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【第46話】
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「ずっと――」
野上がふいに、静かに口を開いた。
紀子は彼に眼を向けた。
「お母さんは、ずっとあなたが来るのを待っていました。そして僕も、あなたに会いたかった」
その野上を、観察するように紀子は見つめた。
どんな男が母を奪ったのか。
紀子にはその思いがずっとあった。
かといって、その男のことを想像することはなかった。
家族から母を奪っていった男を思い描くなど、おぞましいとさえ思っていた。
母を憎む以上に、男への憎悪が大きく膨らんでいた。
それだけに、男が交通事故に遭い、半身不随になったと父から聞かされたとき、心の中で紀子は、
「天罰がくだったんだわ。いい気味よ」
そう思った。
それと同時に、母を許さないと思いながらも、これで母が帰ってくればいいという期待を持ったりもした。
けれど母は帰ってくることはなく、男との生活をつづけたのだった。
そしていま、眼の前には、母を奪った男、野上がいる。
その野上は、見つめてくる紀子からわずかに眼を伏せて、
「あなたには、お詫びのしようもありません」
そう言葉を継いだ。だがすぐに言葉をつめ、そして、
「なにを言っても、言いわけにしかなりませんね」
辛そうな表情でそう言うと、口を閉ざした。
それに紀子は、沈黙で応えた。
ここへ来るまでは、もっと取り乱すのではないかと思っていた。
平静ではいられるはずがないと。
むしろそのほうが自然だったかもしれない。
それがいまの紀子は、自分でも驚くほどに平静を保ち、野上を見つめている。
言いたいことも、限りないほどあるはずなのに、紀子の口からこぼれ出るものは何ひとつなかった。
あれほど憎悪をいだいていた男を前にしていながら、その男に対して怒りの感情さえ湧いてこない。
それどころか、どこかほっとしている自分に気づく。
それがどういうことなのか。
ふと自問してみれば、母の相手がこの人でよかったと思っている自分がいるのだった。
それを不思議に思うかたわら、やはり、母を憎みながらも憎みきれずに、安否を気づかっていたのだということを改めて感じずにはいられなかった。
「あの――」
紀子がふと声をかけた。
野上は伏せていた眼を上げる。
「母がいたら、こんなこと言えないと思うので、いま言います」
野上は黙ってうなずく。
「母を、これからもよろしくお願いします」
そう言うのがやっとだった。
それ以上の言葉を継いでしまえばきっと涙が溢れてくる。
ここで泣いてはだめだ。
その紀子の言葉を聞き、野上はまたも辛そうな表情を浮かべた。
そしてとつぜん、深々と頭を下げた。
「許してください。あなたには、辛い思いをさせてしまった。どんなに詫びても足りることはない。それでも、どうか許してください。僕の罪が償えるのなら、どんなことでもします」
それは心からの謝罪だった。
その野上に、
「罪なんですか?」
紀子はそんな言葉を投げていた。
思ってもみない言葉に、野上は頭を上げ、紀子を見た。
「母を愛したことは、罪なんですか?」
もう一度、紀子はそう訊いた。
言いあぐねて、野上は斜めに眼を伏せた。
「どうなんですか」
尚も紀子は訊く。
「そんなこと……」
野上は伏せた眼を紀子に向けた。
「あの人を愛したことが罪だなんて、思ったことなどない。僕の罪は、あなたと、あなたのお父さんからあの人を奪ったことだ。そのことに僕は苦しんだ。こんな身体になってしまったのも、その罪への罰だと……」
その顔に苦渋が満ちた。
「事故のあと、下半身がもう動かないと知ったとき、僕はあの人と別れようとした。家族のもとに帰ったほうがいいと、そう思った。だけどあの人は、『たとえあなたが寝たきりになっても、私はあなたのそばから離れたりしません』そう言ってくれた。僕はうれしかった。そして心から感謝した。だから僕は、僕のすべてをあの人にゆだねて、愛しつづけると誓った。だからこそ、あなたたち家族に謝罪に行こうとした。だけど、こんな身体じゃ……、いや、それは言いわけです。僕には勇気がなかった。あなたたちに、会いに行くのが恐かった。だからずっと……、ずっと……」
野上は、膝の上で拳を握りしめた。
「もう、いいんです。自分を苦しめないでください。私と父のことは、もう考えることはありません。私は、母が幸せであれば、それでいいんです。父だっておなじ想いのはずです。だからほんとうに、もういいんです」
紀子は素直にそう思った。
「ありがとう、紀子さん。ほんとうにありがとう」
野上は顔をゆがめて笑い、なんども頭を下げた。
その姿に、この人はいい人なのだと、紀子はそう感じた。
母を心から愛しているのだということが、じゅうぶん過ぎるほど伝わってきた。
それを思うと、これでいいのだという気持ちになる。
母が幸せであるのなら、それ以上のことは何もないのだ、と。
紀子は胸の中に暖かいものが広がっていくのを知った。
