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【第3話】
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翌日、夫と息子を送り出した典子は部屋の掃除を始めた。
リビングに掃除機をかけ、ごみ箱をどかそうとして、ふいに昨夜丸めて棄てた紙に眼が止まった。
掃除機を切り、ほとんど無意識のうちに手が伸びて、拾い上げた紙を広げ、典子はまた眼を通した。
「日給三万円以上」というの文字が、頭の中で溢れ返った。
それだけの収入が毎日働いてもらえるなら、尚行が欲しいと言っていた自転車も買ってやれる。
それに、もうすぐ夫の誕生日だ。
家族のために頑張ってくれている夫に、感謝の気持ちを形にしたい。
贅沢を言うなら、欲しいと思っていたブーツだって買いたい。
そんな思いが胸の中で渦巻いた。
その募集の紙は、追いつめられた苦痛の現実から、逃れることのできるキップだった。そうそして、普通の生活にもどることのできるチケットだった。
ごく普通の平穏な生活を送ることができるなら、どんな仕事だっていい。
たとえそれがまともな仕事ではなくても、今の典子には仕事を選んでいる余裕などないのだ。
平凡という幸せを掴むことのできるチャンスなのだから。
典子のその思いは手へと流れて、スマートフォンを掴ませた。
騙されるのではないか、という考えはもうどこにもなかった。
逡巡(しゅんじゅん)さえもなく、番号を押す指にも躊躇(ためら)いはなかった。
けれど、さすがに呼び出しのコールが鳴り出すと、鼓動が胸を激しく叩き始めた。
コールの音よりも、途切れる余韻のほうが強く耳に響く。
闇の奥へと誘いこもうとする無言の声のように。
切るのよ!
自分の中でそんな叫び声が聴こえたとき、相手の受話器が上がった。
「はい、グローバル・ビジョンでございます」
女性の声だった。
「あの……」
そこで言葉が詰まった。
「募集の方ですか?」
その声は優しく問い掛けてくる。
「あ、はい……」
そう答えるのがやっとだった。
「そうですか。何をご覧になられました?」
その意味が理解できず、典子は黙った。
「求人誌ですか? それとも投函された募集チラシですか?」
それでやっと理解した。
「あの、電柱の張り紙なんですが」
「そうですか、わかりました。では、面接を致しますので、いつがよろしいですか?」
「あの、その前に少しお訊きしたいんですが、そちらはどのようなお仕事なんでしょうか?」
それだけはまず訊いておきたかった。
「仕事の内容ですね?」
「はい……」
「まず、当社の業務内容から説明させていただきますと、アウトソーシングを手がけている会社です」
「アウトソーシング……」
「いわゆる、人材派遣です」
そう訊いて少しホッとした。
結婚する前、勤めていた会社にも、人材派遣会社から派遣されて来た女性が働いていた。
あれから十二年近くが過ぎ、今初めて、アウトソーシングという横文字になっていることを知った。
だがひとつ疑問がある。
人材派遣の仕事は収入がいいと聞いてはいたが、日給三万円以上というのはあまりにも高額すぎる。
「あの、それで……日給三万円以上というのは、ほんとうなんですか?」
恐る恐る訊いてみる。
「仕事をされる方によって多少異なりますが、その金額が働いていただいてる方々の平均です」
さらっとそう言われてしまうと、それが何も不思議なことではないと思えてしまう。
「詳しいことは、面接にいらしたときにご説明させていただきますが、どうなさいます? 面接にいらっしゃいますか?」
その言葉に、典子はわずかに逡巡したが、
「――はい、そうさせていただきたいと思います」
そう答え、
「では、いつに致しますか?」
そう言われたときには、
「今日はよろしいでしょうか?」
すぐにそう返していた。
「本日ですね。少々お待ちください」
