平凡という名の幸福

星 陽月

文字の大きさ
6 / 38

【第6話】

しおりを挟む
「ただいま」

 道久はリビングに入ってくると、典子と尚行に声をかけ、

「お帰りなさい」

 典子はそう返してソファを立ち、キッチンに向かいながら、

「先にお風呂、入るでしょ?」

 そう訊いた。

「うん、そうする」

 その道久のもとへ、すぐさま尚行がやってきて、「お帰り、パパ」と抱きついた。

「ただいま」

 道久は尚行の頭をなで、

「尚行、お風呂までどっちが早いか競争だ」

 そう言ったとたん、ふたりはその場で服を脱ぎ始め、裸になるとバタバタと浴室に向かっていった。
 典子は食卓に食器を並べると、

「まったく、もう。脱ぎ散らかしたままなんだから」

 ため息を零しながら、リビングに脱ぎ散らかされた衣服と下着を拾い集めた。
 浴室から、尚行のはしゃぐ声と、それに負けないぐらいの道久の声が聴こえてくる。
 そんな楽しそうなふたりの声を聴いていると、典子は心が和み、幸せを感じた。

「お風呂のお湯、あまり無駄にしないでよォ」

 ドア越しに声をかけると二階に上がり、ふたりの換えの下着と部屋着を取ってきて、脱衣場のカゴに入れた。
 三十分ほどでお風呂からあがってきたふたりは、何やら真面目な顔つきで話をしながら食卓に坐った。

「ふたりで何の話?」

 茶碗にご飯を装い、典子は訊いた。

「男同士の話さ」

 道久がそう答え、茶碗を受け取ると、

「男同士の話さ」

 尚行も同じく答えた。
「あっそ、女の私には関係ないってことね」
「そういうこと」
「そういうこと」

 尚行はまるで鸚鵡(おうむ)返しだ。

「どうせ、たいした話じゃないんだから、いいわよ」

 典子は自分のご飯を装うと椅子に坐った。
 三人揃ったところで、いただきますと手を合わせ、食事を始めた。

「ママが作るご飯は美味いなァ」

 お世辞を忘れない道久は、お代わりをした。
 そんな台詞も今の会社に勤め始めてからだ。
 以前は、こうして家族三人で食事をすることも皆無に等しかった。

「ママのご飯は美味いなァ」

 尚行も負けじとお代わりをした。
 ふたりはとても美味しそうに食べる。
 典子には作りがいがあった。
 以前、尚行はピーマンが苦手だったが、

「男は、作ってくれたものは残さず食べなきゃダメだ」

 ある日、道久がそう言ってピーマンを口の中に放りこみ、むしゃむしゃと食べて見せると、初めは自分の皿の嫌いなピーマンを眉根を寄せて見つめていたが、眼をぎゅっと瞑ると、意を決して口に入れのだった。
 それ以来尚行は、好き嫌いもなくなり、すべて残さずに食べるようになった。
 そうやって父親の言うことは素直に聞くのも、道久が父親として躾けるのではなく、息子と同等の立場になり、男として接しているからなのだろう。
 食事が終わって食器を片づけ、ひと息ついてから、典子はお風呂に入った。
 湯船にゆっくりと浸かり、身体を癒す。
 だが、ホッとするのもつかの間、明後日は二件残った金融会社の返済をしなければならない、という現実が脳裡に蘇り、心まで癒すことはできなかった。
 返済する現金がないわけではなかったが、けれど、その現金を返済に廻してしまうと、その後の生活費がなくなってしまう。
 夫の給料日まではまだ半月も先だった。
 だが、だからといって、返済しないわけにはいかない。

 だったら、どうすればいいの……。

 なんどもなんども同じことをくり返し考えていると、頭がおかしくなりそうだった。
 それでも何とか、少し待ってもらおうという結論を出し、典子は湯船から出て身体を洗った。
 浴室を出てリビングに入ると、道久と尚行の姿がなかった。
 テーブルの上には、焼酎のボトルとポット、そして梅干が載せられた小皿が置かれ、飲みかけのグラスがある。
 きっと尚行がソファで眠ってしまい、夫が子供部屋に運んだのだろう、そう思いながら典子は、キッチンの戸棚からグラスを取ってリビングにもどり、ソファに坐った。
 グラスに焼酎とお湯を入れる。
 その中に梅干を沈め、割り箸で潰し、口に運んだ。
 仄(ほの)かな酸味と、お湯で薄められた焼酎のまろやかさが絡み、喉を流れていく。
 胃が熱くなるのが快い。
 吐息のような息をひとつ吐き出すと、道久がリビングに入ってきた。

