25 / 74
【第25話】
しおりを挟む
(どうせなら、永遠に意識が消えてくれればいいのに)
それがいまの紀子の、唯一の願いでもあった。
「もう一度言うけど、よけいなことは話しかけないでよ」
トイレを出たところで、紀子は言った。
『はい、わかっていますよ。口にチャックですね』
「正吉さんには口もないでしょ。それなのに話しかけてくるんだから、困ったものよ」
『それにしても、紀子さん』
「なによ」
『彼は若い。どう見ても、あなたより年下だ』
「彼は、彼じゃないの」
『ハ?』
「だから、彼は私の彼氏じゃないってことよ」
『それはまた、どういうことでしょう』
「だから、そういうことなの」
『そうですか。すると彼は、この先あなたと……』
「え? なに。彼が私と、なんなの?」
『いえいえ、いまのは私の独り言です』
「気になるわね」
『いえ、ほんとうになんでもありませんから、気になさらずに』
「そう、だったら会話はここで終わりよ」
正吉との会話を打ち切り、紀子が席にもどると、なにか神妙な顔つきで、谷口はテーブルの一転を見つめていた。
「どうかしたの?」
思わず紀子が訊く。
「え? ああ。いや、別になにも」
「なにもないって、顔じゃなかったわよ」
「たいしたことではない、って言っても、どうせ先輩は、問いただすんでしょうね」
「ご明察」
「ですよね」
そこで谷口は、ひとつ息を吐き、
「さっき僕は、あなたの素顔を見ました。それって、僕にはとてもうれしいことなんです」
そう言った。
「どうして?」
「だって、僕の前で、素顔を見せてくれたんですよ。そういうのって、ふつう気を許せる人にしか見せないでしょ? だから僕は、それがうれしくて。でも、すぐに気づいたんです。先輩がほんとうに気を許せるのは僕じゃなくて、他にいるんだってことを……」
「なにそれ。そんなことを考えながら、神妙な顔をしてたわけ。可笑しい」
「可笑しいって、ひどいな……」
「だって、そうでしょう。私には彼がいるんだから、あなたが思ったことは、しかたのないことじゃない。あなたは、私に彼がいることを承知しているんだから、そんなことは、男ならぐっと呑みこんじゃいなさいよ。それにね、私は彼に、素顔を見せたことなんてないの。わかった?」
「え、それって、どういう……」
「どうもヘチマもないの。よけいなことは考えない。さあ、そろそろ帰りましょ」
そう言うと、紀子は席を立った。
谷口も慌てて席を立つ。
しっかり半分ずつで会計を済ませて、紀子は大将にボトルの礼を言い、ふたりは店を出た。
「僕が誘ったんですから、奢らせてくださいよ」
谷口はお金を渡そうとする。
「生意気なこと言わないの」
紀子は受け取ろうとしない。
「でも、僕の気がすみませんよ」
谷口も引かない。
「だったら、そのお金で、お母さんに美味しいものでも食べさせてあげなさいよ」
そう言われてしまうと、谷口も何も返せなくなり、渋々ながらお金を引っこめた。
「今日はありがとう」
紀子は手を差し出す。
「そんな、感謝するのは僕のほうですよ」
差し出された手に、谷口は応えた。
そこへタイミングよく、タクシーが走ってきて、紀子は手を挙げた。
「谷口くん、中野よね。私、杉並だから、一緒に乗っていく?」
「いえ、僕はもう少し、大将と話していきます」
「そう、わかったわ。じゃ、さよなら」
「あ、はい。さよなら……」
谷口は少し寂しい顔で、笑みを浮かべる。
その表情に、紀子は去り難い気持ちになってしまう。
キュン!
