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【第20話】
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「へー、小さいけど、落ち着ける店じゃない。よく来るの?」
座敷に通され、紀子は席に腰を下ろして言った。
「そうですね。月になんどかは。実はこの店、母親が前に働いていたんですよ。住んでいたところも、この近くで」
ふたりが入った店は、雑居ビルの一階にある、こぢんまりとした居酒屋だった。
連れていきたい店があると谷口が言い出し、タクシーに乗ってきたのだ。
場所は新宿西口の外れになる。
そこは豚の串焼きを主に出している店だった。
「父親が死んで、僕が大学に入るまで、母親は勤めの他に、夜はここでバイトをしてたんです。だから僕は、週に何日かは、ここで夕飯を食べさせてもらってました」
「谷口くんて、兄弟は?」
「いません」
「そう。お母さんは苦労したんでしょうね」
「ええ。母親には、頭が上がりません」
「親孝行しないと、ばちが当たるわよ。一生面倒をみるのが当然なんだから」
紀子はそう言ったあとで、なにやら、親戚のおばさんが言うようなことを口にしている自分に気づいた。
「なんか、説教じみたこと言っちゃったわね」
「いえ、そんなことはないです。僕もそのつもりでいますから」
「偉い。男はそうでなくちゃね。ところで、お店の人のこと、みんな知ってるの?」
「いや、いまは大将だけです。前は女将さんもいたけど、身体をこわして出ていませんから。いま働いてるあの女の人は、最近入ったばかりのバイトの人だと思います」
そのとき、先に注文しておいた生ビールがきて、谷口は料理を何品か注文し、ふたりは乾杯をした。
「クー、生ビールは効くなァ」
そう言った紀子は、自分のその言動にハッとした。
三浦とのことを思い出したのだ。
彼との口論の始まりは、ワインを飲んだときの紀子の第一声からだった。
紀子はつい、思ったことや感じたことを、そのまま口にしてしまうところがある。
紀子自身もそれがわかっているから、そのときに言った三浦の言葉に、少し引っかかるものを感じた。
だがそれは、素直にそのときの思いを飾らずに言える、紀子のそういうところが好きなのだという意味で三浦は言ったのだった。
それがほんとうなら、うれしくないわけではない。
事実、そのとき紀子は、少し調子づいた。
それでも紀子は、3年もの交際をつづけてきながら、そのことを一度も口にして言ってくれなかったことが不満でならなかった。
それ以前に、紀子に対する気持ちを三浦は言葉にしたことがない。
それだけに、溜まりに溜まったうっぷんもあって、口論にまで発展してしまったのだった。
紀子はジョッキを置き、ふとため息をこぼした。
「来たばかりなのに、ため息ですか」
谷口は、そんな紀子を見逃さない。
「あ、ごめん。ちょっとね。変なことを思い出しちゃって」
「幕切れの早い、デートのことでしょ」
的を突かれて、紀子は肩を落とす。
「先輩でも、落ちこむんだ」
「あたり前よ。悪い?」
「そんなことはないですよ。だれだって、落ちこむことはあるんですから。人は落ちこんで成長するんです」
「ずいぶん、大人ぶったこと言うじゃない」
「大人ですから」
「よく言うわ」
いつもの紀子ならここで茶化すようなことを言うのだが、いまはそんな気にもなれない。
ふと沈黙が落ちる。
それがさらに心を沈ませる。
(あー、もう! これじゃ、テンションが下がる一方じゃない。うじうじしてたって、いいことなんてないのよ。こういうときは、徹底的に飲むのがいちばんよ)
紀子はジョッキを手にすると、喉を鳴らしながらひと息に飲み干した。
その飲みっぷりに、谷口も負けじとジョッキを空けた。
「やるじゃない」
紀子が言う。
「女の人には負けられませんよ」
谷口は口を拭って答える。
「谷口くんて、女には負けたくないタイプなんだ」
「そりゃ、そうですよ。女の人に負けたら、男がすたります」
「まだ若いわね。女に華を持たせるのも、男の器量よ」
「それは、女の人にもよりますよ」
「あら、言うじゃない。だったら、今夜は飲むわよ。ついてこれる?」
「望むところです」
ふたりは二杯目も生ビールを頼み、それもすぐに空けて、焼酎をボトルでもらった。
それを梅干とソーダで割って飲む。
