも止めてもらわねば困るな」

「かしこまりました、民に主様のお言葉を伝えましょう。そのためにも、我は地の底に戻ります。しかし、主様の無事が確認できた今、我は、当初主様に縋ろうとしていたお願いをしたいのです」

 会話をしながらも、ホゥロを洗う手を止めない。

「お願い、とは?」

「先ほども少しお話しさせていただいた内容になりますが、我らをお救いいただきたいのです。年に一回の下賜を再開していただくことは、できませんでしょうか」

「下賜というのは、何だ? ……ホゥロ、また頭から水をかけて泡を落とすぞ」

 ホゥロの言葉は難解で、一言一言に対して質問することになる。しかし、彼がそのやりとりを嫌がるそぶりをすることはなかった。私を主だと言うわりに、私にその知識がないことも自然と受け入れているようだ。

 硬くギュッと目を瞑ったホゥロの頭からシャワーをかけて、泡を流す。瞬間、風呂場に灯る電球の光りを受けて、白髪がキラキラと輝き出した。泡を流し切ってシャワーの湯を止めると、ホゥロが顔を上げる。その幻想的な美しさに、思わずハッと息を飲む。

「下賜とは、食糧のことでございます」

 髪同様に汚れていた肌も、元来の白さを取り戻した。確実に黄色人種とは違う肌の白さ。シベリアンハスキーを思わせる薄水色の瞳を縁取るまつ毛は白く、私がオーストラリアで見てきた白人種とも違う。

 この世のものではないものを見たような気がして、私は上擦った声で問いかける。

「地の底というのは、いったいどこなんだ?」

「言葉どおり、地の底です。主様は、我らのことを覚えてはおられなかったのですね?」

「そ……れは。すまない」

 私が言い淀むと、ホゥロはゆるゆると首を横に振った。

「どうか謝らないでください。我らが地の底に潜ってから、あまりにも長い月日が経ちましたから、致し方ないことです。我らと、主様の歴史をはじめからすべてお話しいたしましょう。そうすれば、きっとすべてをご理解いただけるはずです」

 ホゥロは穏やかな微笑みを浮かべる。彼のその表情からは、私に対する絶対的な信頼を感じた。

 しかし、彼から向けられる敬愛の情がこもった眼差しにも、狂信的とも言える信頼にも、私は居心地の悪さを覚える。どう考えたって、私は彼らの主人などではない。まるで、勘違いされていることをいいように利用しているようだ。

「……わかった。洗い終わったから、話を聞くのは、部屋に戻ってからにしよう」

 風呂場のドアを開けて促すと、ホゥロは慣れた手つきで長い髪の水気を絞ってから脱衣所に出た。


 身支度を済ませたホゥロを伴い廊下へ出ると、妙子さんとすれ違った。

 すっかり身を清め、清潔な紺色の浴衣を着たホゥロの姿を見て、妙子さんは喜色満面だ。せっかく体を洗っても汚い服を再度着ては意味がないということで、真澄が自分の浴衣を用意してくれていたのだ。真澄は私よりも大きいが、ホゥロは真澄よりもさらに大柄だ。そのため、裾からは脛のあたりまで出てしまっているが、浴衣であれば着られないことはない。

「まぁまぁ、綺麗になって。そんなお顔をしていたんだね。よく見えていなかったよ。渇水がここまでひどくなかったら、お湯も沸かしたんだけどね」

 妙子さんの言葉に、私は風呂場の入り口にも貼ってあった『節水』と書かれた紙に思い至る。

「水不足なんですか?」

「そうなんだよ、今年は空梅雨がひどくてね。もう何年もここで暮らしてるけど、ここまでひどい水不足ははじめてだ」

「なるほど、それであの貼り紙だったのですね。私がきたことで、余計に水を消費する者が増えてしまいましたね」

「なになに、気にすることはないよ。今日もこれから大雨になるって天気予報で言っていたし、たっぷり雨が降ったら、渇水も良くなるからね。居間でお茶でも飲むかい?」

「あ、いや。先にホゥロから話を聞いてきます。色々と説明をしてくれるらしいので」

 肩からバスタオルをかけ、濡れた髪を垂らしたまま、ホゥロは私の後ろに隠れるようにしてくっついている。もちろんホゥロは私よりも体が大きいので、隠れられる訳がないのだが。そんな彼を見て、妙子さんは微笑んだ。

