蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の二 大食い

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 蒼井はメロンソーダをちびちびと飲みながら、「あと二分」とタイマーを見つめた。
「うん、あと三口くらいかな」
 有村はオムライスを前に落ち着いた声で言う。大きな皿の上にあったはずの三キロほどのオムライスはほとんど腹の中に消え、残りは僅かだ。
 現在、有村は大食いチャレンジをしていた。時間内に完食すれば、無料というやつである。
 場所は、駅前にある洋食店だ。オムライスが売りで、一年ほど前にオープンして以来、そこそこ繁盛している。有村も何度も行ったことがあり、オムライスハンバーグが一番のお気に入りだった。
 安泰であったその店が、何を思ったか大食いメニューを提供するとあり、有村は飛びついたのである。
 余裕の表情を見せる有村に、蒼井は左右に首を振る。
「それが三口か。僕なら十口くらいありそうだ」
「これが? 蒼井君は口小さいな」
 見るからにお坊ちゃん風の小さな口元は、見ようによっては上品に見えるように、口角を上げた。出来上がるのは、シニカルっぽい笑みである。
「有村君の口が大きすぎる、化け物級だ」
 有村は笑いながら、大きな口を開けた。もう残りは、有村にしてみれば一口ほどしかなかった。三口もなかったのである。
「僕はそこまで食べないから分からないけど、デカ盛りメニューっていうのは、有村君のような人たちのためにあるんだろうな」
「蒼井君だって普通に食べるやん」
「大盛メニューに挑戦するほどじゃない。早食いなんて、身体を壊しそうだ」
「僕も早食いはあんまりしたくないんやけど、無料になるのはデカいよな」
 高校生の金事情はシビアだ。親に養われている立場として、自由にできる金は多くはない。小遣いを増やすため、アルバイトという手もあるだろうが、残念ながら有村たちの通う高校ではアルバイトが禁止されている。何らかの事情等でアルバイトをする場合は、学校に届を出す必要があった。そこまでしてやろうとは、正直有村は思っていない。有難いことに、有村家はそれなりに安泰だ。今時母が専業主婦なんて、他から見れば気楽なものである。
 有村は最後の一口を平らげると、「ご馳走様でした」と手を合わせた。十五分以内に食べきれば無料というチャレンジをしていた有村は、拍手喝采、歓声を浴びる。これでめでたく完食者一覧に乗るというわけだ。造作もないことである。
「おめでとうございます! では今回は無料になります! 次回お使いいただけるお食事券もお渡しさせてもらいますね!」
「ありがとうございます」
 喜色満面の店員から割引券を受け取り、有村は頭を下げる。お食事券は三千円分。ほくほくとした気持ちになって、次は何を食べようか、などと考え始めた。
 こういうことは、一度や二度ではない。有村は、店前に大食いチャレンジと書かれているのを見ると、休日にチャレンジをしに来ることがしばしばある。今までに失敗したことはなかった。自信があるからチャレンジをするのだ。失敗をしたら、金を払わなければならないから、見極めはしっかりとする。無理かもしれないと思った場合は、手を出さない。とはいえ、無理かもしれないと思うことはほとんどなかったりする。今のところ全勝だ。
 僕は無敗です――内心で思いながらも態度は謙虚である。
「相変わらず、気持ちのいい食べっぷりだな」
「育ち盛りですから」
 さっきは化け物だと言ったくせにと思いながらも、口に出すことはない。蒼井はけっこう適当なことを言う奴なので、いちいち突っかかっていたらきりがないのである。本心がどこにあるのか、いまいち分からない奴なのだ。
「次は大食い大会にでも出てみたらどうだ?」
「勝負って、あんまり好きちゃうねんな。早食いもあんまりやし。無料になるならやるけど、別にそこまでして賞金稼ぎたいとかはない」
