蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

文字の大きさ
33 / 74

【第33話】

しおりを挟む
『私にも、なにがなんだか……』

 正吉のその言葉に、

「だって、感覚とかはないはずじゃない」

 紀子がそう言った。

『いままでは、確かにそうだったのですが。いったい、どういうことでしょう』
「それは、こっちが訊きたいわよ」
「どうしたのよ。そんな恐い顔をして」

 カオルが割り込む。

「正吉さんが、痛みを感じたって」
「なに言ってるのよ。だれだって叩かれたら痛いわよ。アンタだって、大袈裟に痛がってたじゃないの」
「正吉さんは死んでいるのよ」
「あ、そうか。死人は痛みを感じない。でも、正吉さんは、紀ちゃんの中で存在しているのよね。だったら、痛みも感じるんじゃないの?」
「どうやって?」
「そんなの、アタシにわかるわけがないじゃないの。だけど、どうしてそんなことを気にするのよ」
「気にするとかしないのレベルじゃないわ。私の感覚を正吉さんが感じるということは、この身体を共有しはじめているってことじゃない」
「だから?」
「だから? じゃないわよ。あのね、この身体は私のものなのよ。それを、他の人間と共有するなんて、絶対に、嫌よ」
「けど、どうすることもできないじゃないの。正吉さんが紀ちゃんの中から出ていかないかぎりは」
「そんなことはわかってる。わかってるけど、とにかく嫌よ。もう、お願いだから私の中から出ていってッ!」

 紀子は取り乱したようにかぶりをふった。

「紀ちゃん、少し落ち着いて。ね。落ち着けば、いい考えも浮かぶわよ」

 カオルはなんとか落ち着かせようと、紀子をなぐさめる。

「いったい、どんな考えが浮かぶっていうの。他人事だと思って簡単に言わないでよね。さっきの話じゃないけど、このままじゃほんとに、正吉さんに身体を乗っ取られかねないんだから」

 紀子は頭を抱えた。

『あの、紀子さん。先ほども言いましたが、私はあなたを乗っ取るようなことはしませんよ。だから、どうか心配なさらずに』

 正吉はおどおどと、なんとかそう言った。

「あーもう。正吉さんも正吉さんで、どうしてそう鈍いのよ。たとえあなたが私の身体を乗っ取らないとしても、男だったあなたに身体を共有されるってことが、女にとってどういうことなのかわからないの!」

 吐き棄てるように言うと、紀子はうなだれた。

『――――』

 紀子の悲痛を思うと、正吉は返す言葉がなかった。
 紀子が言わんとしていることがよくわかった。
 それにいままで気づいていながら、正吉は気づいていないふりをしていた。
 彼女が女性であり、自分が男であったということを。
 いや、気づいていないふりをしていたわけでもない。
 自分はもう死んだ人間なのだから男でも女でもない、そう安易に考えていただけだった。
 ましてや紀子は、上の孫娘とさほど変わらない年齢でもあり、世を去ったときの歳を考えてみても、男だった自分を意識したり、彼女を女だと意識することなど論外だった。
 それに正吉は、意識だけの存在だと言っていい。
 男だ女だなどと考えるのは、それ以前の問題だった。
 とはいえ、できるかぎりプライバシーの侵害になることは避けてきた。
 深層意識下に入るのをやめたのも、紀子の過去や未来を覗きたくなかったからだ。
 そしていつも、紀子の邪魔になるようなことはないようにと心がけていた。
 それでうまくやってこれたはずだった。
 紀子も満更ではないのだと、そう思っていた。
 だが、それは違ったのだ。
 正吉の考えや思いは、自分勝手な思いこみにすぎなかった。
 それもそうだと、正吉は思う。
 公園で出会うまで、紀子にとって正吉は、まったく見ず知らずの老人だった。
 別れた間際にその老人が倒れ、そして死を看取ることとなり、その挙句に身体の中に入りこまれたのだ。
 どう考えても、尋常ではない超常的な出来事である。
 とても簡単には、受け入れられるものではないはずだ。
 それを紀子は持ち前の明るさと聡明さで受け入れたのだ。
 こともなげに、あれだけ明るく振舞っていた内情には、やはり受け入れがたい思いがあったに違いない。
 そうとも知らず正吉は、紀子の生活に溶けこんでいることに満足感さえ覚え、彼女から出ていこうという気も薄れていったのだ。
 紀子とうまくやっていくことばかり考え、彼女の女としてのナイーブな感情を無視していた。
 なんと無神経なことだろうか。
 その無神経さが、正吉は自分ながらに恥ずかしかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

私がガチなのは内緒である

ありきた
青春
愛の強さなら誰にも負けない桜野真菜と、明るく陽気な此木萌恵。寝食を共にする幼なじみの2人による、日常系百合ラブコメです。

✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちだというのに。 入社して配属一日目。 直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。 中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。 彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。 それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。 「俺が、悪いのか」 人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。 けれど。 「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」 あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちなのに。 星谷桐子 22歳 システム開発会社営業事務 中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手 自分の非はちゃんと認める子 頑張り屋さん × 京塚大介 32歳 システム開発会社営業事務 主任 ツンツンあたまで目つき悪い 態度もでかくて人に恐怖を与えがち 5歳の娘にデレデレな愛妻家 いまでも亡くなった妻を愛している 私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?

処理中です...