「本当に大和が帰ってきてくれて良かったよ。今日の晩御飯は豪勢にするからね。ホゥロさんも一緒に食べられるかね? いままでずっと部屋の前まで運んでいるだけで、一人で食べていたんだけど」

「ホゥロ。晩御飯は一緒に食べられるかと、妙子さんが聞いている」

 私は振り向くと、妙子さんからの問いかけをホゥロへそのまま伝える。

「その席には主様も出られるのですか?」

「ああ、もちろんだ」

「ならば、我も同席いたします。ただ、叶うことならば、部屋の明かりを少し暗くしていただくことはできますでしょうか。主様がご不便を感じぬ程度で構いません」

 見ると、そう話しているホゥロは、いまもどこか眩しそうに目を細めている。

「ホゥロは明かりが苦手なのか?」

「はい。我らは元来、光を嫌うのです。我は陰の民の中でも光に強い方ですので、曇りの日ならば多少は昼間も外を歩けますし、この程度の灯りであれば、体調に異変が及ぶことはありませんが」

「なるほど」

 彼の部屋が暗闇に沈んでいたことを思い出して私は頷き、妙子さんへと視線を向ける。

「ホゥロも一緒に晩御飯を食べるそうです。ただ、彼は体質から眩しい光が苦手らしく、可能な範囲で構いませんので、部屋を暗くしていただくことはできますか?」

「まぁまぁ、そうだったのね。わかったよ、天井照明はつけないようにしようね」

「よろしくお願いいたします」

 妙子さんに軽く頭を下げ別れてから、廊下を抜けて、ホゥロの部屋へと戻る。

 シャワーを浴びている間に襖を開け放っていたおかげで、部屋に染み付いてしまっていた臭気も、いまは気にならない程度には薄れている。電気をつけずに薄暗い座敷に共に腰を下ろすと、ホゥロは風呂場での話の続きをはじめた。

「我ら陰の民は光を嫌い、夜に活動します。そのため、我らは古来より、日中でも陰になることが多い山間の土地に根ざしていました。我らが土地の中央には川が流れ、動植物が集まり、豊かでした。当時の陰の民は、文明らしい文明はおろか、言葉すら持ってはおりませんでしたが、狩猟と漁、採集を行い、平和に暮らしていました」

 山間の土地と言われて思い浮かぶのは、穂地村だ。中央には清らかな川が流れ、動植物豊かで、農作物も安定して採れる土地だった。

「しかしある日、災厄が訪れます。山の上の土地より、野蛮な光賊こうぞくが、我らが土地に攻め込んできたのです。光賊は人数が多く、狡猾でした。我らが眠りについている日中に襲撃を行ってきたのです。襲撃は暴虐の限りを尽くして行われました。森は荒らされ、川は濁り、男は殺されて女は奪われました」

 ホゥロの声には熱が籠る。

 話が何時代のことであるかはわからないが、一族が文明や言葉を持たなかった頃というのだから、神話めくほどの過去の話だろう。しかしホゥロは、彼自身が体験してきたことのように感情を露わにしていた。

「度重なる非道な襲撃によって我らは数を減らし、絶滅の危機に瀕しました。元より戦うことすら知らなかった、無知で非力な我らですが、人数が減ったことで、些細な抵抗をすることすらもできなくなりました。もはや嘆き悲しむことしかできなくなったそのとき。どこからともなく救いの神が現れたのです」

 『救いの神』と呼びながら、ホゥロは私の顔をじっと見つめる。

「神は、超常なる力を用いて我らが土地の地下に広大な空間を生み出しました。そして、神は我らに言葉と文明、そして地の底という安住の地を与えてくださったのです」

「地の底が、安住の地になるのか?」

「光を嫌う我らにとって、地の底はこれ以上ないほどに住みやすい場所でしたから。しかし、問題もありました。地の底では満足な狩猟や採集を行うことができず、慢性的な食糧不足に陥ったのです」

 説明を聞き、私はゆっくりと頷いた。地中で採れるものと言えば、植物の根か、虫くらいのものではないだろうか。

「そこで、我らは時折地表に出て食糧を探したのですが、運悪く光賊と鉢合わせ、殺される者が多く現れました。神は我らの被害に心を痛め、神自身が山間の土地に座してくださることになりました。そして年に一度、多量の食糧を送り届けることを約束してくださったのです。下賜は約束の通り、翌年、翌々年と連綿と続いていきました」

