平凡という名の幸福

星 陽月

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【第8話】

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 その日から土日を除いた一週間、典子は研修を受けた。
 研修の内容といえば、言葉使いから微笑み方、姿勢、歩き方など、社交場で必要なことを細かなことまで指導された。
 そして一週間が過ぎ、研修が終了して、典子は会社に登録をした。

「一週間ご苦労様でした。これで沢上さんも、我が社の一員です。頑張りましょう」

 遠山響子はそう言うと、厚みのある封筒を典子に渡した。

「そこには百万円が入ってます。これから仕事をしていただくための支度金と思ってください。やはりこの仕事は身だしなみが一番重要ですから。ご自分に合うものを揃えてください。ただし、そのお金はあくまで貸しつけになっていますので、働いた中から少しずつご返済していただきます。もし仮に、沢上さんと三日間、連絡が取れなくなった場合は、ご主人にご返済をお願いすることになりますので、ご了承ください。よろしいですか?」

 典子は受け取った封筒の厚さと、「百万円」という言葉に気持ちが昂ぶっていて、思わず、はい、と答えていた。

「ではこの同意書に、署名と捺印をしてください」

 言われるまま、出された同意書に署名捺印をした。

「仕事の依頼は、前もってこちらからご連絡します」

 それにも典子は、ただこくりと頭を下げていた。

「幸せな未来のために」

 その言葉と微笑に見送られてオフィスをあとにし、マンションを出ると、典子は真っ先に最寄の銀行に入った。
高利貸しから借入ている十万だけは返済をしておきたかったからだ。
 CD機で振込先を指定する。
 これで、あの男にあんなことを言われることはない、その思いに十万円を挿入口に入れようとし、だが、その手が止まった。
 突然、胸にこみ上げてくるものがあった。
 それは、ひとつの現実から逃れるために、胸の奥に追いやっていたもうひとつの現実だった。
 そう、身体を売るという現実――

 これから何をしようとしているのか、わかってるの……。

 恐ろしいことをしようとしている。
 自分が選んだものは、身体を「売る」ということなのだ。
 そしてそれに対しての支度金を、あたり前のように手にし、その一部を今、借金の返済にあてようとしている。
 そんな自分が怖かった。
 今からでも遅くはない。
 この現金をそのまま返しに行けば、まだ他の道への選択はある。
 そうすれば夫を裏切ることもない。
 典子は胸の中で首をふった。

 今更何よ……! 
 確かに私は身体を売るわ……。
 でも、もう決めたことじゃない……! 
 そうすることが、すべてにおいて一番いい結論なんだって……。
 身体を売ったからって、心まで売るわけじゃないわ……。

 いつの間にか溢れていた涙が頬を伝い、周りから隠すようにして頬を拭った。
 そして改めて決意を固めると、十万円をCD機の挿入口に入れた。
 銀行を出た典子は、バッグからスマートフォンを取り出し、高利貸しの業者に電話を入れた。
 電話の男は、全額返済をしたことを伝えると、この前とは打って変わって猫なで声になった。

「そんなに無理をしなくてもよかったのに。この前は少しきついことも言ったけど、あーでも言わなけりゃ示しがつかなくなるもんだから。すいませんでした。だから沢上さんの場合いは多少遅れても眼を瞑りますから、どうですかもう少し借りておくっていうのは」

 そんなことを言ってきた男に、

「そちらから借りることは、もう二度とありませんから」

 典子は思わずそう言い返し、電話を切った。
 そのとたん、胸のつかえが取れたようにすっきりとした気分になった。

 これでいいのよ……。

 もう後戻りはできない。
 典子は自分に言い聞かせることで、身体を売るというもうひとつの現実を、胸の奥底へとまた追いやった。
 夕食のとき、典子は、仕事がみつかったことを夫に伝えた。

「どんな仕事?」

 ご飯を口に運びながら道久は訊いた。

「うん、友だちの紹介なんだけどね、化粧品の営業なの」

 典子は咄嗟にそう答えた。
 そんな嘘しか思いつかなかった。
 道久は箸を止め、典子を見つめた。

「そういう営業って、ノルマが厳しいんじゃないのか? それに、自分でも高い化粧品を買わなきゃいけないって言うじゃないか。大丈夫なのか? 営業経験もないのに」
「営業と言っても、私がやるのは電話で興味のある人に商品の説明をして、アポを取るだけらしいの。だからノルマもないし、化粧品を買わされたりもしないから大丈夫よ」

 たまたま化粧品の営業をやっている友だちがいて、そんな話を聞いたことがあった。
 そしてそれを今、自分が働く場所として話している。
 それも平然とだ。
 そんな自分に罪悪感が生まれ、典子はそれを隠すように薄い笑みを浮かべた。
 何も疑うことなく道久は笑みを返し、

「だったら、俺は何も口出ししない。頑張れよ」

 励ましの言葉をかけた。

「うん」

 典子は胸が詰まり、涙が溢れそうになって、

「パパ、お代わりは?」

 と誤魔化した。

「もらおうかな」

 道久が茶碗を渡しす。
 それを見て尚行はご飯を掻きこみ、口の中をいっぱいにしながら、

「もらおうかな」

 と茶碗を差し出した。
 その姿に典子はクスリと笑い、茶碗を受け取るとご飯を盛った。

「よく噛んで食べるのよ」
「うん」

 尚行は茶碗を受け取ると、まだ覚束ない箸の使い方でご飯を口に運んだ。
 その尚行のおかずを道久が取ろうとする。
 それを尚行が必死で防いでいる。
 そんな何でもない光景が典子には眩しい。
 この幸せが一番大切なんだ。

 壊してはいけない……。

 その言葉を、典子は何度も何度も胸の中で呟いた。
 翌日の午前中、グローバル・ビジョンから電話が入った。

「早速ですが、明日お仕事が入ってます」

 電話の声は受付の女性だった。

「あ、はい」

 典子は緊張で胸が高鳴った。

「お仕事は、出版会社の創設五十周年パーティに出席なさる、作家の佐山慎一郎様の同伴者です。パーティは高輪プリンスホテルで行われます。始まるのは二時ですから、一時半にはホテルに行き、ロビーで待つようにしてください」
「はい……、わかりました」

 そう答えた声が、かすかに強張っていた。
 それが受話器を通して伝わったらしく、

「大丈夫ですか?」

 受付の女性がそう言った。

「あ、はい、大丈夫です」
「そうですか。それでは、ホテルに着きましたら、一度オフィスにお電話ください。その時に服装をお訊きしますので。服装はドレスでなくて構いませんが、あまり地味なものは避けてくだい」

 終始、事務的に用件だけを淡々と伝えると、女性は電話を切った。
 典子は受話器を置くと大きく息を吐き、二階に上がった。
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