張り詰めていた空気も和み、そんなとき、玄関のドアが開く音がした。
野上がふいに、静かに口を開いた。
紀子は彼に眼を向けた。
「お母さんは、ずっとあなたが来るのを待っていました。そして僕も、あなたに会いたかった」
その野上を、観察するように紀子は見つめた。
どんな男が母を奪ったのか。
紀子にはその思いがずっとあった。
かといって、その男のことを想像することはなかった。
家族から母を奪っていった男を思い描くなど、おぞましいとさえ思っていた。
母を憎む以上に、男への憎悪が大きく膨らんでいた。
それだけに、男が交通事故に遭い、半身不随になったと父から聞かされたとき、心の中で紀子は、
「天罰がくだったんだわ。いい気味よ」
そう思った。
それと同時に、母を許さないと思いながらも、これで母が帰ってくればいいという期待を持ったりもした。
けれど母は帰ってくることはなく、男との生活をつづけたのだった。
そしていま、眼の前には、母を奪った男、野上がいる。
その野上は、見つめてくる紀子からわずかに眼を伏せて、
「あなたには、お詫びのしようもありません」
そう言葉を継いだ。だがすぐに言葉をつめ、そして、
「なにを言っても、言いわけにしかなりませんね」
辛そうな表情でそう言うと、口を閉ざした。
それに紀子は、沈黙で応えた。
ここへ来るまでは、もっと取り乱すのではないかと思っていた。
平静ではいられるはずがないと。
むしろそのほうが自然だったかもしれない。
それがいまの紀子は、自分でも驚くほどに平静を保ち、野上を見つめている。
言いたいことも、限りないほどあるはずなのに、紀子の口からこぼれ出るものは何ひとつなかった。
あれほど憎悪をいだいていた男を前にしていながら、その男に対して怒りの感情さえ湧いてこない。
それどころか、どこかほっとしている自分に気づく。
それがどういうことなのか。
ふと自問してみれば、母の相手がこの人でよかったと思っている自分がいるのだった。
それを不思議に思うかたわら、やはり、母を憎みながらも憎みきれずに、安否を気づかっていたのだということを改めて感じずにはいられなかった。
「あの――」
紀子がふと声をかけた。
野上は伏せていた眼を上げる。
「母がいたら、こんなこと言えないと思うので、いま言います」
野上は黙ってうなずく。
「母を、これからもよろしくお願いします」
そう言うのがやっとだった。
それ以上の言葉を継いでしまえばきっと涙が溢れてくる。
ここで泣いてはだめだ。
その紀子の言葉を聞き、野上はまたも辛そうな表情を浮かべた。
そしてとつぜん、深々と頭を下げた。
「許してください。あなたには、辛い思いをさせてしまった。どんなに詫びても足りることはない。それでも、どうか許してください。僕の罪が償えるのなら、どんなことでもします」
それは心からの謝罪だった。
その野上に、
「罪なんですか?」
紀子はそんな言葉を投げていた。
思ってもみない言葉に、野上は頭を上げ、紀子を見た。
「母を愛したことは、罪なんですか?」
もう一度、紀子はそう訊いた。
言いあぐねて、野上は斜めに眼を伏せた。
「どうなんですか」
尚も紀子は訊く。
「そんなこと……」
野上は伏せた眼を紀子に向けた。
「あの人を愛したことが罪だなんて、思ったことなどない。僕の罪は、あなたと、あなたのお父さんからあの人を奪ったことだ。そのことに僕は苦しんだ。こんな身体になってしまったのも、その罪への罰だと……」
その顔に苦渋が満ちた。
「事故のあと、下半身がもう動かないと知ったとき、僕はあの人と別れようとした。家族のもとに帰ったほうがいいと、そう思った。だけどあの人は、『たとえあなたが寝たきりになっても、私はあなたのそばから離れたりしません』そう言ってくれた。僕はうれしかった。そして心から感謝した。だから僕は、僕のすべてをあの人にゆだねて、愛しつづけると誓った。だからこそ、あなたたち家族に謝罪に行こうとした。だけど、こんな身体じゃ……、いや、それは言いわけです。僕には勇気がなかった。あなたたちに、会いに行くのが恐かった。だからずっと……、ずっと……」
野上は、膝の上で拳を握りしめた。
「もう、いいんです。自分を苦しめないでください。私と父のことは、もう考えることはありません。私は、母が幸せであれば、それでいいんです。父だっておなじ想いのはずです。だからほんとうに、もういいんです」
紀子は素直にそう思った。
「ありがとう、紀子さん。ほんとうにありがとう」
野上は顔をゆがめて笑い、なんども頭を下げた。
その姿に、この人はいい人なのだと、紀子はそう感じた。
母を心から愛しているのだということが、じゅうぶん過ぎるほど伝わってきた。
それを思うと、これでいいのだという気持ちになる。
母が幸せであるのなら、それ以上のことは何もないのだ、と。
紀子は胸の中に暖かいものが広がっていくのを知った。
張り詰めていた空気も和み、そんなとき、玄関のドアが開く音がした。
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