「それは、すごいな」

 人間が神に供物をするという話はよくあるが、逆に、『神が見返りもなく食べ物を与えてくれる』などという神話は、なかなか聞いたことがない。

「ええ、素晴らしいお方なのです。我らは神から受けた多大なる恩に報いるため、救いの神を主と仰ぎ、決して破られることのない誓いを立てました。主を害する敵が現れたときは、その敵を殲滅するという誓いです」

「ホゥロたちは、戦うことすらも知らなかった、優しい一族だったのではないのか?」

 ふと思い浮かんだ疑問を投げかけると、ホゥロは屈託のない笑顔を浮かべる。

「暗闇が支配する地の底で生活し、食物の節制に努め続けた我らは、過ぎていく歳月の中で、いつしか人ならざる力を手に入れていたのです」

「人ならざる力、とは?」

「その集大成たるものが、潜暗夜になります」

 変わらぬ笑顔のままで告げられた言葉には、妙な迫力があった。具体的なことを聞いていないのに、なぜだかゾッとする。私は思わず言葉を失ったが、ホゥロの話は続く。

「もし主様に害為す敵が現れたのなら、どのような手を使ってでも、我らがその敵のすべてを滅する。そして、我らの主様が、あなた様なのです」

「地の底? に人が住んでいるという話は俄かに信じがたいが、ホゥロたち陰の民の歴史はわかった。しかし、どうしてそれで、出会ったばかりの私が主ということになるのかはわからない」

「証は、あなた様が今話されている、その言葉です。主様」

 ホゥロは話しながら畳に両手をつき、ゆっくりと頭を下げる。

「我ら陰の民は、元は言葉すら持っていませんでした。先ほどもご説明しましたとおり、そんな我らに言葉を与えてくださったのが、神なのです。神が与えたもうた神語は、そのときに作られた、我らのためだけの言語。つまり、神語を話し、我らと会話ができるということが、なによりの証なのです」

 ホゥロが顔を伏せている様子を見つめながら、思わず表情を引き攣らせる。私は、ホゥロたちの言葉である神語が特別に話せるわけではない。ただ、この世のすべての言葉を理解して話すことができる特殊能力を持っているだけだ。

 つまり、これは盛大なる人違いである。

 不意に、遠雷の音が聞こえた。間も無く、パタパタと大きな雨粒が庭の土や屋根を叩き始める。電気をつけておらず、元より薄暗かった部屋の中が、いっそう暗くなる。

「もし、私がやめてくれと言わなければ、古鳥に対し、この地に住むすべての人を皆殺しにするという潜暗夜をするつもりだったのだよな?」

 強張った声で問いかける。

「はい、そのとおりでございます。我らの土地の惨状は、あまりにも酷いものでした」

 返事を聞き、私は目を閉じる。

 ホゥロが話している『我らの土地』とは、穂地村ではないかということは予想ができた。陰の民は穂地村に住んでいて、その後には神が穂地村に根付いた。しかし、穂地村はこの辺り一帯の水不足を解消するために、十三年前にダムになった。

 先日、なにかのきっかけで陰の民が久しぶりに地の底から出てきたのだとしたら。水に沈んだ穂地村を見て、そこに住んでいたはずの主人が敵に滅ぼされたという考えに至るのは無理もない。そして、過去に陰の民を脅かしていたという光族は、おそらく古鳥からやってきていたのだ。だから、穂地村がなくなったのならば古鳥が敵だという発想になった。

 問題は、その救いの神という存在が、もうどこにもいないということだ。ホゥロがいま語ってくれた昔話が、どれほど過去の話なのかはわからない。だが、悠久の時のなかで、救いの神はもうとっくの昔に途絶えてしまったのだ。

 もし、私が彼らの主ではないとわかったら、主がいなくなってしまったのだとわかったら、彼らは潜暗夜を再開し、古鳥の人間を殲滅しようとするのだろうか。それは、絶対に避けなければならないことのように思えた。

 瞼を開いて見ると、ホゥロはまだ頭を伏せたままだった。

「顔を上げてくれ、ホゥロ。その……陰の民は何人くらいいるのだ?」

「正確な人数は把握してはおりませぬが、おおよそ五百人ほどはおりますでしょうか。長年続いた飢餓に、随分と人数も減りました」

「五百人……」

 ホゥロは減ったと言っているが、私が想像していたものよりもずっと多い。それほどの人数が、本当に地中で生活できていたのだろうか。担がれている可能性もあるが、彼の曇りのない瞳を見ていると、信じざるを得なかった。そもそも、私の目の前にいるホゥロの存在自体が、あまりにも現実離れしている。

