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【第5話】
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雲ひとつない蒼穹(そうきゅう)が広がっている。
秋晴れとは、まさにこのことをいうのだろう。
穏やかな日差しが、休日の公園に降り注ぐ。
清涼な風の流れに、夏の陽光をじゅうぶんに浴びた樹々が、身にまとった紅色の衣装を少しずつ脱ぎはじめていた。
(いい日和だ……)
お日様に眼を細めて、その老人は思った。
田嶋正吉。
それがその老人の名だ。
正吉はベンチにひとり、膝を揃えて坐っている。
きれいに整えられた真っ白な髪と、額と目尻の深いしわには人生の長さが刻まれている。
この1ヶ月あまり、正午になると、雨が降らないかぎりは決まってこの公園にやってきては、園内を1時間ほど眺めて帰っていく。
もう日課のようなものだ。
その公園からさほど離れていないところにある、特別養護施設、『福寿の里』に正吉は入居している。
何の不自由もなく、施設のスタッフもやさしく接してくれるのだが、入居して半年が経ったいまでも、その環境に慣れない。
「すぐにお友だちもできますよ。気のいい人たちばかりですから」
入居の際、恰幅のある院長は、縁なしの眼鏡から覗く眼に柔和な笑みを浮かべてそう言ったが、他の入居者たちとはいまだ挨拶を交わす程度でしかない。
決して寡黙というわけではないのだが、人見知りしてしまうのが災いしているのかもしれなかった。
施設に入居することを決めたのは息子だった。
先立った妻の1周忌を済ませたある日のこと、
「いい養護施設があるんだ」
息子がそう言ったのは、もうすでに入居手続きを済ませたあとだった。
正吉には相談のひとつもなかった。
「そこはさ、福寿の里っていうんだけど、いまじゃ老人ホームのイメージもずいぶん変わって、快適なところなんだよ。部屋の中もモダンな造りで落ち着けるらしいし。父さん、新しい人生の出発だよ」
嫁の入れ知恵だということはすぐにわかった。
なんとも情けのない話だが、所帯の全権を嫁に握られている息子に、反論などできるはずもない。
いや、相談のひとつもなかったことからすれば、息子もそれを望んでいたのだろう。
「そうですよ、お義父(とう)さん。前に言っていたじゃないですか。優雅な隠居生活がしてみたいって。ここなら介護も受けられるし、それに万が一ってときのために、医療設備も整っていますから」
施設のパンフレットをテーブルの上に並べ、悪びれもなくそんなことを言う嫁に、
「介護なんて受けるほど、私の身体はやわじゃない。それに知子さん。万が一のときっていうのは、 いったい、どういうときだい」
思わず正吉はそう返していた。
「それは……」
失言に言葉をつめると、嫁はその場を繕うことなく席を立ったが、
「父さん、おとなげのないことを言うなよ」
苦笑を浮かべて言う息子の顔を見て、正吉はそれ以上は何も言う気にはなれなかった。
自分が邪魔者なのだと感じるようになったのは、いつごろからだっただろうか。
明らかにそれとわかるものが、嫁の態度に見え隠れし始めたのは、妻が逝ってしまって2ヵ月が過ぎたころだった。
妻と嫁とは馬が合ったのか、ふたりのあいだにはいつも笑いが絶えず、近所では「嫁と姑というより、まるで姉妹のようだ」などと囁かれ、妻もそれで気をよくしたのか、正吉の前でも嫁を褒め、陰口を叩くようなことはなかった。
逆に正吉のほうで嫁の悪口を言うようなものなら、「あんなにできた嫁は、他にいやしませんよ」と窘めるほどだった。
その妻がすい臓癌で入院をしたとき、嫁は家族のだれよりも看病をし、
「早くよくなって帰ってきてもらわないと。みんな待っているんですから」
と励ました。
だが、その甲斐も虚しく、入院から4ヵ月という短さで妻がもどらぬ人となったときも、嫁は声を上げて泣き、哀しんだ。
妻へのその感情は、偽りではなかったと思う。
けれども、その感情は、あくまで妻に対してだけのものであったのだと、正吉は気づかされたのだった。
それだけに正吉は、自分のことは自分でやり、できる限り、世話をかけないようにと心掛けていたつもりだった。
しかし、嫁には正吉が家の中に存在しているということ自体が我慢ならなかったとみえて、一瞥(いちべつ)して くる視線には、冷たく射す光をふくんでいた。
疎(うと)んじられる理由を考えてみれば、息子と結婚をした当時に、ほんの些細な意見のくい違いから、嫁を怒鳴りつけてしまったことがあった。
それはたった一度だけのことではあったが、嫁はきっと、そのことを根に持っていたのかもしれない。
そんな嫁にも少しは気にかける心があって、正吉の施設への入居手続きを亡き妻の一周忌を済ませたあとにしたのは、せめてもの思いやりだったのだろう。
言いたいことは山ほどもあった。
それでも正吉は、自分が田嶋家から去ることで息子の家族が幸福であるのならと、黙って施設への入居を承知したのだった。
そうして半年が経ったのだが、この公園に足を伸ばすようになったのには、これといって理由があるわけではなかった。
施設の環境に慣れないとはいえ、1DKの部屋にはエアコンやバス・トイレも完備されていて、ひとりで暮らすにはじゅうぶんな広さと言えた。
栄養士の作る食事にも不満はなかったが、ただ、他の入居者たちと打ち解けられないだけに、皆が集う娯楽室やカラオケルームなどに足を向けることができず、孤独感を感じているのは事実だった。
