バタフライ~復讐する者~

星 陽月

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チャプター【062】

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 ただ、そこに闇がある。
 その闇を、意識のない蝶子には、認識することも感じることもない。
 そんな闇の中から、ふっと蝶子は覚醒した。
 瞼を開くと、蝶子は焚火の前で横たわっていた。
 焚火の炎は、薪のほとんどが燃えつきて熾火になっている。上半身には、隼人のリミタリー・ジャケットが掛けられたままになっている。
 半身を起すと、そのジャケットの上から床へと転がり落ちるものがあった。
 それを蝶子は拾い上げた。
 それは、耳にかける小型のボイス・レコーダーだった。
 蝶子のものではない。

「隼人」

 そう呼び、隼人へと眼を向けたが、そこに隼人の姿はなかった。
 周囲を見渡しても、やはり隼人の姿はない。

「隼人!」

 今度は声を張って呼んでみたが、隼人からの返答はなかった。
 蝶子はボイス・レコーダーに視線を落とし、見つめた。
 隼人は、これに伝言を残したということなのだろうか。
 ということは、ひとりで行ってしまったということになる。
 そんなことを思うと、すっと孤独感が押しよせてきた。
 蝶子は、ボイス・レコーダーを耳にかけた。
 再生を押す。

「やあ、蝶子」

 隼人の声が耳に響いた。

「よく眠っていたから、起こさずに俺は行くことにする。っていうか、おまえの寝顔をみていたら、その、俺も男だから、そこのところはわかってくれ――」

 どぎまぎとしたその口調に、蝶子は思わず笑った。
 伝言はつづく。

「あの異形人のことなんだが――」

 口調が、真面目なものに変わる。
 隼人のその伝言を聞くごとに、蝶子の顔は険しくなり、眉根にしわを寄せたり、瞼を閉じたりした。

「――ということなんだが、俺はあいつの話などまったく信用していない。だが、火のないところに煙が立たないというもの事実だ。だから俺は、少し調べてみるつもりだ。真相がわかったら、真っ先におまえに会いにいく。そのときは、その、なんだ……あー、やっぱりだめだ。とにかく、再会を楽しみにしている」

 そこで伝言は終わっていた。
 ボイス・レコーダーを耳から外し、蝶子は立ち上がった。
 そこから離れ、硬化ガラスの窓へと近づいていく。
 窓辺に立ち、蝶子は窓外へと眼を向けた。
 薄い闇がどこまでもつづいている。
 眼下に広がる荒涼とした地を、その薄闇が被いつくしている。
 450メートルの高さから仰ぎ見る黒雲は、幾匹もの蟒蛇が絡み合って蠢いているかのように思える。
 時おり、その蟒蛇たちの口から、雷光が吐き出される。
 そう見える。
 しかし蝶子は、それらを見てはいない。
 隼人の残した伝言の内容が、頭の中で巡っている。
 それに心が向いているのだ。
 薄闇の先に、蝶子は眼を馳せている。
 5年前のあの日、とつぜん世界を襲った天変地異。
 それは、それまでのすべてを地獄に変え、世界は阿鼻叫喚の渦に呑みこまれた。
 それが、あのポールシフトだ。
 異形人や先祖返りの出現も、それに起因する。
 これまで、蝶子はずっと、アルファ・ノア――組織のその見解を信じてきた。
 だが、隼人が伝言に残した獣鬼の話によれば、組織が発明した遺伝子変異体なるものをつめこんだウイルスが、ポ ールシフトによって洩れ、大気中に散布されたために、人や他の生物に感染したのだという。
 それが事実ならば、組織はそれを隠し、見解そのものが偽りだったということになる。

「まさか、そんなことが……」

 蝶子はぽつりと呟き、瞼を閉じた。
 本来なら、そんなばかなことがあるわけない、と一笑に付すところだが、いまの蝶子の胸の中には、半信半疑な想 いがわだかまっている。
 いや、むしろ、獣鬼が語ったことを考えると、しだいに組織への疑念のほうが強くなっていく。
 少なくとも獣鬼は、真実をひとつだけ語っている。
 伝言の中に、獣鬼が組織に捕えられ、実験の道具になっていたという話が出てくるが、それに嘘はない。
 なぜなら、獣鬼――犬男の居場所を教えた邪蛇も、おなじことを言っていたからだ。
 獣鬼も邪蛇も、人間の姿にもどることができた。
 人間の姿にもどる能力など、本来、異形人にはあるはずがないのにだ。
 それだけではない。
 犬男から獣鬼へと変貌したあの能力。
 獣鬼は、他の者を喰らうことで、その者の性質と能力が得られると言っていたが、あれは明らかに、科学的な力を 加えられないかぎり、備わる能力ではない。
 それを考えれば、獣鬼が嘘を言っていないということがわかる。
 それに、蝶子がいだく組織への疑念は、もっと以前からあった。
 組織が、この世界に生存している人々に、その存在を極秘にしているということだ。
 
 失われた世界の光、ノア――

 風の噂に広まったそのノアという存在を、信じる者は少なくないだろう。
 美鈴の父親、二橋のように。
 組織はなぜ、その存在を人々に明かそうとしないのか。
 やはり、獣鬼が語ったことが事実だからではないのか。
 いや――蝶子は瞼を閉じたまま、首をふった。
 わからない。
 そう思う。
 しかし、そうではないということを、蝶子自身、理解している。
 わからないのではなく、わかりたくないのだということを。
 どうしても、信じたくないという想いが、蝶子の胸の裡から離れないのだ。
 それは当然の反応だった。
 それまで信じてきたもの、それに対する想いを、そう簡単に翻せるものではない。
 隼人は、獣鬼の話などまったく信じないと伝言に残したが、きっとおなじ想いをいだいているに違いない。
 そうでなければ、真相を確かめようなどとは考えたりしないはずだ。
 蝶子は瞼を開き、また薄闇の果てへと眼を馳せた。
 こんなところで考えていても埒が明かない。
 組織にはいま、美鈴がいる。
 その美鈴の安否が気にかかる。
 組織への疑念や真相がどうということよりも、いまは美鈴が何事もなく無事でいることを確認することがまず第一だ。
 組織は、美鈴を実験の道具にしているかもしれない。
 そんなことは考えたくもなかったが、獣鬼が語ったことを考えるその可能性が高い。
 もしも美鈴の身体に、メスの刃をひと筋でも入れようものなら許しはしない。
 それは、組織の手足となって動く市川も同様だ。
 あの、薄ら笑いを浮かべる男に、一太刀浴びせなければ気がすまない。
 たとえそれで、組織とのあいだにどんな結果が生じようともだ。
 蝶子は窓辺を離れ、もとの場所へともどると、太刀を手に取った。
 鯉口を切り、静かに抜刀した。
 刀身が鈍い光を放つ。鞘を床に置き、正面に刀を構えた。瞼を閉じる。
 一呼吸すると、瞼をかっと開いた。
 太刀をゆっくりと上段へと持っていく。

「はッ!」

 呼気を放つとともに、空を切った。
 組織に対し、揺れる自分の心を断ち切ったのだ。
 そして蝶子は、組織へ乗りこむことを決意していた。
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