平凡という名の幸福

星 陽月

文字の大きさ
5 / 38

【第5話】

しおりを挟む
 行かなければよかった……。

 今更ながらに、典子はそう思った。
 やはり、日給三万円にもなる仕事にまともなものがあるわけがなかったのだ。
 昨夜も一度はそう思い、募集の貼り紙をごみ箱に棄てたのにもかかわらず、なのになぜか今朝になってその貼り紙を手にし、収入の高さだけに眼がいき、胸を突き上げる衝動のまま受話器を取っていた。
 けれど、それも仕方のないことだった。
 それだけ精神的に追いつめられ、切羽詰っているという現状の現れだった。
 それを証拠に今も、気持ちが落ち着く間もなく現実が重く胸に押し寄せた。
 まだ返済しなければならない金融会社が二社残っていて、その返済日が二日後に迫っている。
 そのうちの一社は、いわゆる高利貸しで、十日で一割の金利を払わなければならないところだった。
 他の返済に追われる中、母親からも再三に渡って借入をし、その額が五十万にもなっていることもあって、それ以 上は相談することもできず、典子はやむなくその高利貸しから十万を借りたのだった。
 そんな高利で借入すれば、返済が尚きつくなっていくということは充分にわかっていた。
 だが、返済日が近づいてくるにつれ、返済を遅らせてはいけない、という思いが焦りとなって冷静な判断を狂わせ、そして自らを窮地に追いこむことになってしまった。
 すべては自分で蒔いた種だった。
 それもわかっている。
 こうなる前に、借入などする前にパート先を探し、働きにさえ出ていればこんなことにはならなかった。
 生活のためにと脚を踏み入れた場所は底なしの沼で、身体は徐々に引きずりこまれていき、気づくと身動きがとれなくなっていた。
 そんな不甲斐ない自分が情けなくて、典子は深いため息をついた。
 しばらく放心したように坐りこんでいたソファから立つと、二階の寝室に向かい、服を着替えた。
 ふと、ドレッサーの前に坐り、自分の顔を見つめた。
 他人のような、やつれた顔がそこにある。
 肌がかさついているのは、外気が乾燥しているからだけではない。
 眼の下の隈も、ファンデイションでは隠しきれずに滲みだしている。
 思わず涙が溢れ出し、典子は首をふった。
 泣いてなどいられない。
 今の現状をどうにかしなければならないのだから。

 だけど、どうやって……。

 鏡の中の自分に問う。
 なのに、その顔は何故か笑っている。
 穏やかな微笑を浮かべて。それは遠山響子の顔だった。
 だが、眼だけが笑っていない。

 できるわよ、あなたなら――。

 その眼がそう語っている。
 典子はまた首をふる。

 身体を売るなんて……。

 とてもそんな真似はできない。
 できるわけがなかった。
 それどころか、他の男に身体を許すなど、想像するだけで背筋に寒気が走った。
 典子にとって夫は、初めて本気で好きになった男であり、初めて手を触れさせた男だった。
 それだけに、彼女には夫以外の男は考えられなかった。
 とはいっても、十一年という結婚生活の中で、夫に対し不満を覚えなかったわけではない。
 仕事に追われ、休日まで返上して働きつづけた夫との生活には、会話を交わす時間もなく、夫婦という関係も仕事の延長のようでしかなかった。
 それは息子が産まれてからも変わらなかった。
 いや、却って産まれてからのほうが、不況の波が押し寄せた時期と重なっていたこともあって、夫は尚のこと仕事に身を入れ、家族を顧みなかった。
 そんな生活の中で、寂しさを覚えながらも典子は、夫は家族のために頑張っているのだと、不満を胸の奥に閉じ込 め、甲斐甲斐しく尽くしてきた。
 そして寂しさを感じるときは、できる限りの愛情を息子に注ぎ、日に日に成長していくその姿を見つめることで、自分を癒してきた。
 だから、他の男に眼を奪われることもなかったし、ただの一度として、浮気をしようなどと考えたこともなかった。
 偽りのない貞淑をとおしてきたのだ。
 だが、その甲斐も虚しく夫の勤めていた会社は倒産し、それでも、今の会社に勤め始めてからは、それまでの夫が嘘のように、息子にも、そして典子にも愛情を示すようになった。
 やっと家族がひとつになれたというのに、やっと、心から幸せになれたと思っていたのに、その幸せの代償とでもいうように借金が膨らんでいった。それは皮肉としか言いようがなかった。
 このままでは、幸せを失ってしまう。
 いったいどうすればいいのだろうか。
 借金なんてしなければよかった。
 借金さえしなければ、こんな思いをせずにすんだのだ。
 そう嘆くことしかできなかった。
 自分の愚かさを呪い、それが尚愚かだということさえ気づくこともできず、典子は自分を苛み、罵倒した。
 鏡の中の自分を睨みつづけ、ときには眼を伏せてため息を零し、気づくと部屋の中には、外よりも早く夜の気配が薄い闇を忍ばせていた。
 結局、何の解決策も考えられぬまま、それでも、仕事だけは探さなければならない、と典子は立ち上がった。
 キッチンで夕食の準備をしていると、尚行が学校から帰ってきた。
 ただいまァ、と典子に声をかけると二階に上がっていき、すぐにまた下りてきた。
 リビングに入ってくると、ソファに坐るなりTVを点け、BSチューナーのアニメにチャンネルを合わせた。
 今年の春、大リーグが観たいという夫のためにケーブルTVを契約し、八局がパックになっているその中に、アニメもふくまれていたのだった。

「尚行、手を洗ってないでしょう?」

 TV モニターに眼を向けている尚行に、典子が言った。

「ん? うん」

 TVモニターからに眼を離さず、尚行は答えた。

「だったら、洗ってきなさい」

 それに耳を貸さず、尚行は立ち上がろうとしない。

「オヤツいらないの?」

 それにはさすがに尚行も立ち上がった。
 その背に典子が、うがいもしなきゃダメよ、と投げかけると、

「もう、わかってるよ」

 尚行は投げやりに言い返し、面倒臭そうに洗面に向かった。

 まったく、生意気なんだから……。

 先月八歳になったばかりの尚行は、最近少しずつ生意気になってきた。
 とはいっても、それは口先だけのことで、言うことを聞かないということはない。
 だったら初めから言うことを聞けばいいと思うのだが、反抗的な態度を取ったりするわけでもないし、根は素直な子なので、よほどのことがない限り、典子も叱りつけたりはしなかった。
 今でこそ夫も、父親らしいことができなかった分を埋めるかのように息子を可愛がってはいるが、尚行が寂しい思いをしていた頃のことを考えると、典子はどうしても甘くなってしまう。
 それでも、まるで友だちのように接している夫と尚行とのあいだには、父子としての絆も深まり、ふたりが遊んだり喧嘩をする中で、物事の善し悪しを学んでいっているのだと思うと、別段、叱る必要もないような気もしていた。
 洗面から戻ってきた尚行に、典子はクッキーとスナック菓子を皿に載せて出してやった。
 即座にクッキーを手に取り、口に運びながらアニメに釘づけになっている息子の姿に、典子はふと微笑んでいた。
 夕食の準備も終え、お風呂を沸かし、リビングのソファで尚行と一緒にアニメを観ていると、道久が帰ってきた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...