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1章 空想の世界
第9話 退院
しおりを挟むヨネシゲがこの病院で意識を取り戻してから、最初の朝を迎えていた。
ヨネシゲは病室で新聞を読みながら、ここがソフィアの書いた物語の世界、つまり彼女が思い描いた空想世界であることを実感させられていた。
新聞に書かれたワードは、どれもソフィアの書いた物語に出てくるものばかりであり、現実世界には存在しない固有名詞も多く書かれていた。
新聞を読み進めると、ヨネシゲはある記事に目が止まる。
(黒髪の炎使い……?)
記事には、今王国を騒がしている黒髪の炎使いと呼ばれる青年について記されていた。
黒髪の炎使いの特徴は、その呼び名の由来となっているサラサラとした黒い髪と、炎のような赤い瞳の持ち主。黒尽くめの衣装を身に纏って登場し、炎を自在に操り、ありとあらゆるものを焼き尽くすそうだ。
ヨネシゲは新聞に記された黒髪の炎使いの特徴を目にすると、ある人物の存在が脳裏に浮かび上がる。
(まるで、あの時会ったダミアンそのものじゃないか。特徴が全て一致する)
黒髪の炎使いの特徴は、真っ暗闇の空間に現れたダミアンと瓜二つだった。
ヨネシゲは、まさかと思い記事を読み進めると、そこには黒髪の炎使いの悪行の数々が記されていた。
記事によると、黒髪の炎使いは軍や保安局の施設、領主の館などを次々に襲撃しており、民間人を含む多くの死傷者を出しているそうだ。また、青年は武術にも長けているようで、カルム領周辺を縄張りとする凶悪な山賊団を拳一つで壊滅させたらしい。
記事を読み終えたヨネシゲは、黒髪の炎使いの正体がダミアンであると疑い始める。
「あの男がやりそうなことだ。おまけにこの世界は、亡くなった筈のソフィアとルイスや現実世界で健在の姉さんまでもが登場する。あのダミアンが現れても不思議ではない。だとしたら、この男は一体何のためにこの国を荒らしているんだ?」
ヨネシゲの忌まわしい記憶が蘇る。それは目の前で、ソフィアとルイスを炎で焼き尽くすダミアンの姿。その時のダミアンの表情は楽しんでるように見えた。
(あの時の奴の顔……2人を殺して愉しんでいるようだった。あいつは愉快犯だ!)
実際のところ、ダミアンは現実世界で2人の命を奪った凶悪犯。この世界でも、蛮行に及んでいても不思議ではない。それにしても、この黒髪の炎使いの目的とは一体何なのか?
(黒髪の炎使い……このソフィアの描いた空想世界で暴れ回っているとは許せねぇ! もし本当に、黒髪の炎使いがダミアンだとしたら……!)
黒髪の炎使いがダミアンだと決まったわけではないが、可能性としては十分考えられる。
ダミアンがソフィアの描いた空想世界で蛮行に及んでいると考えると、ヨネシゲは怒りで身を震わすのであった。
程なくすると病室のドアをノックする音が聞こえてくる。ヨネシゲが応答すると医師が姿を現した。医師は病室に入るなりヨネシゲに体調を尋ねる。
「ヨネさん調子はどうかな?」
「ええ、良くもなく、悪くもなくと言った感じです」
すると医師は、ヨネシゲが考えもしなかったことを口にする。
「そうかね。一応、今日の検査で問題なければ退院だ」
「え? 退院ですか!?」
ヨネシゲは驚いた表情を見せる。
入院すれば、いずれ退院する。当たり前なことではある。だが、ヨネシゲがこの空想世界に来てからは非現実的な出来事の連続であり、退院のことなど考える余裕もなかった。
「奥さんはいつもお昼頃にお見舞いに来るから、それまでに荷物を纏めておくといい」
医師はヨネシゲにそう伝えると、病室を後にした。
「そうか、退院か。ソフィアと一緒に帰れるのか……!」
ヨネシゲは予期せぬ快報に、喜びを隠しきれない様子であった。
――心地良い微風が吹き抜ける昼下り、ヨネシゲは退院のための帰り支度を終えていた。
検査も異常が見られず、ヨネシゲの退院が確定した。本来であれば一安心しているところだが、ヨネシゲは何やら落ち着かない様子だ。
(退院するということは自宅に戻るということ。当然そこではソフィアとルイスと一緒に住むことになる筈。俺はまた2人と一緒に暮らせるのか? 信じられん! 本当に夢みたいだ!)
3年前にダミアンによって殺害されたソフィアとルイスは、ソフィアが描いたであろうこの空想世界で生きていた。信じられないような出来事であるが、退院すれば再び2人と一つ屋根の下で暮らすこととなる。ヨネシゲはそのことを考えると、じっとしていられなかった。
ヨネシゲは自分の頬をつねる。これは夢だと何度思ったことだろうか。
(夢でもいい! このままずっと、この夢を見ていたい……!)
すると扉をノックする音が病室に響き渡る。同時に可愛らしい女性の声も聞こえてきた。
(ソフィアだ!)