その言葉のあと、保留のメロディが流れた。
そのときにはもう、胸が躍っていた。
これでほんとうに、今の生活から抜け出せるのだと。
「お待たせ致しました。本日ですと、午後一時になりますがよろしいでしょうか?」
「一時ですね、わかりました」
会社が所在する最寄りの駅を伝えられ、スマートフォンを切った。
その会社の所在地は赤坂だった。
地下鉄を赤坂で降りて地上に出ると、典子は会社へと電話を入れた。
先刻と同じ女性が電話に出て、会社までの道筋を教えられた。
典子は一ツ木通りを歩き、最初の四つ角を左に曲がった。
しばらく行くと、右手に「ラ・トゥール赤坂」という赤煉瓦の建物があった。
その建物はオフィスビルではなく、とても豪奢なマンションだった。
どうやら住居とオフィスが入っているらしく、入口のところに各社名が記されたプレートがある。
その中に、「グローバル・ビジョン・コーポレーション」の社名もあった。
広いエントランスには大理石が敷き詰められ、天井の中央には豪華に装飾されたシャンデリアが煌びやかに輝いている。
エレベーターの両サイドには、ハープを奏でている天使のオブジェが置かれていた。
典子は自分までが豪華な気分になりながら、エレベーターに乗った。
六階でエレベーターを降りて左に行き、会社の表札があるドアの前に立ち、ひとつ深呼吸するとインターフォンを押した。
すぐに返答があり、典子は名を告げた。
出迎えた女性のあとに従いていくと、広いリビングに通され、ソファに坐るように促された。
「少々お待ちください」
女性はそう言うと席を離れ、典子はリビングの中を見廻した。
住宅用に作られているからなのか、そこは、とてもオフィスには感じられなかった。
想像していたものとはまったく違っていたことで、典子の胸には不安が渦巻いた。
それでも、生活を感じさせる調度品はなく、殺風景ともいえるそのリビングはどこか寂然としていた。
ほどなくして、離れていった女性がトレーに珈琲を載せて運んできた。
「今、係り者が来ますので、もう少しお待ちください」
そう言い残すと女性は別室に入っていった。
そしてわずかな間をおき、その別室のドアが開くと、黒のスーツを着た四十代半ばと思える女性が姿をみせた。
その女性は典子に目線を向けると、柔和な微笑を目尻に湛えて、向かい側に腰を下ろした。
「初めまして、わたくし遠山と申します」
名刺を差し出され、典子は幾分恐縮しながらそれを受け取った。
リビングに掃除機をかけ、ごみ箱をどかそうとして、ふいに昨夜丸めて棄てた紙に眼が止まった。
掃除機を切り、ほとんど無意識のうちに手が伸びて、拾い上げた紙を広げ、典子はまた眼を通した。
「日給三万円以上」というの文字が、頭の中で溢れ返った。
それだけの収入が毎日働いてもらえるなら、尚行が欲しいと言っていた自転車も買ってやれる。
それに、もうすぐ夫の誕生日だ。
家族のために頑張ってくれている夫に、感謝の気持ちを形にしたい。
贅沢を言うなら、欲しいと思っていたブーツだって買いたい。
そんな思いが胸の中で渦巻いた。
その募集の紙は、追いつめられた苦痛の現実から、逃れることのできるキップだった。そうそして、普通の生活にもどることのできるチケットだった。
ごく普通の平穏な生活を送ることができるなら、どんな仕事だっていい。
たとえそれがまともな仕事ではなくても、今の典子には仕事を選んでいる余裕などないのだ。
平凡という幸せを掴むことのできるチャンスなのだから。
典子のその思いは手へと流れて、スマートフォンを掴ませた。
騙されるのではないか、という考えはもうどこにもなかった。
逡巡(しゅんじゅん)さえもなく、番号を押す指にも躊躇(ためら)いはなかった。
けれど、さすがに呼び出しのコールが鳴り出すと、鼓動が胸を激しく叩き始めた。
コールの音よりも、途切れる余韻のほうが強く耳に響く。
闇の奥へと誘いこもうとする無言の声のように。
切るのよ!
