44 / 74
【第44話】
しおりを挟む
「まァ、いいわ。正吉さんからすれば、私を想ってのことですものね。だけど、もう二度としないでよね」
紀子のその声は、ことのほかやさしかった。
『…………』
正吉は、またも言葉がなかった。
だが今度は、紀子のそのやさしい声に、正吉は戸惑ってしまったのだ。
拍子抜けの感さえある。
ほんとうならここで、「私と彼のことは、あなたに関係のないことでしょ!」とカミナリが落ちるところだろう。
それなのに、いまの紀子は穏やかな表情をしている。
『許してくれるのですか』
腑に落ちない心持ちで、正吉は訊いた。
「もう済んだことよ。それに、彼のことはもういいの」
『そうですか……』
彼のことはもういい、というのは気になるところだが、正吉は問いたださなかった。
ここは執拗になるべきではない。
「それより、私をお母さんと、どうしてそんなに会わせたいの?」
紀子は話をもとにもどした。
『それは、紀子さんが望んでいるからですよ。あなたに初めて会ったとき、ほんの少し、お母さんの話が出たでしょう。そのとき感じたのです。ああ、この人は、母親に会いたがっているんだなと』
紀子は黙って聞く。
『それきりあなたは、お母さんの話はせずに、お父さんのことをよく話してくれました。ですが、そういうあなたを見ているとなおさらのこと、母親に会いたがっているのだということがわかったのです。どうなんです? 紀子さん。違いますか?』
そう問われても、紀子は黙ったままでいた。
唇が震えている。
みるみるその瞳に涙が溢れ、頬へと伝い落ちていく。
『紀子さん……』
それ以上の言葉を、正吉は失った。
眉根を寄せ、堪えるように泣く紀子を美しいと思った。
言葉を失うのは当然のことだった。
身体があるなら抱きしめたいほどだった。
「これでなんど目? 私を泣かせたの」
涙の中で紀子が笑う。
その顔がまた美しくて、正吉はただただ紀子を見つめているばかりだった。
そして日曜日の今日――
以前に教えられていた住所を頼りに、紀子は母のもとへと向かっていた。
母に会うのは、もうどれくらいぶりになるのだろうか。
紀子が中学3年のときに母が家を出ていって以来だから、かれこれ12年ぶりということになる。
それまで、一度として母に会いに行こうとはしなかったが、教えられた住所のメモを、紀子はずっと持っていた。
大切な宝物でもあるかのように。
もし、その住所のメモを失くしていたら、電話番号を知らされていなかっただけに、母に会いに来ることなどできなかっただろう。
紀子が母に会うことを承諾、いや、決心したのは、何も正吉がそうするようにと迫ったからだけではない。
確かにそれはじゅうぶんなきっかけにはなったのだが、やはり紀子自身に、母に会いたいと思う気持ちが強くあったからに他ならない。
その日は、あいにく朝から雨が降っていて、母との再会を決意した紀子の心を暗鬱とさせた。
それでも、一度決めたことを曲げることのない紀子は、気持ちを切り替えようと努めた。
そんな紀子の気も知らず、
『さあ、感動となる再会の日が訪れました。今日は私にとっても、忘れられない一日となるでしょう』
朝からハイテンションな正吉に、辟易とさせられた。
とはいえ、正吉には朝も夜もないのだろうけれど。
母の住む住所に近づくにつれ、紀子の足取りは重くなった。
降る雨が、先に行くのを阻んでいるようにも思えてくる。
そんなとき、
『なにも心配はありません。お母さんはあなたを待っています』
そう声をかけてくれる正吉が、心強かった。
住所を確かめながら、細い路地を右へ左と曲がるうちに、メモに記されているアパートが見つかった。
紀子のその声は、ことのほかやさしかった。
『…………』
正吉は、またも言葉がなかった。
だが今度は、紀子のそのやさしい声に、正吉は戸惑ってしまったのだ。
拍子抜けの感さえある。
ほんとうならここで、「私と彼のことは、あなたに関係のないことでしょ!」とカミナリが落ちるところだろう。
それなのに、いまの紀子は穏やかな表情をしている。
『許してくれるのですか』
腑に落ちない心持ちで、正吉は訊いた。
「もう済んだことよ。それに、彼のことはもういいの」
『そうですか……』
彼のことはもういい、というのは気になるところだが、正吉は問いたださなかった。
ここは執拗になるべきではない。
「それより、私をお母さんと、どうしてそんなに会わせたいの?」
紀子は話をもとにもどした。
『それは、紀子さんが望んでいるからですよ。あなたに初めて会ったとき、ほんの少し、お母さんの話が出たでしょう。そのとき感じたのです。ああ、この人は、母親に会いたがっているんだなと』
紀子は黙って聞く。
『それきりあなたは、お母さんの話はせずに、お父さんのことをよく話してくれました。ですが、そういうあなたを見ているとなおさらのこと、母親に会いたがっているのだということがわかったのです。どうなんです? 紀子さん。違いますか?』
そう問われても、紀子は黙ったままでいた。
唇が震えている。
みるみるその瞳に涙が溢れ、頬へと伝い落ちていく。
『紀子さん……』
それ以上の言葉を、正吉は失った。
眉根を寄せ、堪えるように泣く紀子を美しいと思った。
言葉を失うのは当然のことだった。
身体があるなら抱きしめたいほどだった。
「これでなんど目? 私を泣かせたの」
涙の中で紀子が笑う。
その顔がまた美しくて、正吉はただただ紀子を見つめているばかりだった。
そして日曜日の今日――
以前に教えられていた住所を頼りに、紀子は母のもとへと向かっていた。
母に会うのは、もうどれくらいぶりになるのだろうか。
紀子が中学3年のときに母が家を出ていって以来だから、かれこれ12年ぶりということになる。
それまで、一度として母に会いに行こうとはしなかったが、教えられた住所のメモを、紀子はずっと持っていた。
大切な宝物でもあるかのように。
もし、その住所のメモを失くしていたら、電話番号を知らされていなかっただけに、母に会いに来ることなどできなかっただろう。
紀子が母に会うことを承諾、いや、決心したのは、何も正吉がそうするようにと迫ったからだけではない。
確かにそれはじゅうぶんなきっかけにはなったのだが、やはり紀子自身に、母に会いたいと思う気持ちが強くあったからに他ならない。
その日は、あいにく朝から雨が降っていて、母との再会を決意した紀子の心を暗鬱とさせた。
それでも、一度決めたことを曲げることのない紀子は、気持ちを切り替えようと努めた。
そんな紀子の気も知らず、
『さあ、感動となる再会の日が訪れました。今日は私にとっても、忘れられない一日となるでしょう』
朝からハイテンションな正吉に、辟易とさせられた。
とはいえ、正吉には朝も夜もないのだろうけれど。
母の住む住所に近づくにつれ、紀子の足取りは重くなった。
降る雨が、先に行くのを阻んでいるようにも思えてくる。
そんなとき、
『なにも心配はありません。お母さんはあなたを待っています』
そう声をかけてくれる正吉が、心強かった。
住所を確かめながら、細い路地を右へ左と曲がるうちに、メモに記されているアパートが見つかった。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる