蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

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【第25話】

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(どうせなら、永遠に意識が消えてくれればいいのに)

 それがいまの紀子の、唯一の願いでもあった。

「もう一度言うけど、よけいなことは話しかけないでよ」

 トイレを出たところで、紀子は言った。

『はい、わかっていますよ。口にチャックですね』
「正吉さんには口もないでしょ。それなのに話しかけてくるんだから、困ったものよ」
『それにしても、紀子さん』
「なによ」
『彼は若い。どう見ても、あなたより年下だ』
「彼は、彼じゃないの」
『ハ?』
「だから、彼は私の彼氏じゃないってことよ」
『それはまた、どういうことでしょう』
「だから、そういうことなの」
『そうですか。すると彼は、この先あなたと……』
「え? なに。彼が私と、なんなの?」
『いえいえ、いまのは私の独り言です』
「気になるわね」
『いえ、ほんとうになんでもありませんから、気になさらずに』
「そう、だったら会話はここで終わりよ」

 正吉との会話を打ち切り、紀子が席にもどると、なにか神妙な顔つきで、谷口はテーブルの一転を見つめていた。

「どうかしたの?」

 思わず紀子が訊く。

「え? ああ。いや、別になにも」
「なにもないって、顔じゃなかったわよ」
「たいしたことではない、って言っても、どうせ先輩は、問いただすんでしょうね」
「ご明察」
「ですよね」

 そこで谷口は、ひとつ息を吐き、

「さっき僕は、あなたの素顔を見ました。それって、僕にはとてもうれしいことなんです」

 そう言った。

「どうして?」
「だって、僕の前で、素顔を見せてくれたんですよ。そういうのって、ふつう気を許せる人にしか見せないでしょ? だから僕は、それがうれしくて。でも、すぐに気づいたんです。先輩がほんとうに気を許せるのは僕じゃなくて、他にいるんだってことを……」
「なにそれ。そんなことを考えながら、神妙な顔をしてたわけ。可笑しい」
「可笑しいって、ひどいな……」
「だって、そうでしょう。私には彼がいるんだから、あなたが思ったことは、しかたのないことじゃない。あなたは、私に彼がいることを承知しているんだから、そんなことは、男ならぐっと呑みこんじゃいなさいよ。それにね、私は彼に、素顔を見せたことなんてないの。わかった?」
「え、それって、どういう……」
「どうもヘチマもないの。よけいなことは考えない。さあ、そろそろ帰りましょ」

 そう言うと、紀子は席を立った。
 谷口も慌てて席を立つ。
 しっかり半分ずつで会計を済ませて、紀子は大将にボトルの礼を言い、ふたりは店を出た。

「僕が誘ったんですから、奢らせてくださいよ」

 谷口はお金を渡そうとする。

「生意気なこと言わないの」

 紀子は受け取ろうとしない。

「でも、僕の気がすみませんよ」

 谷口も引かない。

「だったら、そのお金で、お母さんに美味しいものでも食べさせてあげなさいよ」
 そう言われてしまうと、谷口も何も返せなくなり、渋々ながらお金を引っこめた。

「今日はありがとう」

 紀子は手を差し出す。

「そんな、感謝するのは僕のほうですよ」

 差し出された手に、谷口は応えた。
 そこへタイミングよく、タクシーが走ってきて、紀子は手を挙げた。

「谷口くん、中野よね。私、杉並だから、一緒に乗っていく?」
「いえ、僕はもう少し、大将と話していきます」
「そう、わかったわ。じゃ、さよなら」
「あ、はい。さよなら……」

 谷口は少し寂しい顔で、笑みを浮かべる。
 その表情に、紀子は去り難い気持ちになってしまう。

 キュン!
 
 胸が鳴った。

(やばい)

 そう思ったときには、紀子は谷口に口づけをしていた。
 まさに唇に。
 紀子の唇が触れた瞬間、谷口は眼を見開き、固まってしまった。
 そのほんのわずかな瞬間が、谷口にとっては最高のひとときだった。

「今日のお礼よ。それ以上の意味はないからね」

 唇を離すと紀子はそう言い、タクシーに乗りこんだ。
 谷口はぽかんと口を開け、固まったまま立ち尽くしている。
 紀子がウインドウを下ろし、

「気が向いたら、また誘いに乗ってあげるわ」

 そう言葉を残すと、タクシーは走り出した。
 そこで我に返った谷口は、走り去るタクシーに叫んだ。
「僕は、いいヤツを演じることはできるけど、お人好しになるつもりはありませんから!」

 その声は過ぎ去っていく紀子には届かず、夜の街に虚しくこだましただけだった。
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