 そして、私には彼が言っている『下賜』というもののの存在について、ひとつ思い出したことがあった。

 話を聞くまですっかり忘れていたが、私がまだ穂地村に住んでいた頃、穂地村には年に一回の収穫を祝う穂実祭ほじつさいという祭りが十月に行われていた。その祭りで最も重要だったのは、芽石めせと呼ばれる倉のように大きな岩に、たくさんの食糧を供える風習だ。あれは、土地神に捧げ物をして、飢饉や災いを避けるという、豊穣と安全を願う神事だった。つまり、陰の民に食べ物を送る行為が、祭りという形式だけのものになってもかろうじて残っていたのだ。

 しかし、穂地村は十三年前にダムの底に沈んだ。当然のことながら、穂地村から人がいなくなった十五年前から祭りは行われていない。ホゥロの話が本当であれば、陰の民は十五年間も食糧の供給を絶たれていたことになる。もし陰の民がいまなお飢えに苦しんでいるのであれば、穂実祭で行っていた風習を再開する必要があるわけだ。

 考えを整理してから、私は改めてホゥロに言葉をかける。

「その地の底に、私も連れて行ってくれるか? 食糧を送り届けるにしても、どこに送れば良いのかを改めて確認したいのだ。私でも入れるような場所なのだろうか」

「もちろんでございます。深き階層になると環境の変化から健康を害することもありますが、そこまで深く行かなければ心配はございません。我がしっかりとご案内いたします。いつ向かわれますか?」

 問いかけられ、私は開け放った襖から広縁越しに見える外の景色に視線をやった。降りしきる雨がけぶって、家の前にある道路すら見通すことができない。先ほどまでは晴れていたのに、短時間のうちにすっかり豪雨になってしまった。

 地の底への入り口がある場所の詳細はわからないが、穂地村があった場所に近いどこか、おそらくは山の中だ。とてもではないが、この天気の中を歩いていく気にはなれない。さらに長時間のフライトに加え、立て続けに常識はずれな話を色々と聞いたせいで、体にはどっと疲れが出ていた。

「光が苦手だということは、ホゥロが移動するのは、夜間の方が良いのだよな?」

「はい。もし主様がよろしければ、ですが。我の体調を気にしていただけるなど、主様はなんとお優しいのでしょうか」

 妙なところで感激しているホゥロの様子に、私は目を細める。

「では、向かうのは明日の夜にしよう」

 そうして、今後の予定が決まった。本当にあるのかどうかもわからない地の底へ実際に行ってみれば、いろいろとわかることもあるだろうと思われた。


 その日の夕飯には、私とホゥロ、真澄、妙子さんの四人全員が居間に集まった。部屋の隅にあるスタンドライトと、テーブルライトだけを灯して食べる。天井照明をつけていないと暗く感じるが、ムーディさに慣れれば、これはこれで落ち着くような気はする。

 座卓の上に並べられている家庭料理然とした和食は、妙子さんの畑で採れた野菜をふんだんに使った、彼女の手作りである。どれも少々味が濃いめだが、美味しく食べられる範囲のもので、久しぶりにこういった日本の家庭料理を食べた私の食は進んだ。

 オーストラリアは様々な国籍のレストランがあり、日本人が出している店も多い。寿司をはじめ、ラーメン、カレー、うどんなどの代表的な日本食は問題なく日本の味のものが食べられる。自炊をしない私にとっては、店で出てくることのない『家庭料理』が一番縁遠かったものだ。

 私はホゥロが箸を使えるのかどうかを心配していたが、それは特に問題がなかった。食べ方も実に綺麗なものだ。ただ、美味しそうに食べてはいるものの、小盛りにされた茶碗一杯の米を食べるのにも随分と時間をかけている。

 料理の感想などを述べながらしばらく食事が進んだとき、真澄が私に問いかけてきた。

「それで、ホゥロがどこから来たのか、どうしたいのかとかはわかったのか? 人を探しに来たって言ってたが、どんな人を探してんだ?」

 煮物を咀嚼しているそぶりで時間稼ぎをしながら、私は素早く脳内で考えを巡らせ、なんとかこの場を凌げる嘘を考え出す。

「ホゥロはエチオピアからやってきて、アムハラ語が話せる日本人の奥さんと、古鳥の外れに二人で住んでいたらしい。ただその奥さんが急にいなくなってしまったから、彼女を探しに出てきたのだそうだ」