そのころには、注文しておいた料理がテーブルに並んだ。
紀子は、まず豚串に手を出した。
座敷に通され、紀子は席に腰を下ろして言った。
「そうですね。月になんどかは。実はこの店、母親が前に働いていたんですよ。住んでいたところも、この近くで」
ふたりが入った店は、雑居ビルの一階にある、こぢんまりとした居酒屋だった。
連れていきたい店があると谷口が言い出し、タクシーに乗ってきたのだ。
場所は新宿西口の外れになる。
そこは豚の串焼きを主に出している店だった。
「父親が死んで、僕が大学に入るまで、母親は勤めの他に、夜はここでバイトをしてたんです。だから僕は、週に何日かは、ここで夕飯を食べさせてもらってました」
「谷口くんて、兄弟は?」
「いません」
「そう。お母さんは苦労したんでしょうね」
「ええ。母親には、頭が上がりません」
「親孝行しないと、ばちが当たるわよ。一生面倒をみるのが当然なんだから」
紀子はそう言ったあとで、なにやら、親戚のおばさんが言うようなことを口にしている自分に気づいた。
「なんか、説教じみたこと言っちゃったわね」
「いえ、そんなことはないです。僕もそのつもりでいますから」
「偉い。男はそうでなくちゃね。ところで、お店の人のこと、みんな知ってるの?」
「いや、いまは大将だけです。前は女将さんもいたけど、身体をこわして出ていませんから。いま働いてるあの女の人は、最近入ったばかりのバイトの人だと思います」
そのとき、先に注文しておいた生ビールがきて、谷口は料理を何品か注文し、ふたりは乾杯をした。
「クー、生ビールは効くなァ」
そう言った紀子は、自分のその言動にハッとした。
三浦とのことを思い出したのだ。
彼との口論の始まりは、ワインを飲んだときの紀子の第一声からだった。
紀子はつい、思ったことや感じたことを、そのまま口にしてしまうところがある。
紀子自身もそれがわかっているから、そのときに言った三浦の言葉に、少し引っかかるものを感じた。
だがそれは、素直にそのときの思いを飾らずに言える、紀子のそういうところが好きなのだという意味で三浦は言ったのだった。
それがほんとうなら、うれしくないわけではない。
事実、そのとき紀子は、少し調子づいた。
それでも紀子は、3年もの交際をつづけてきながら、そのことを一度も口にして言ってくれなかったことが不満でならなかった。
それ以前に、紀子に対する気持ちを三浦は言葉にしたことがない。
それだけに、溜まりに溜まったうっぷんもあって、口論にまで発展してしまったのだった。
紀子はジョッキを置き、ふとため息をこぼした。
「来たばかりなのに、ため息ですか」
谷口は、そんな紀子を見逃さない。
「あ、ごめん。ちょっとね。変なことを思い出しちゃって」
「幕切れの早い、デートのことでしょ」
的を突かれて、紀子は肩を落とす。
「先輩でも、落ちこむんだ」
「あたり前よ。悪い?」
「そんなことはないですよ。だれだって、落ちこむことはあるんですから。人は落ちこんで成長するんです」
「ずいぶん、大人ぶったこと言うじゃない」
「大人ですから」
「よく言うわ」
いつもの紀子ならここで茶化すようなことを言うのだが、いまはそんな気にもなれない。
ふと沈黙が落ちる。
それがさらに心を沈ませる。
(あー、もう! これじゃ、テンションが下がる一方じゃない。うじうじしてたって、いいことなんてないのよ。こういうときは、徹底的に飲むのがいちばんよ)
紀子はジョッキを手にすると、喉を鳴らしながらひと息に飲み干した。
その飲みっぷりに、谷口も負けじとジョッキを空けた。
「やるじゃない」
紀子が言う。
「女の人には負けられませんよ」
谷口は口を拭って答える。
「谷口くんて、女には負けたくないタイプなんだ」
「そりゃ、そうですよ。女の人に負けたら、男がすたります」
「まだ若いわね。女に華を持たせるのも、男の器量よ」
「それは、女の人にもよりますよ」
「あら、言うじゃない。だったら、今夜は飲むわよ。ついてこれる?」
「望むところです」
ふたりは二杯目も生ビールを頼み、それもすぐに空けて、焼酎をボトルでもらった。
それを梅干とソーダで割って飲む。
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紀子は、まず豚串に手を出した。
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