平凡という名の幸福

星 陽月

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【第30話】

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 ほどなくして尚行がリビングに入ってきて、宿題をやるために、教科書とノート、そして筆箱をテーブルの上に置いた。
 典子がロールケーキと牛乳を出してやると、尚行はさっそくロールケーキを手に取り、ふいにリビング・ボードに眼をやった。

「ママ、時計が裏側になってるよ」

 そう言われて典子はドキリとし、

「あ、ほんとだ。掃除をしたから、反対にしちゃったのね」

 言いながら時計を正面にもどした。
 見てはいけないと思いながら、文字盤に眼がいく。
 時刻は、四時十分になるところだ。
 その刹那(せつな)、典子の中で何かが弾けた。

「尚行。ママ、ちょっと夕飯の買い物に行ってくるから、留守番よろしくね」

 言い切るよりも早く、バッグを手にし、典子は玄関へと向かっていた。
 その典子に向かって、

「ママー、風林堂のシュークリーム買ってきてー」

 尚行がそんな注文を投げかけた。 
 それに返事を返すこともなく、典子は玄関を飛び出していた。
 着替えることも、髪や化粧を直すこともないまま、タクシーを拾った。
 何とか時間に間に合ってほしいという思いと、佐山に逢える、という思いだけが典子を衝き動かしていた。
 品川へと向かうまでの道は、夕刻ということもあって渋滞し、思うように進んでくれなかった。
 気ばかりが焦る中、時間は容赦なく過ぎていく。
 やっとホテルが見えてきて、だが無常にも赤信号に捕まり、典子は信号が変わるのを待てずにタクシーを降りた。
 バッグから腕時計を取り出すと、時刻は五時半を過ぎていた。

 まだ待っていてくれるだろうか……。

 逸る気持ちを胸に典子は走った。
 ホテルの玄関をはいり、ロビーに眼を向ける。
 けれど、視線の先に佐山の姿はない。
 典子はホール内を見渡した。
 だがやはり、佐山の姿はどこにもなかった。
 走ってきたせいか息がまだ乱れていて、典子は胸に手をやった。
 鼓動が激しく胸を打っているのは、走ってきたせいだけではない。
 息が整っていくにつれ、落胆よりも、自分の取った行動の愚かさに、情けなさがこみ上げてきた。
 ホール内を行き交うひとの視線が、一瞥するように注がれていく。
 そのときになって初めて、典子は自分が普段着のままであることに気づいた。

 何をしてるのよ……。

 今更に、そんな自分に呆れる。

 帰ろう……。

 気持ちの上ではそう思い、だが、身体が動かない。
 きっと佐山は現れる、その思いが典子を引き止めていた。

 もう少し待ってみようか……。

 諦めきれずにそう思う自分が虚しい。
 典子は眼を閉じる。

 もう過去のなのよ……。

 そう言い聞かせ、玄関へと歩き出したそのとき、バッグの中のスマートフォンが鳴った。
 バッグからスマートフォンを取り、番号を確認すると典子はすぐに耳に当てた。

「逢わずに帰るつもり?」

 その声に典子は辺りを見渡した。

「ふり向いて」

 言葉のままふり返ると、閉じた自動ドアの奥に、スマートフォンを耳に当てている佐山の姿があった。

「来てくれたんだね」
「えェ。でも……、さよならを言いにきただけだから」

 典子は動かず、佐山の顔を見つめて答えた。

「そうか……」

 佐山の眼に憂いが滲む。
 その瞳を正視できずに、典子は眼を閉じた。

 そんな眼をしないで……。

 胸が痛む。

「だったら、もうこれで逢えないんだったら……、いや――」

 そこで佐山は唇を噛み、一度顔を伏せたが、

「君に逢えてよかった」

 顔を上げると、思い直したように薄い笑みを浮かべた。

「私も、あなたに逢えてよかった」

 涙が湧いてくる。
 それを堪えて、無理に典子は笑みを返す。

「私――」
「何も言わないで」

 典子が何かを言おうとするのを、佐山が制(と)めた。

「そのまま背を向けてくれないか。黙って君の背を見送りたいから」
「佐山さん……」

 堪えていた涙が、条を引いて典子の頬を滑り落ちていく。

「ほら、背を向けて」

 典子は何かを言おうとして口を開きかけたが、その唇を結び、ゆっくりと佐山に背を向けた。
 けれど、足は前に進もうとしない。

「さァ、行くんだ」

 後押しするように、佐山が言う。
 典子は涙を拭い、足を踏み出した。
 ふり向いてはいけない。
 足を止めてはならない。
 その思いを胸に典子は歩く。
 だが、

「さよなら」

 佐山のその言葉が、典子の足を止めさせた。
 その瞬間、典子の中で渦巻く思いが弾け、湧き上がる衝動にふり返ると、佐山に向かって駆け出していた。
 そのときはもう、典子は何も考えられなかった。
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