胸が鳴った。
(やばい)
そう思ったときには、紀子は谷口に口づけをしていた。
まさに唇に。
紀子の唇が触れた瞬間、谷口は眼を見開き、固まってしまった。
そのほんのわずかな瞬間が、谷口にとっては最高のひとときだった。
「今日のお礼よ。それ以上の意味はないからね」
唇を離すと紀子はそう言い、タクシーに乗りこんだ。
谷口はぽかんと口を開け、固まったまま立ち尽くしている。
紀子がウインドウを下ろし、
「気が向いたら、また誘いに乗ってあげるわ」
そう言葉を残すと、タクシーは走り出した。
そこで我に返った谷口は、走り去るタクシーに叫んだ。
「僕は、いいヤツを演じることはできるけど、お人好しになるつもりはありませんから!」
その声は過ぎ去っていく紀子には届かず、夜の街に虚しくこだましただけだった。
それがいまの紀子の、唯一の願いでもあった。
「もう一度言うけど、よけいなことは話しかけないでよ」
トイレを出たところで、紀子は言った。
『はい、わかっていますよ。口にチャックですね』
「正吉さんには口もないでしょ。それなのに話しかけてくるんだから、困ったものよ」
『それにしても、紀子さん』
「なによ」
『彼は若い。どう見ても、あなたより年下だ』
「彼は、彼じゃないの」
『ハ?』
「だから、彼は私の彼氏じゃないってことよ」
『それはまた、どういうことでしょう』
「だから、そういうことなの」
『そうですか。すると彼は、この先あなたと……』
「え? なに。彼が私と、なんなの?」
『いえいえ、いまのは私の独り言です』
「気になるわね」
『いえ、ほんとうになんでもありませんから、気になさらずに』
「そう、だったら会話はここで終わりよ」
正吉との会話を打ち切り、紀子が席にもどると、なにか神妙な顔つきで、谷口はテーブルの一転を見つめていた。
「どうかしたの?」
思わず紀子が訊く。
「え? ああ。いや、別になにも」
「なにもないって、顔じゃなかったわよ」
「たいしたことではない、って言っても、どうせ先輩は、問いただすんでしょうね」
「ご明察」
「ですよね」
そこで谷口は、ひとつ息を吐き、
「さっき僕は、あなたの素顔を見ました。それって、僕にはとてもうれしいことなんです」
そう言った。
「どうして?」
「だって、僕の前で、素顔を見せてくれたんですよ。そういうのって、ふつう気を許せる人にしか見せないでしょ? だから僕は、それがうれしくて。でも、すぐに気づいたんです。先輩がほんとうに気を許せるのは僕じゃなくて、他にいるんだってことを……」
「なにそれ。そんなことを考えながら、神妙な顔をしてたわけ。可笑しい」
「可笑しいって、ひどいな……」
「だって、そうでしょう。私には彼がいるんだから、あなたが思ったことは、しかたのないことじゃない。あなたは、私に彼がいることを承知しているんだから、そんなことは、男ならぐっと呑みこんじゃいなさいよ。それにね、私は彼に、素顔を見せたことなんてないの。わかった?」
「え、それって、どういう……」
「どうもヘチマもないの。よけいなことは考えない。さあ、そろそろ帰りましょ」
そう言うと、紀子は席を立った。
谷口も慌てて席を立つ。
しっかり半分ずつで会計を済ませて、紀子は大将にボトルの礼を言い、ふたりは店を出た。
「僕が誘ったんですから、奢らせてくださいよ」
谷口はお金を渡そうとする。
「生意気なこと言わないの」
紀子は受け取ろうとしない。
「でも、僕の気がすみませんよ」
谷口も引かない。
「だったら、そのお金で、お母さんに美味しいものでも食べさせてあげなさいよ」
そう言われてしまうと、谷口も何も返せなくなり、渋々ながらお金を引っこめた。
「今日はありがとう」
紀子は手を差し出す。
「そんな、感謝するのは僕のほうですよ」
差し出された手に、谷口は応えた。
そこへタイミングよく、タクシーが走ってきて、紀子は手を挙げた。
「谷口くん、中野よね。私、杉並だから、一緒に乗っていく?」
「いえ、僕はもう少し、大将と話していきます」
「そう、わかったわ。じゃ、さよなら」
「あ、はい。さよなら……」
谷口は少し寂しい顔で、笑みを浮かべる。
その表情に、紀子は去り難い気持ちになってしまう。
キュン!
胸が鳴った。
(やばい)
そう思ったときには、紀子は谷口に口づけをしていた。
まさに唇に。
紀子の唇が触れた瞬間、谷口は眼を見開き、固まってしまった。
そのほんのわずかな瞬間が、谷口にとっては最高のひとときだった。
「今日のお礼よ。それ以上の意味はないからね」
唇を離すと紀子はそう言い、タクシーに乗りこんだ。
谷口はぽかんと口を開け、固まったまま立ち尽くしている。
紀子がウインドウを下ろし、
「気が向いたら、また誘いに乗ってあげるわ」
そう言葉を残すと、タクシーは走り出した。
そこで我に返った谷口は、走り去るタクシーに叫んだ。
「僕は、いいヤツを演じることはできるけど、お人好しになるつもりはありませんから!」
その声は過ぎ去っていく紀子には届かず、夜の街に虚しくこだましただけだった。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる