平凡という名の幸福

星 陽月

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【第9話】

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 パーティに着ていく服を買わなければならない。とはいえ、いったいどんな服を着ていけばいいのか。結婚してから友人の結婚式には何度か出席したが、パーティと名のつくものには出たことがない。
 友だちにでも訊いてみようか、そう思ってもみたが、色々と詮索されるのは予想がついたので、考えを改めた。
 ドレスでなくてもいいのなら、とクローゼットを開けてみた。
 何着か身体にあて、鏡の前に立ってみる。
 だが、どれもパッとしなかった。
 数年前に購入したそれらは、ほとんどがブランド品で安いものではない。
 その頃は何も考えることなく、あたり前のように購入していた。
 それだけゆとりがあった頃だった。
 今ではとても手が出せないものばかりだが、こうして数年が経ってしまうと、それらが皆、色褪せて見える。
 それと同時に胸に湧くのは、こんな古いものはもう着れない、という思いだった。
 それだけではない。
 心の奥を覗いてみれば、新しいものが欲しい、という思いが溢れている。
 それは典子の正直な欲望だった。
 家族のために、生活のためにと、自分の欲しいものを我慢しつづけてきた。
 けれどそれを、不満に思ったことは一度もない。
 だがそれは、そう思わないようにしようと思っていただけに過ぎず、実際は心の奥で燻りつづけていたのだ。
 それが今、欲望として溢れ出たのは、きっと、百万という現金を手にしたことで、燻っていた不満がチラチラと燃え始めたのだろう。
 それがどういったお金なのかを知りながらも。
 典子は眼を瞑った。ほんの一瞬でも、そんな感情が芽生えた自分が浅ましく思えた。

 最低だわ……。

 つくづくそう感じた。けれど、だからといって、特別なパーティだというのに、着古しの服など着ていくわけにはいかない。
 それも仕事なのだ。失礼があってはいけない。

 決して、自分の欲望を満たすために買うんじゃない……。

 仕事に使うものなんだから、そう言い聞かせ、典子はドレッサーに坐り、化粧を始めた。
 自宅を出ると電車を乗り継ぎ、青山に出た。
 表参道を歩いていると、胸が沸き立ってきた。何年ぶりかで訪れただけに、郷愁とまではいかないが、そんな気分だ。
 匂いまでが懐かしい。休日とは違い、行き交うひとの幾分少ない、この平日の光景が典子は好きだった。
 空は蒼く、陽の光が穏やかに降り注いでいる。
 街路樹の葉は、まだすべてが枯れ落ちず、陽光を受け止め、煌めいていた。
 点在するブティックのショーウィンドウを眺めながら、典子はゆっくりと歩く。
 そこには、すでに冬の装いが飾られていて、ときめきに胸が躍った。
 何軒目かの店の前で典子は立ち止まり、ドアを開けた。
 いらっしゃいませ、と迎えてくれる、店員の静かな声の響きが、耳に快かった。そこは、以前よく利用した店だったが、見知った店員の顔はなかった。
 久しぶりなだけに、かすかな緊張を覚えた。
 店内を観て廻っていると、店員が静かに近づいてきて、

「どういったものをお探しですか?」

 と訊いてきた。

「創立記念パーティに着ていくものなんですが」
「というと、会社か何かですか」
「えェ、出版会社です」

 典子はぎこちない微笑みを浮かべた。

「そうですか。それでしたら、落ち着きのあるフォーマルなのもがよろしいですね」

 そう言って、勧めてくれた何着かを典子は試着した。
 その中で典子は、淡いベージュ色のワンピース・アンサンブルが気にいった。
 あと何店か観て廻ってから決めたかったが、欲望に変わっていく自分を恐れて、その気にいったものを購入した。
 駅へと向かう途中、正午を過ぎていたこともあって、典子はパスタ料理の店に入った。その店も、よく来たところだった。
 店内は満席だったが、運良くふたり組みの女性客が席を立ち、すぐに坐ることができた。典子は、トマトベースのシーフード・パスタを注文した。
 一時近かったせいか、パスタが運ばれてきたときには、席が空き始めた。
 パスタをフォークに絡め、口に運ぶ。
 味は以前と少しも変わらなかった。
 典子が初めてこの店に来たのは、まだオープンしたばかりの頃だった。
 イタリアに十五年いたというオーナー・シェフは、パスタにこだわりを持ったひとだった。
 だから、パスタ以外のイタリア料理は一切メニューにはない。
 それだけに、どのパスタも格別で、その上、ここでしか口にできないシェフ考案のパスタ料理も幾つかあり、それもまた美味しかった。
 典子は、青山に来て何も買わないときでも、この店には必ず足を運んだ。

 この店のパスタが、一番美味しい……。

 懐かしい味を、よく味わいながら典子は食べた。
 店を出て駅に向かい、靴店の前を通り過ぎようとして足を止めた。
 靴も新しいものを買ったほうがいいだろう、そう思ったからだ。
 店内に入り、できるだけシンプルなものを探すと、気にいったものが二足あった。
 パールホワイトにするか、それとも、色合いの柔らかいベージュ色にするかで悩んだが、服の色に合わせ、ベージュ色のパンプスにした。
 支払いを済ませ、店を出ようとしたとき、入口近くのブーツ・コーナーに眼がいった。
 欲しいと思っていたブーツがそこにあった。
 思わず足が向いて、典子は手に取ろうとし、だが、その手を止めた。

 ダメよ……。

 欲しいものを買いに来たんじゃないんだから、強くそういい聞かせ、それでもそのブーツから眼が離せない自分を、その場から引き離すようにして典子は店を出た。
 今にも手を出しそうになっていた。
 自分を見失いそうだった。
 そんな自分が怖くなった。
 お金を持っている、という現実が、欲望を駆り立てている。
 典子はそう思った。
 現金というものが心を狂わしているのだと。
 今は何とか理性を保ってはいるが、そんな理性などわけもなく崩れてしまい、欲するまま、現金に手を出しかねない。
 いや、それ以前に、現金を持っていながら我慢を強いられるということが、苦痛に感じてさえいる。
 典子は自分がわからなくなった。
 まるで違う自分が、心の中に存在しているように思えた。
 そのもうひとりの自分が、我慢なんてしなくていい、と囁いている。
 このままではきっと、その囁きに負けてしまう。

 これじゃいけない……。

 現金を持っているから悪いのだ。
 現金があるから、それに翻弄(ほんろう)されてしまうのだ。
 だったら、残りの現金を返そう。
 その思いに典子は、バッグからスマートフォンを取り出した。

「そのお金は、言わば衣装代なんですから、何着か買い揃えていただかないと」

 返金したい旨を伝えると、遠山響子はそう言った。

「ですが、怖いんです。このお金を使ってしまうことが」
「働き始めれば、すぐに返せますよ。そのぐらいのお金なら」
「それでも、返しておきたいんです」

 切なる典子の言葉に、遠山響子は数秒沈黙し、そして、

「わかりました」

 そう言った。

「どうしても、と仰るんでしたら、五十万だけ返金してください」
「そうですか、わかりました」

 五十万だけでも返せるなら、と典子は承知した。
 遠山響子は、指定先の口座を告げると、

「今夜は、色んなことが頭を巡ると思いますが、お子さんのことを考えてください。そうすれば切り抜けられます。すべては、ゆとりある生活のためです。頑張ってください」

 そう言い電話を切った。
 暗澹(あんたん)たる思いを胸に抱きながら、典子はスマートフォンをバッグに入れた。
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