 日本語がいっさいわからない人間が、山の中の田舎に忽然と現れた理由を説明するには、それくらいしか思い浮かばなかった。かなり苦しい嘘だとは思うが、真澄も妙子さんも不審がる様子はない。

「奥さんが急にいなくなったって、大変じゃねぇか。駐在さんに伝えて、彼女の捜索をしてもらった方がいいんじゃねぇか?」

「奥さんからの書き置きはあって、事件性のあることではないので、おおごとにはしたくないそうだ」

「はぁ……なるほどな。でもさ、エチオピアから来た人が近くに住んでたなんて、はじめて聞いたな。古鳥は狭いから、ホゥロくらい目立つ人がいたらすぐに噂になって俺たちの耳にも入ると思うんだけど」

 不審がる真澄に深く考えさせないように、言葉を続ける。

「ホゥロは眩しいのが苦手のようだと話しただろう? 日光の下にいると体調が悪くなるらしい。出かけることが少ないから、噂にもならなかったのではないだろうか。案内してくれるらしいので、明日、ホゥロの家を見に行ってくるつもりだ。そこで問題がなければ、彼は家に帰ると言っている」

「お。じゃあ、俺も一緒に行くよ。このあたりのことを知ってる奴が一緒の方がなにかと都合がいいだろ。車も出すしさ」

 真澄はニッと口角をあげて笑った。

「しかし、ホゥロのために、明日の夜に行こうと思っているのだ。家は森の深いところにあるようなので、車では行けないと思う。手間をかけるし、私一人で大丈夫だ」

「なに水臭いこと言ってんだよ。大和に手間かけてんのは俺らの方だろ。夜の森の中を行くなら、それこそ大和一人について行かせるのは危ないしさ」

 真澄からの善意しかない申し出を断るのは難しかった。彼の言っていることは正しく、至極真っ当だからだ。

 仕方なく、私は視線をホゥロへと向けて呼びかける。

「ホゥロ。明日、地の底に真澄も来てくれるそうだ。入り口で待っていてもらうことにしようかとは思うのだが、構わないか?」

「主様がよろしいのであれば、我から申し上げることはなにもございません」

 ホゥロは半分以上米が残っている茶碗を置くと、箸も座卓の上に揃えて載せる。もうこれ以上食べるつもりはないようだ。

「口に合わなかったかしらね?」

 ホゥロの様子を見て、妙子さんが心配そうに尋ねてくる。私はいつも仕事でしているように、彼女の言葉を通訳することにした。

「口に合わなかったか、と妙子さんが聞いている」

「いえ、美味しいのですが、いまはこれ以上食べられません。残りはまた明日いただきますので」

 その言葉に私は目を細める。おそらく、とっておいてくれと言うのは難しい。妙子さんは、カチカチに冷えた白米をホゥロが食べることは望まないだろう。

「いや、食べられないのなら無理をすることはない。おそらく片付けられてしまうが、残しておけば良い」

 ホゥロにはそう言ってから、次に妙子さんを見る。

「ホゥロはもともと体質的に少食のようです。しかし、美味しかったと言っています」

「そうかい、それはよかった。ホゥロさんは、今までも出した料理をいつもほとんど残していたから、ずっと心配していたんだよ。でも、体質なら仕方ないものね。こうしてお話ができるようになって、本当に助かった」

 とても嬉しそうに笑った妙子さんは私の顔をまっすぐに見つめ、

「大和、ありがとうね」

 と、心のこもった感謝の言葉を述べてくれる。日本に帰ってくることを決めた当初の目的が達成できたように感じて、私は自然と表情を緩めた。

 あくまで、私の特殊能力に起因した勘違いの上に成り立っていることではあるが、ホゥロは潜暗夜を止めてくれるそうだし、彼が地の底に帰れば、妙子さんも真澄も普段どおりの生活に戻れ、私が古鳥に戻ってきた理由はなくなる。ホゥロからの要望を叶えるためにやらねばならないことはあるだろうが、それも、今日来てくれていた倉田先生や駐在さんに協力を依頼すれば、なんとかなるだろう。

 心の奥で燻る理由のない不安感を理性で宥めて箸を動かし、私は出された料理のすべてを食べきった。

 耳をすまさずとも聞こえるのは、強い雨足が屋根を叩く音。嵐のような大雨は、一晩中降り続いた。
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