自分の中でそんな叫び声が聴こえたとき、相手の受話器が上がった。
「はい、グローバル・ビジョンでございます」
女性の声だった。
「あの……」
そこで言葉が詰まった。
「募集の方ですか?」
その声は優しく問い掛けてくる。
「あ、はい……」
そう答えるのがやっとだった。
「そうですか。何をご覧になられました?」
その意味が理解できず、典子は黙った。
「求人誌ですか? それとも投函された募集チラシですか?」
それでやっと理解した。
「あの、電柱の張り紙なんですが」
「そうですか、わかりました。では、面接を致しますので、いつがよろしいですか?」
「あの、その前に少しお訊きしたいんですが、そちらはどのようなお仕事なんでしょうか?」
それだけはまず訊いておきたかった。
「仕事の内容ですね?」
「はい……」
「まず、当社の業務内容から説明させていただきますと、アウトソーシングを手がけている会社です」
「アウトソーシング……」
「いわゆる、人材派遣です」
そう訊いて少しホッとした。
結婚する前、勤めていた会社にも、人材派遣会社から派遣されて来た女性が働いていた。
あれから十二年近くが過ぎ、今初めて、アウトソーシングという横文字になっていることを知った。
だがひとつ疑問がある。
人材派遣の仕事は収入がいいと聞いてはいたが、日給三万円以上というのはあまりにも高額すぎる。
「あの、それで……日給三万円以上というのは、ほんとうなんですか?」
恐る恐る訊いてみる。
「仕事をされる方によって多少異なりますが、その金額が働いていただいてる方々の平均です」
さらっとそう言われてしまうと、それが何も不思議なことではないと思えてしまう。
「詳しいことは、面接にいらしたときにご説明させていただきますが、どうなさいます? 面接にいらっしゃいますか?」
その言葉に、典子はわずかに逡巡したが、
「――はい、そうさせていただきたいと思います」
そう答え、
「では、いつに致しますか?」
そう言われたときには、
「今日はよろしいでしょうか?」
すぐにそう返していた。
「本日ですね。少々お待ちください」
その言葉のあと、保留のメロディが流れた。
そのときにはもう、胸が躍っていた。
これでほんとうに、今の生活から抜け出せるのだと。
「お待たせ致しました。本日ですと、午後一時になりますがよろしいでしょうか?」
「一時ですね、わかりました」
会社が所在する最寄りの駅を伝えられ、スマートフォンを切った。
その会社の所在地は赤坂だった。
地下鉄を赤坂で降りて地上に出ると、典子は会社へと電話を入れた。
先刻と同じ女性が電話に出て、会社までの道筋を教えられた。
典子は一ツ木通りを歩き、最初の四つ角を左に曲がった。
しばらく行くと、右手に「ラ・トゥール赤坂」という赤煉瓦の建物があった。
その建物はオフィスビルではなく、とても豪奢なマンションだった。
どうやら住居とオフィスが入っているらしく、入口のところに各社名が記されたプレートがある。
その中に、「グローバル・ビジョン・コーポレーション」の社名もあった。
広いエントランスには大理石が敷き詰められ、天井の中央には豪華に装飾されたシャンデリアが煌びやかに輝いている。
エレベーターの両サイドには、ハープを奏でている天使のオブジェが置かれていた。
典子は自分までが豪華な気分になりながら、エレベーターに乗った。
六階でエレベーターを降りて左に行き、会社の表札があるドアの前に立ち、ひとつ深呼吸するとインターフォンを押した。
すぐに返答があり、典子は名を告げた。
出迎えた女性のあとに従いていくと、広いリビングに通され、ソファに坐るように促された。
「少々お待ちください」
女性はそう言うと席を離れ、典子はリビングの中を見廻した。
住宅用に作られているからなのか、そこは、とてもオフィスには感じられなかった。
想像していたものとはまったく違っていたことで、典子の胸には不安が渦巻いた。
それでも、生活を感じさせる調度品はなく、殺風景ともいえるそのリビングはどこか寂然としていた。
ほどなくして、離れていった女性がトレーに珈琲を載せて運んできた。
「今、係り者が来ますので、もう少しお待ちください」
そう言い残すと女性は別室に入っていった。
そしてわずかな間をおき、その別室のドアが開くと、黒のスーツを着た四十代半ばと思える女性が姿をみせた。
その女性は典子に目線を向けると、柔和な微笑を目尻に湛えて、向かい側に腰を下ろした。
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