ソフィアの声を聞いたヨネシゲは、軽く身なりを整えると、彼女を部屋の中へと呼び入れる。ヨネシゲの前に再びソフィアが姿を現した。
「あなた、もう大丈夫なの!?」
「ああ。検査でも異常無かったしな」
ヨネシゲは受け答えしながらソフィアに歩み寄る。そして彼女の手をそっと握る。
(間違いない。やっぱり彼女は本物のソフィアだ!)
昨日、ソフィアと奇跡の再開を果たしたヨネシゲ。現実的に考えて亡くなった人物が目の前に現れるなどあり得ないことだ。確かに彼女の温もりをこの肌で感じたものの、あれは本当にソフィアだったのかとヨネシゲは疑問に思っていた。だが、改めてソフィアと対面して、彼女がソフィア本人であるとヨネシゲは確信した。間違えるはずなどない。
(もう考えるのはやめよう! 今こうしてソフィアが俺の前に現れた。今、この時を楽しもう)
目の前の彼女が偽物でも亡霊でも幻覚でも何でもいい。この夢のような一時を楽しめればそれでいい。ヨネシゲは詮索することをやめた。
ソフィアは病院に到着してからヨネシゲの退院を知らされたようで、慌てた様子であった。
「驚いたわ! まさか今日退院することになるなんて!」
ここでヨネシゲに新たな疑問が生まれる。退院の話が出たのは今朝のこと。ソフィアが病院に来るまで時間はあった筈だ。なのに病院から連絡はいっていなかったのか?
ヨネシゲは不思議に思い、ソフィアに尋ねる。
「退院の話をされたのは朝だったんだが、病院から電話は掛かってこなかったか?」
「電話? 電話って何ですか?」
ソフィアは電話というワードに目をきょとんとさせる。それもそのはず。この世界には電話等の通信手段が存在しない。ソフィアの描いた物語は中世をモチーフにしている。もしここが、本当に彼女の空想世界なのであれば、現代の文明が発達していなくても不思議ではない。そうなるとここでの行動と発言は注意が必要である。
(ここでは現実世界の常識は通用しなそうだ。口は災いの元。行動と発言には気を付けねばならんな)
首を傾げているソフィアに、ヨネシゲは都合のよい言い訳を行う。
「すまない。先生から言われている通り、俺の記憶は何らかの記憶と錯綜しているようだ。また今みたいに意味不明なことを言うかもしれないが、気にしないでほしい」
昨日、ヨネシゲは医師から記憶が欠落していることと、何らかの記憶が現在の記憶と錯綜していると指摘された。それもそのはず、ヨネシゲは現実世界から来た人間。この世界の記憶が無いのは当たり前であり、現実世界の記憶と入り混じるのは致し方ないこと。
ヨネシゲからすれば記憶に関しては何ら異常もなく、医師の指摘を心良く思っていなかった。とはいえ、医師に記憶に異常があると診断されることにより、多少変な事を口にしてしまったとしても、周りの理解が得られる。更にこの世界の記憶を持たずしても、周りがサポートしてくれる筈だ。案の定、ソフィアもヨネシゲの言葉に納得した様子だ。
「そうだったわ。私の方がもう少し気遣ってあげないと駄目だったね。ごめんね」
「いやいや、ソフィアが謝る必要はないよ。もし俺がおかしな事を言っていたら構わず指摘してくれ。それで俺も記憶の整理ができるからさ」
ヨネシゲはそう言うとソフィアに協力を求める。
「今の俺の現状については、周りにしっかりと説明していくつもりだ。だけど、記憶に残ってない人も大勢居る。知人の顔がわからなければ、その説明もできない。だからソフィア、君のフォローが必要なんだ」
ソフィアは二つ返事でヨネシゲの頼みを引き受ける。
「勿論です。私の方からも、あなたの今の現状を周り人たちには説明していくつもりよ。だから安心して。それに、ルイスやお義姉さんたちも協力してくれる筈よ」
「ありがとう。本当に助かるよ」
快く面倒事を引き受けてくれたソフィアには頭が上がらない。
この世界の記憶を持たないヨネシゲが、周りからの理解を得るためには、ソフィアたちの根回しが重要だ。ここで生活するとなれば尚更である。
ソフィアは、ヨネシゲの着替えが詰め込まれた鞄を持ち上げると、ニッコリと微笑む。
「荷物もまとまっているみたいだし、そろそろ帰りましょうか」
「お、おう!」
ヨネシゲにはまだ実感がない。再びソフィアたちと一つ屋根の下で暮らせることが信じられないでいた。
ヨネシゲは、院内の受付で退院のための手続きを済ませると、ソフィアと共に病院の出入口に向かって歩みを進める。
ヨネシゲの鼓動が高鳴る。
(そういえば、この世界に来て外へ出るのは初めてだよな? 一体どんな世界が広がっているのかな? ここは間違いなくソフィアの描いた空想世界。だとすればきっと素晴らしい世界が広がっている筈だ!)
まだ見ぬソフィアの描いた空想世界の扉をヨネシゲは今開こうとしている。
最愛の妻子と共にヨネシゲの新たな物語が始まろうとしていた。
つづく……
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