「お、珍しいな、典子が呑むなんて」
「たまにはね」
「そうか」

 道久は典子の隣に坐り、自分のグラスを取ると軽く掲げ、「乾杯」そう言い、ふたりはグラスを重ねた。

「こうやってふたりで飲むなんて、ずいぶん久しぶりよね」

 グラスを見つめながら典子が言った。

「そうだな」

 道久は短く答えを返す。

「パパ、仕事忙しかったもんね」
「寂しい思いさせちゃってたな」
「そんなことないわよ。パパは、家族のために頑張ってたんだから。そりゃあ、寂しくなかったって言ったらウソになるけど、でも、それがあたり前なんだ、って思ってたし。だけど今は、寂しくなんかないわよ。こうしてふたりの時間が持てるようになったもの」
「その分、苦労をかけてるよ。大変なんだろ? 今やりくりするの。それがわかってるのに、俺、何もできなくて」
「パパは十分やってくれてるわ。会社の人に誘われることだってあると思うけど、飲みにも行かないし、煙草だってやめて、自分の欲しいものだって何も買わないじゃない。これ以上何かしてもらおうなんて思ったら、罰が当たるわ」

 道久はグラスを持った手をふと止めて、典子に顔を向けた。
 その顔は何も言わず、ただ典子を見つめいている。

「どうしたの?」

 典子は不思議そうに訊いた。
 道久は向けていた眼をグラスに移し、

「いや、俺の奥さんはいい女だなと思ってさ」

 照れることもなくそう言い、言われた典子のほうが照れた。

「何よ、急にそんなこと」
「ほんとにそう思うんだ。会社じゃ、人の家庭内の愚痴ばかり聞かされるから。渡辺さんなんて、家に帰っても自分の居場所がない、っていつも嘆いてる。子供が三人いて、家計が大変だから奥さんもパートに出てるらしいけど、それをチクチク言われるらしいんだ。アンタに甲斐性がないから、私が苦労するんだ、とか、このままじゃ、子供を大学にもやれない、って。今は仕事が終わると、胃が痛み出すって言ってた。そんな話を聞くと、身につまされるって言うかさ、何かこっちまで寂しくなるよ」

 道久は軽く息を吐き、グラスを口にして、

「俺は、女房に恵まれた」

 眼元に笑みを浮かべたが、横顔はどこか寂しげだった。
 その横顔を見やり、典子は胸が締めつけられる思いがした。
 夫は今、自分自身をなじっている、そう思った。
 口では他人の家庭の悲惨さを語り、俺は女房に恵まれたと言いながら、胸の内では不甲斐ない自分を責めているのだ。
 自分こそ、甲斐性なし、といわれても仕方がないのだと。
 それが典子には手に取るようにわかった。
 昔からそうだった。
 夫はひとを責めることを知らない。
 前の会社で、上司の尻拭いをさせられたときも、同僚が、自分で犯した失敗をなすりつけてきたときも、「悪いのは俺さ」と夫は相手を責めず、不満や愚痴ひとつ零さなかった。
 それだけに、あたり散らしてくることもなく、仕事の忙しさで会話がなくても、疲れきったその眼で、すまない、という言葉を伝えてきた。
 そんな夫だったから、典子も寂しさを耐えることができたのだ。
 そうでなければ、たとえ息子の成長する姿に癒されたとはいっても、寂しさを耐えつづけることはできなかっただろう。
 そして今、夫は、息子だけではなく妻にも、寂しい思いをさせた分を埋めようとしてくれている。
 家族のために、自分のことなど二の次に考えて。

 何もできないのは私のほうだ……。

 その思いに典子はグラスをテーブルの上に置き、

「パパ、私ね、働こうと思うの」

 そう言った。その言葉に、道久は典子に顔を向けた。

「さっきパパ、やりくりが大変なんだろって訊いたでしょ。そのとおりなの。だから、尚行が学校に行ってるあいだだけなら、私も働けると思って」

 借金のことは口が裂けても言えなかった。
 もし口にしたなら、夫は寝る間も惜しんで働くことだろう。
 それを夫は実行するとわかっているから、典子は胸の中に秘めておこうと決めたのだ。
 道久はわずかに眼を伏せて、

「すまない、苦労かけて」

 呟くように言った。

「そんなこと言わないでよ。パパだって家族のために頑張ってるんだから、私だって頑張らないと」
「だったら俺も、家のこと手伝うよ」
「うん、ありがと」
「でも大丈夫か? 就職して半年で俺と結婚してから、働いた経験ないだろ?」
「大丈夫よ。これでも、大学時代は色んなアルバイトしたんだから」
「だったら、いいけど、無理はするなよ」
「はい、無理はしません」

 ふたりはグラスを傾け会話を楽しんだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

処理中です...