蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

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【第16話】

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 紀子の嫌いな週末が、またやってこようとしていた。
 けれど今日は、彼、三浦との約束の日だ。
 ふたりで楽しむディナーの店は、もうすでに予約済みだった。
 あくまでも、その店を予約したのは三浦だ。
 仕事が終わってすぐに、紀子はその店へと向かった。
 そしてリザーブされた席に坐り、ひとり待つ。
 ときには、三浦が来るのを待つあいだ、アペリティフを嗜んだりするけれど、やっぱり、彼を待つわずかな時間に 酔いしれているのはとっても心地がいい。
 だから今日は何もオーダーをせずに、紀子は三浦を待つことにした。
 イタリアン独特のオリーブ油とガーリック、そしてチーズの香りが店内に漂っている。
 その香りが食欲を誘う。

「ねえ、正吉さん」

 口許を隠すように軽く手をやり、紀子は小声で言った。
 声に出さなければ、正吉にうまく伝わらないのだ。
 心で会話を交わそうとすると、紀子の様々な思いや、雑念めいたものがノイズのような状態になって、心の声が聴 き取りにくくなるらしい。

『はい、なんでしょう』
「私も執拗には言いたくないんだけど……」
『わかってます。あなたが彼といるあいだは、私は深層意識下に入り、そこからは出ない。そうですね』
「そう。プライバシーは、決して侵害しない。それがルールよ」
『はい。それは十分にわかっています。なにせ私は、居候の身も同じですから』
「またそんな。卑屈にならないの」
『――――』

 深層意識下とは、紀子の深層意識のさらに下にあって、彼女の意識から離れた、言うなれば「無」の部分だ。
 紀子の中から出ていこうと試みているときに、正吉が見つけのだ。
 そこはまさに「無」というに相応しく、すべてから遮断されていて、紀子の声も届かず、物音ひとつしないところらしい。

「正吉さん?」
『――――』

 正吉の返事はない。

(どうやら、深層意識下とやらに行ってくれたようね。できれば、ずっとそこにいてほしいものだわ……)

 紀子がそんなことを思っていると、三浦が姿を現した。

「やあ、待たせたね」

 と、三浦は口許に白い歯を覗かせて、紀子の向かいに腰を下ろした。
 とは言っても、紀子が来てから15分と経ってない。
 けれど紀子は、

「ええ。10日も待ちました」

 皮肉っぽくそう返した。

「そう言うなよ。俺たち、もう3年だろ? 簡単に会えないのは、君もわかっていることじゃないか」
「そうね。確かにつき合ってから丸3年。最初の1年は、週に2度から3度は会っていたのに、2年目は週に1度か2度。そして3年目は、月に2度か多くて3度。3年が経つっていうのは、そういうことなのよね」

 紀子は笑みを浮かべ、今度は皮肉たっぷりに言った。
 三浦は一瞬言葉につまり、

「だけど、会社では毎日顔を合わせているじゃないか」

 そう返す。その言葉に紀子はカチンときて、

「仕事とプライベートを一緒にしないで。会社では、あなたは上司で私は部下よ。それに毎日じゃないわ。土、日は別よ」

 土、日を強調して言った。

「それはわかってるけど……、だから、悪いと思ってるよ」

 三浦のしょげた顔を紀子は見つめる。
 これだ。
 この顔が曲者なのだ。
 肩を落とし、しゅんとした子供のような顔を見ると、紀子は胸がキュンとしてしまう。
 だから、どんなに許せないことがあっても、結局は許してしまうのだ。

「わかったわよ。もういいわ。さあ、注文しましょう。私、お腹ぺこぺこ」

 機嫌を直した紀子を見て、三浦は救われたという顔でウエイターを呼んだ。
 まずは白ワインのシャブリのボトルをオーダーした。
 白ワインはすぐに運ばれてきて、ふたりは乾杯をする。

「うん、美味しい。空きっ腹に、クーってくるわね」

 それを聞いて、三浦が軽く笑う。

「ずっと思っていたことだけど、君ってそういうこと、平気で言えるんだよな」
「いけない?」
「いけなくはないよ。俺は、君のそういうところ好きだし」
「奥さんは言わないんだ」
「女房の話はいいだろう。いまは君と食事をしてる」
「そうね。じゃあ、別のことを訊くわ」
「いいよ」
「私って、変?」

 そう訊かれて、三浦は口に運ぼうとしたワイングラスを、宙で止めた。

「なに、それ」
「別に他意はないわ」
「だけど、とつぜん、『私って変?』って訊かれて、どう答えればいいんだ?」
「どうとでも。思っているまま答えればいいのよ。たとえば、『俺の奥さんは、食事をしていて下品な言葉は使わないけど、君って場所もわきまえずに下品なことが言えるんだな。それって、変じゃないか?』って」
「ちょっと待てよ。俺がいつ、君が下品な言葉を使ったなんて言った?」
「たったいま、言ったばかりじゃない」
「勘違いするなよ。いまのは、いい意味で言ったんだ。君が素直に、そのときの思いを飾らずに口にしたから。俺は君のその飾らないところが、ずっと好きなんだよ」
「だったら、どうしていままでなにも言わなかったのよ。そういうところが好きだって」
「そんなこと、わざわざ口に出すことじゃないよ」
「わざわざ口に出して言ってよ」
「そう言われたって……」

 三浦は言葉に詰まった。

「そんなに、私のことを好きだってことを口にするのが嫌なんだ」
「いや、そんなことはないさ」
「そう。だったら、私、きれい?」

 紀子は、追いこむかのように訊いた。

「おい、なんだよ、急に」

 三浦はワインをひと息に喉へと流し込み、ワイングラスに継ぎ足した。
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