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【第45話】
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古いたたずまいの建物は、雨の中に煙っていた。
母の住まいは1階の102号室だ。
アパートの前は駐車場になっていて、紀子は建物の外観を眺めるように佇んだ。
考えてみれば、その住所は12年前に教えられたものだ。いまもそこに住んでいるのかはわからない。
もうすでに引っ越したあとかもしれない。
紀子は二の足を踏んだ。そんな紀子を察して、
『大丈夫。お母さんはすぐそこです。あとはもう一歩を踏み出すだけです』
正吉があと押しをする。
その言葉に紀子は意を決して、アパートへと歩みを進めた。
102号室。
右から2番目の部屋だ。
部屋の前に立ち、表札を見ると、「野上正信」という名の下に、「久子」とあった。それは母の名だ。
鼓動が激しく紀子の胸を打った。
呼び鈴を鳴らそうと伸ばした指先が、その手前で止まる。
ためらうその指先が、それまでの母への想いを物語っていた。
『さあ、紀子さん』
「うん……」
紀子は一度眼を閉じて、ひとつ大きく息を吸うと、改めて呼び鈴に指先を伸ばした。チャイムが鳴る。
だが、中からの返答はない。
一呼吸おいて、紀子はもう一度チャイムを鳴らした。
すると、中から返答があった。
そのとたんに、紀子の鼓動が早くなった。
「あの、すみません。私、奥寺と申します」
勇気を出して声を出す。
わずかな間があって、
「開いていますから、どうぞ中へ」
細く聴こえるその声は、男のものだった。
ノブに手をかけると、ドアが開いた。
「失礼します」
玄関に立つと、キッチンの先のリビングからまた男の声がした。
「遠慮なく上がってください。私は動けないので、どうぞ」
「はい。お邪魔します」
傘立てに傘を差し入れ、脱いだ靴をきちんとそろえると紀子はリビングへ向かった。
リビングには男がひとり、2人掛けのソファに坐っていた。
ソファの横には、車椅子が置かれている。
それがその男の現実を写実に映した。
「初めまして。私、奥寺と申します」
もう一度姓を告げて、紀子は頭を下げた。
「紀子さん、ですね」
名を呼ばれたことに、紀子は一瞬驚いた。
いや、その愕きは名を呼ばれたからばかりではない。
紀子は姓を告げているのだから、母と結婚をした相手が、紀子の名を知らないはずもなかった。
それよりも紀子が驚いたのは、突然の来訪にもかかわらず、その男がごく自然に彼女を受け入れてくれたことにだった。
まるで、紀子が訪ねてくるのを前もって知っていたかのようにさえ思える。
そんな思いに立ちつくしていると、
「どうぞ、お坐りになってください」
男は、テーブルを挟んだ対面にあるソファに坐るよう勧めた。
言われるままに、紀子はソファに腰を下ろす。
「申し遅れました。私は野上です。見たとおり足が不自由なものですから、お茶を出すこともできませんが、許してください」
「いえ、そんな、おかまいなく。私こそ、突然に伺ったりして申しわけありません」
紀子は恐縮して、また頭を下げた。
「あいつは、あ、いや、あなたのお母さんは、いま買い物に出てますが、すぐにもどってくると思いますので」
「はい」
紀子は、ふとリビングを見回した。
(ここがあの人の、生活の場なんだ……)
リビングには無駄なものは一切置かれてない。
整理がよく行き届き、清潔感が溢れている。
そこにこうして坐っていると、母がいた頃の我が家を思い出す。
母は潔癖といえるほどのきれい好きだった。
床に糸屑や髪の毛が1本落ちているだけでも掃除機をかけ、調度品などはこまめに拭かなければ気のすまない人だった。
だからいつも、我が家には埃ひとつ落ちていなかった。
いまでは、その頃の見る影もない我が家だが、ここには、懐かしい母の香りまでが満ちていた。
母の住まいは1階の102号室だ。
アパートの前は駐車場になっていて、紀子は建物の外観を眺めるように佇んだ。
考えてみれば、その住所は12年前に教えられたものだ。いまもそこに住んでいるのかはわからない。
もうすでに引っ越したあとかもしれない。
紀子は二の足を踏んだ。そんな紀子を察して、
『大丈夫。お母さんはすぐそこです。あとはもう一歩を踏み出すだけです』
正吉があと押しをする。
その言葉に紀子は意を決して、アパートへと歩みを進めた。
102号室。
右から2番目の部屋だ。
部屋の前に立ち、表札を見ると、「野上正信」という名の下に、「久子」とあった。それは母の名だ。
鼓動が激しく紀子の胸を打った。
呼び鈴を鳴らそうと伸ばした指先が、その手前で止まる。
ためらうその指先が、それまでの母への想いを物語っていた。
『さあ、紀子さん』
「うん……」
紀子は一度眼を閉じて、ひとつ大きく息を吸うと、改めて呼び鈴に指先を伸ばした。チャイムが鳴る。
だが、中からの返答はない。
一呼吸おいて、紀子はもう一度チャイムを鳴らした。
すると、中から返答があった。
そのとたんに、紀子の鼓動が早くなった。
「あの、すみません。私、奥寺と申します」
勇気を出して声を出す。
わずかな間があって、
「開いていますから、どうぞ中へ」
細く聴こえるその声は、男のものだった。
ノブに手をかけると、ドアが開いた。
「失礼します」
玄関に立つと、キッチンの先のリビングからまた男の声がした。
「遠慮なく上がってください。私は動けないので、どうぞ」
「はい。お邪魔します」
傘立てに傘を差し入れ、脱いだ靴をきちんとそろえると紀子はリビングへ向かった。
リビングには男がひとり、2人掛けのソファに坐っていた。
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もう一度姓を告げて、紀子は頭を下げた。
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いや、その愕きは名を呼ばれたからばかりではない。
紀子は姓を告げているのだから、母と結婚をした相手が、紀子の名を知らないはずもなかった。
それよりも紀子が驚いたのは、突然の来訪にもかかわらず、その男がごく自然に彼女を受け入れてくれたことにだった。
まるで、紀子が訪ねてくるのを前もって知っていたかのようにさえ思える。
そんな思いに立ちつくしていると、
「どうぞ、お坐りになってください」
男は、テーブルを挟んだ対面にあるソファに坐るよう勧めた。
言われるままに、紀子はソファに腰を下ろす。
「申し遅れました。私は野上です。見たとおり足が不自由なものですから、お茶を出すこともできませんが、許してください」
「いえ、そんな、おかまいなく。私こそ、突然に伺ったりして申しわけありません」
紀子は恐縮して、また頭を下げた。
「あいつは、あ、いや、あなたのお母さんは、いま買い物に出てますが、すぐにもどってくると思いますので」
「はい」
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