蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

文字の大きさ
48 / 74

【第48話】

しおりを挟む
 そのほうがいい。
 今日は泣きたくはない。

「え? まだ来たばかりじゃないの」「うん、ありがとう」

 紀子は微笑を浮かべて応える。

「泣くのはなしよ、お母さん」
「そうね」

 久子は涙をこらえようとする。
 それでも涙は溢れてくる。
 その姿を見ていると、紀子は胸が熱くなる。
 このままいたら、自分までが泣き出してしまう。

「じゃあ私、帰るね」



 涙を拭いながら久子が言う。

「今日はこの辺にしとく。また来たときに、ゆっくりさせてもらうから」

 紀子がソファを立つのと一緒に、久子も立ち上がる。

「きっとよ。きっと、また来てよ」
「約束する。そのときは、お母さんの手料理、食べさせてね」
「紀子の好きなものだったら、なんでも作るわ」

 玄関へ行くと、寝室から野上が車椅子で出てきた。

「もう、お帰りになるんですか」

 彼の顔は残念そうだ。
 ほんとうに人が好いのだろう。

「はい。今度また来ます」

 紀子は笑顔で答えた。

「そうですか。じゃあ、待っています」
「はい」

 ふたりに見送られて、紀子は玄関を出た。
 雨はまだ降りつづいている。
 駐車場を抜けたところで、紀子は呼び止められた。
 ふり返ると、久子が傘を差してやってくる。

「どうしたの?」

 不思議そうに紀子が見つめる。

「これ、少ないけれど」

 久子は白い封筒を差し出してきた。
 紀子が玄関を出たあとで、慌ててお金を封筒に入れてきたのだろう。

「そんな、受け取れないわよ」
「そんなこと言わずに、さあ」

 尚も久子は差し出してくる。
 むげに断るわけにもいかず、紀子が困っていると、、

『紀子さん。受け取ってあげなさい。お母さんの気持ちですよ』

 正吉の声が響いてきた。その言葉に、

「ありがとう」

 紀子は封筒を受け取った。

「電話番号も入っているから、いつでも掛けてきてね」

 紀子はそれにうなずき、だが、久子はまだ何かを言いたそうにしている。
 紀子は表情だけで問いかけた。
 すると久子は、少し言いずらそうにしながら、

「お父さん、元気にしてる?」

 そう訊いた。
 紀子はそれに答えなかった。
 どうしていまさらに父を気づかうのか、そう思ったからだ。
 母は父を棄てたのではないか。
 家を出た1年後に、別れてくださいと書かれた便箋1枚と離婚届を一方的に送りつけて、父に引導を叩きつけたのではないか。
 そんな仕打ちをしておいて、その父の身体を案ずるなど、いったいどういう了見なのか。
 それでは父の立つ瀬がない。
 あまりにも惨めというものではないか。
 母の気持ちはわからなくもない。
 けれど父のことを想うならば、あえて触れずにおくのがやさしさというものだろう。
 娘として母を許すことはできても、父のこととなると紀子にとってはまた別の問題だった。
 紀子のその想いを察したのか、久子は首をふり、

「よけいなことだったわね」

 寂しげにそう言うと、アパートへと引き返していった。
 傘を差すそのうしろ姿を見つめていると、紀子の中にふいにこみ上げてくるものがあって、

「お父さん、元気だから」

 思わずその背に言っていた。
 その言葉に久子は、つと足を止め、だが、ふり返ろうとはせずにうなずくと、すぐにまた歩を進めた。
 母のその背がとても小さく見えた。
 こみ上げる想いは、胸を熱くする。

(お父さんは、私が面倒をみるから心配しないで……)

 母が部屋の中に入っていくのを見届けてから、紀子は心の中でそう呟き、その場をあとにした。
 降りつづく雨が、かすかな音を立てて傘を叩く。
 それほど静かで細い雨だった。

『紀子さん。あなたは立派でした』

 ふと、正吉が言った。
 彼は紀子の歩調に合わせて、宙を歩く。
 傘には入らずとも、濡れる心配はない。

「そう? でも、正吉さんがいてくれたおかげよ」
『いえいえ、私はなにもしていませんよ』
「だって、すごく心強かったもの」
『死んだ身でありながら、役に立てたのであれば光栄です』
「ね、正吉さん」

 改めるように紀子が訊く。

『はい』
「こうなること、ほんとは知っていたんでしょ」
『えッ、いや、そんなことはないですよ。それにしても、雨はやみそうもないですね』

 正吉は言葉を濁し、うまく逃げたつもりでいるが、紀子には、正吉が今日のことを知っていたのだろうという確信を持った。

(きっと、カオスとかいうところで、私の未来を覗き見したに違いないわ)

 そう思いながらも、それを正吉に問いただそうとはしなかった。

「とても静かな雨ね」
『そうですね』
「これでまた、冬が近づいてくるんだわ」
『はい』

 秋雨はふたりを包むように、静々と降っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

私がガチなのは内緒である

ありきた
青春
愛の強さなら誰にも負けない桜野真菜と、明るく陽気な此木萌恵。寝食を共にする幼なじみの2人による、日常系百合ラブコメです。

✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちだというのに。 入社して配属一日目。 直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。 中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。 彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。 それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。 「俺が、悪いのか」 人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。 けれど。 「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」 あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちなのに。 星谷桐子 22歳 システム開発会社営業事務 中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手 自分の非はちゃんと認める子 頑張り屋さん × 京塚大介 32歳 システム開発会社営業事務 主任 ツンツンあたまで目つき悪い 態度もでかくて人に恐怖を与えがち 5歳の娘にデレデレな愛妻家 いまでも亡くなった妻を愛している 私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?

処理中です...