平凡という名の幸福

星 陽月

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【第10話】

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 その夜、典子は眠れなかった。
 眼を閉じ、何度も寝返りを打ったが、頭の中は冴えていくばかりだった。
 遠山響子の言ったように、色んなことが頭を巡った。
 パーティのこと、作家だと言っていた男はどんな男なのかということ、そしてその男に、身体を売る――ということ。
 首をふり、ふり払おうとしても、それらは執拗に頭の中にへばりついている。
 典子はまた寝返りを打ち、道久のベッド側に身体を向けた。
 薄闇に、夫の横顔が仄かに浮かぶ。
 静かに寝息を立てている、その横顔を見つめていると、涙が溢れてきた。
 
 パパごめんね……。
 
 心で典子は謝罪した。

 私は、この身体を売ります……。
 それはパパを裏切ることだけど、仕方がないんです。
 他に方法がないの。
 パパに負担はかけられないから……。
 自分で蒔いた種だもの、私が何とかします。
 だから赦してください。
 少しのあいだだけだから……。
 借金さえ返してしまえば、すぐにやめるから。そして普通の仕事をします。
 約束します。
 ほんの少しのあいだだけ……、ほんとにごめんなさい……。
 パパ、私はあなたを愛してる。
 これからもずっと……。
 だから……、ほんとにごめんなさい。
 こんな私を許してください――
 
 唇が震え、溢れる涙は目尻を伝い、枕に広がった。

「赦して、パパ……」

 かすかに声にする。その声は涙に掠れた。
 そのとき、道久が寝返りを打った。
 典子は一瞬、起きているのかと思い、慌てて布団で顔を隠した。
 すると、

「ママの言うことは、ちゃんと聞かなきゃダメだ」

 そんな声がした。
 それが寝言だということは、その言葉ですぐにわかった。
 典子はホッとし、それでも布団からそっと眼だけを出して、夫の様子を窺った。
 寝息が静かに聴こえている。
 道久はよく眠っている。
 その眠っている顔がいとおしくて、典子はふと手を伸ばした。
 けれど、夫の顔にその手は届かず、届かないまま、眉や眼、そして鼻や唇を指先でなぞった。
 そうしているとまた涙が溢れてきて、揺れる夫の顔を指先でなぞりつづけながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
 だが、その眠りは浅く、典子は夢を見ていた。
 夫と息子が公園でキャッチボールをしている。
 その光景を、典子は舗道から眺めている。
 尚行が典子に気づき、笑顔で手をふる。
 その尚行に、道久が何か言っている。
 すると尚行は、道久に顔を向け、哀しそうにその顔を歪め、何か言い返した。
 それに、道久が声を荒げる。
 だがそれは、声を荒げているというのがわかるだけで、声は聴こえない。尚行が泣き出し、やはりその泣き声も聴こえなかった。
 典子は尚行を呼んだ。
 それなのに、その声が届かない。
 いや、届かないのではなく、声が出ないのだ。
 典子はもう一度、尚行の名を呼んだが、結果は同じだった。
 声にならないその声は、胸の中で空しく響くだけだった。
 典子は焦りを覚え、尚行のもとに行こうとし、だが、今度は脚がピクリとも動かなかった。
 辺りが突然暗闇に変わり、道久が泣きじゃくる尚行の手を取り、遠ざかっていく。
 
 パパ! 尚行! 

 典子は叫ぶ。

 待って! どこに行くの!

 声にならない声で。
 道久と尚行がふと立ち止まり、ふり返った。
 道久も泣いている。
 とても哀しい顔で。
 
 パパ、ごめんなさい。
 私、パパを裏切ったけど、でも、私は……。
 ごめんなさい、パパ、ほんとにごめんなさい……

 典子は必死に謝り続けた。
 それなのに、ふたりの姿は、立ち止まったまま離れていく。
 典子は全身の力をふり絞って足を前に出そうとした。
 すると、何とか足が動いて、追いかけようとしたそのとき、典子はうしろから腕を掴まれた。
 ふり返ると男が立っている。
 男の顔は、暗闇に溶けて誰なのかわからない。
 それなのに、口許だけが闇の中に浮かび、唇をゆがめて笑っている。
 典子は男の手を力いっぱいふり払い、道久と尚行を追おうとしたが、いつの間にか複数の男たちに囲まれていて、行く手を阻まれた。
 男たちの手が伸びてくる。
 恐怖のあまり、典子は叫び声をあげる。
 だがやはり、それは声にはならなかった。
 そこで典子は眼を醒ました。
 眼の前には、夢の中と同じような闇が広がっている。
 典子はすぐに、そこが寝室だということを理解できず、自分はまだ夢を見ているのだと錯覚した。
 それでも、隣のベッドに眼をやり、眠っている夫の姿があるのを見て、ひとつ小さく息を吐いた。
 喉の渇きを覚えてベッドをそっと出ると、階段を下りてキッチンに行き、冷蔵庫から麦茶を出してひと息に飲んだ。
 ベッドにもどり、眼を閉じたが、頭の中には色んなことが錯綜し、結局そのまま眠れなかった。
 気づくと、夜の闇が白み始めた朝の気配に、少しずつ追いやられていった。
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