平凡という名の幸福

星 陽月

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【第29話】

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 ランチタイムが終わって、典子はやっと休憩に入り、更衣室の隅にあるテーブルで遅い昼食を摂った。

「今日、早番のみんなとカラオケに行くんだけど、どお? 沢上さんも」

 一緒に休憩している野口春代が典子に訊いた。
 春代はこの店に入って半年の、やはりパートで働いている四十歳の主婦だ。
 子供は中学三年と中学一年の男の子がいて、夫は印刷会社で働いているという。
 夫の給料が安くて、と言うわりには、派手な服を着、しょっちゅう店の人間たちとカラオケや、飲み会に足を運んでいる。
 噂では、厨房で働く年下の社員と関係があるらしい。

「たまにはいいじゃない。主婦だって遊ばなくちゃ」

 典子が返答に困っていると、更にそう言ってきた。

「私は余裕がないから……」
「何よ、そのぐらいなら貸してあげるわよ」

 今までも誘いを断ってきただけに、無下に断り難い。
 とはいえ、借りてまで行く気にもなれず、返答に窮(きゅう)していると、バックの中のスマートフォンが鳴った。
 典子は一瞬、夫か息子に何か遭ったのではないかと思いながら、スマートフォンを取り出した。
 ディスプレイには、登録していない番号が表示されている。
 典子は、春代に聞き耳を立てられるのが嫌で、ごめんなさい、そう言うと更衣室を出て、非常口から店の外に出た。

「もしもし」

 幾分、緊張しながら神経を耳に集中する。
 少しの間があって、男の声が返ってきた。

「あの……」

 典子はすぐにその声が誰なのかがわかった。

「どうして……」

 動揺に、声が震えた。

「突然、すまない……」
「どうして……」

 佐山の声が信じられず、典子は他の言葉が見つからなかった。

「仕事辞めたって聞いて……。どうしても君に逢いたくて、オフィスに無理を言って教えてもらったんだ。君の番号」

 典子は無言のままでいた。
 何の連絡もなく、勝手にスマートフォンの番号を教えてしまったオフィスに腹を立て、だが、その反面では、もう聞くことはないはずだった佐山の声に胸が騒いでいた。

「非常識なことをしてるのはわかってるんだ。だけど、もう君に逢えないんだ、と思ったら堪らなくなって……ほんとに、すまない。迷惑だったよね」

 典子は無言をとおした。
 何をどう言っていいのかわからなかった。

「そうか、そうだよな。君はもう家庭に帰ったひとなんだよな……」

 典子の無言を、電話を掛けたことへの答えなのだと、佐山は捉えたようだった。

「だったら、何も言わなくていいから聞いてほしい。明日、五時に高輪プリンスに来てくれないか。君と初めて逢ったあのロビーで、待ってる」

 電話はそれで切れたが、しばらく典子はスマートフォンを耳に当てたままでいた。
 ふとそんな自分に気づいて、スマートフォンを離した。

 何だったの……。

 佐山からの電話が典子は信じられずにいた。
 耳にはまだ、佐山の声が残っているに、それを現実のものとして認識できない。
 それだけ、典子には思ってもみないことだった。
 それでも少しずつ、それは現実として確かなものになっていく。
 それとともに、心の闇に追いやっていた佐山への想いが、胸に湧き上がってきた。

 どうして……。

 疑問符だけが頭を巡る。

 自分に整理をつけたのに、想い出にするつもりでいたのに、どうして電話なんて掛けてきたのよ……。
 どうして私の心を掻き乱すの……。

 典子は制服の胸元を握り締めた。
 湧き上がってくる想いは、典子を覆い尽くそうとする。
 脳裡には佐山の顔が浮かぶ。
 スタンドの灯りに翳った、苦悩に満ちた横顔と、典子の胸の中で、苦悶を秘めた微笑で見上げてきた顔。
 それらが鮮明に蘇ってくる。

 ダメよ!

 脳裡に灼きつくその陰影を、典子は払拭するように首をふった。

 もう終わったはずじゃない……。

 揺れる自分を諌める。
 そう、もう過去のことなのだ。
 家族との平穏な暮らしの中に、佐山を想う隙間などない。
 夫を、息子を、愛する以外の愛はいらない。
 今は、家族のことだけを考えていればいい。

 それだけでいいのよ……。

 典子はそう言い聞かせ、佐山が最後に言い残した、待ってる、という言葉を忘れ去ろうとした。
 正午を過ぎた頃から、典子は意識しないままに、幾度となくリビング・ボードに置かれた時計に眼をやった。
 だが、三時を過ぎると、意識は完全に時計へと流れていた。
 そして今も、何をするでもなくソファに坐り、気づくと時計に眼を向けている。
 佐山の最後の言葉を、忘れ去ろうとしていたのに、時間が刻々と過ぎていくにつれ、五時という時間が脳裡にこびりついてくる。

 時間が止まってくれればいいのに……。

 その思いは通じるわけもなく、時刻は四時になろうとしている。
 もうすぐ、尚行が学校から帰ってくるころだ。
 
 今からなら、まだ間に合う……。
 
 典子は時計を見つめる。
 秒針が時を刻んでいく度に、胸に針を落としたような痛みが走る。
 鼓動が激しくなり、気持ちが逸る。
 だが、身体は動かない。
 理性が逸る気持ちを押し留める。
 逢いに行ってはならない。
 そんなことをすれば、後もどりりできなくなる。
 家族との平穏な暮らしを選んだのに、それを失うことになる。
 それがわかっていて、どうしてここまで心を奪われるのか。
 渇望するこの想いはいったい何なのか。
 家族への想いよりも、佐山への想いのほうが勝っているとでもいうのか。
 
 そんなこと……!
 
 典子は強く首をふった。

 私が望んでいるのは平凡な生活だ。
 愛しているのは、夫と息子なのよ……。

 典子は立ち上がると、時計をうしろ向きにした。
 そのとき玄関のドアの開く音がして、尚行が帰ってきた。

「ただいま」

 リビングの典子に声をかけると、尚行は二階へと上がっていった。

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