それだけに、この公園に来るようになった理由があるとするならば、その孤独感を埋めるためのものなのかもしれなかった。
秋晴れとは、まさにこのことをいうのだろう。
穏やかな日差しが、休日の公園に降り注ぐ。
清涼な風の流れに、夏の陽光をじゅうぶんに浴びた樹々が、身にまとった紅色の衣装を少しずつ脱ぎはじめていた。
(いい日和だ……)
お日様に眼を細めて、その老人は思った。
田嶋正吉。
それがその老人の名だ。
正吉はベンチにひとり、膝を揃えて坐っている。
きれいに整えられた真っ白な髪と、額と目尻の深いしわには人生の長さが刻まれている。
この1ヶ月あまり、正午になると、雨が降らないかぎりは決まってこの公園にやってきては、園内を1時間ほど眺めて帰っていく。
もう日課のようなものだ。
その公園からさほど離れていないところにある、特別養護施設、『福寿の里』に正吉は入居している。
何の不自由もなく、施設のスタッフもやさしく接してくれるのだが、入居して半年が経ったいまでも、その環境に慣れない。
「すぐにお友だちもできますよ。気のいい人たちばかりですから」
入居の際、恰幅のある院長は、縁なしの眼鏡から覗く眼に柔和な笑みを浮かべてそう言ったが、他の入居者たちとはいまだ挨拶を交わす程度でしかない。
決して寡黙というわけではないのだが、人見知りしてしまうのが災いしているのかもしれなかった。
施設に入居することを決めたのは息子だった。
先立った妻の1周忌を済ませたある日のこと、
「いい養護施設があるんだ」
息子がそう言ったのは、もうすでに入居手続きを済ませたあとだった。
正吉には相談のひとつもなかった。
「そこはさ、福寿の里っていうんだけど、いまじゃ老人ホームのイメージもずいぶん変わって、快適なところなんだよ。部屋の中もモダンな造りで落ち着けるらしいし。父さん、新しい人生の出発だよ」
嫁の入れ知恵だということはすぐにわかった。
なんとも情けのない話だが、所帯の全権を嫁に握られている息子に、反論などできるはずもない。
いや、相談のひとつもなかったことからすれば、息子もそれを望んでいたのだろう。
「そうですよ、お義父(とう)さん。前に言っていたじゃないですか。優雅な隠居生活がしてみたいって。ここなら介護も受けられるし、それに万が一ってときのために、医療設備も整っていますから」
施設のパンフレットをテーブルの上に並べ、悪びれもなくそんなことを言う嫁に、
「介護なんて受けるほど、私の身体はやわじゃない。それに知子さん。万が一のときっていうのは、 いったい、どういうときだい」
思わず正吉はそう返していた。
「それは……」
失言に言葉をつめると、嫁はその場を繕うことなく席を立ったが、
「父さん、おとなげのないことを言うなよ」
苦笑を浮かべて言う息子の顔を見て、正吉はそれ以上は何も言う気にはなれなかった。
自分が邪魔者なのだと感じるようになったのは、いつごろからだっただろうか。
明らかにそれとわかるものが、嫁の態度に見え隠れし始めたのは、妻が逝ってしまって2ヵ月が過ぎたころだった。
妻と嫁とは馬が合ったのか、ふたりのあいだにはいつも笑いが絶えず、近所では「嫁と姑というより、まるで姉妹のようだ」などと囁かれ、妻もそれで気をよくしたのか、正吉の前でも嫁を褒め、陰口を叩くようなことはなかった。
逆に正吉のほうで嫁の悪口を言うようなものなら、「あんなにできた嫁は、他にいやしませんよ」と窘めるほどだった。
その妻がすい臓癌で入院をしたとき、嫁は家族のだれよりも看病をし、
「早くよくなって帰ってきてもらわないと。みんな待っているんですから」
と励ました。
だが、その甲斐も虚しく、入院から4ヵ月という短さで妻がもどらぬ人となったときも、嫁は声を上げて泣き、哀しんだ。
妻へのその感情は、偽りではなかったと思う。
けれども、その感情は、あくまで妻に対してだけのものであったのだと、正吉は気づかされたのだった。
それだけに正吉は、自分のことは自分でやり、できる限り、世話をかけないようにと心掛けていたつもりだった。
しかし、嫁には正吉が家の中に存在しているということ自体が我慢ならなかったとみえて、一瞥(いちべつ)して くる視線には、冷たく射す光をふくんでいた。
疎(うと)んじられる理由を考えてみれば、息子と結婚をした当時に、ほんの些細な意見のくい違いから、嫁を怒鳴りつけてしまったことがあった。
それはたった一度だけのことではあったが、嫁はきっと、そのことを根に持っていたのかもしれない。
そんな嫁にも少しは気にかける心があって、正吉の施設への入居手続きを亡き妻の一周忌を済ませたあとにしたのは、せめてもの思いやりだったのだろう。
言いたいことは山ほどもあった。
それでも正吉は、自分が田嶋家から去ることで息子の家族が幸福であるのならと、黙って施設への入居を承知したのだった。
そうして半年が経ったのだが、この公園に足を伸ばすようになったのには、これといって理由があるわけではなかった。
施設の環境に慣れないとはいえ、1DKの部屋にはエアコンやバス・トイレも完備されていて、ひとりで暮らすにはじゅうぶんな広さと言えた。
栄養士の作る食事にも不満はなかったが、ただ、他の入居者たちと打ち解けられないだけに、皆が集う娯楽室やカラオケルームなどに足を向けることができず、孤独感を感じているのは事実だった。
それだけに、この公園に来るようになった理由があるとするならば、その孤独感を埋めるためのものなのかもしれなかった。
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