「上手くやってテレビ番組に出れば、そのうちタレント化してグルメレポーターになれるかもしれない、就職活動しなくて済むかもしれないんだぜ」
「僕そんな食に対する語彙力ないで。うまいしか言えん」
「勉強すればいいだけのことだ、ま、僕として有村君が有名になってもてはやされて、若い女性たちに鼻の下を伸ばしてる図ってのは想像するだけでもきついものはあるな」
「想像すんな」
 自分で想像するのも嫌なくらいだ。蒼井の想像を蹴散らすように手を動かすが、蒼井はそれをひょいと避けた。
「どうせ有村君はイケメンフードファイターとして取り上げられるだろうよ、昨今のテレビは何でもかんでもイケメンにしたがる、重要なのはやっぱり髪型かな、今時風にしておけば、誰だってイケメン風になれるものなんだよ、楽なもんだね」
 蒼井はにやにやとして肘を付いている。有村が苦い顔をしているのを楽しんでいるようだ。
「一時有名になって、その後落ちぶれた僕を指差して笑う気やろ」
「まさか、どうして落ちぶれるなんて思うんだ、もっと前向きにいきなよ、上手くやって億万長者かもしれない」
 口先だけか本心か、表情を見る限り前者であろうと思われるが、蒼井という人間は未だに有村にとって未知数なところがある。ねちねちとしょうもないことで有村を責め立てて来ると思えば、理解の出来ないところで賞賛してきたりする。
 有村は、テーブルに置かれたレシートを蒼井へ押し付けた。
「会計は、蒼井君のメロンソーダだけやで」
 蒼井はちらとレシートを見つめると、ふっと鼻で笑うようにした。
「何?」
「いいや、今日はデザートは注文しないんだなと思って」
 大食いチャレンジ後、有村はデザートや飲み物を注文することがしばしばある。蒼井にはどん引きされることも多いが、有村は食欲に忠実に生きている。食べたいものは食べたいのだから仕方がない。時間制限がない方が、よほど美味しくいただけるというものだ。
「オムライスの後は、甘いもの欲しくならへんねん」
 有村は机の端に立ててあるメニューを眺めながら、水を飲む。
 パフェやらアイスやらが並ぶ姿は楽し気で、スイーツスイーツと言って写真を撮る女性の気持ちは、分からなくもない。撮っている間に溶けるからはよ食わんかい、なんて空気の読めない発言なんて、有村はしないのである。
「僕はメロンソーダを欲しているぜ」
「良かったな。メロンソーダを作ってくれた人に感謝しいや」
「発祥は銀座だと聞いたことはあるが、はっきりしたことは知らないな、炭酸水をあんな緑に着色しようなんて、いったい誰が考えたんだか。有村君は食欲と色の関係性について知っているか、食欲が増幅するのは暖色系だそうだよ、減退するのは寒色系だ、緑は中性色だな、だから様々なものに着色をするわけだが、あの緑はどうしたって僕には不健康に見える、大してそそらないんだよ」
「めっちゃ飲んでるくせによう言うわ。もっと健康的な色にしてほしかったって?」
「別にそんなことは言ってないさ、有村君はいつだって早とちりなんだ」
 じゃあ何やねん。
 蒼井はにやにやと爽やかでない笑みを浮かべている。どう見ても悪役だ。蒼井は、青春映画の主人公とは正反対の表情をしがちである。こういうところも含めて、人を寄せ付けないのだ。こういう時の蒼井は非常に面倒くさい。
 早とちりと言うのなら、当然続きがあるはずだろうと黙ってみるものの、蒼井はとたん興味がそれたのか、店の外へ視線を向けている。
 有村は、蒼井のメロンソーダが減っていく様を眺めながら唇を尖らせた。本当に腹が立つほどにマイペースである。
 付いて来なくていいと言うのに、蒼井は有村の大食いチャレンジにいつもくっ付いて来た。大食いをする有村の姿は、さながら妖怪のようで見ていて小気味が良いらしい。メロンソーダを飲みながら、観察するように眺められるのはあまり良い気分でもないが、有村は気にしないことにしていた。蒼井に何を言ったところで、はいそうですかと、大人しく聞き入れるタイプではないのは百も承知だ。
 すると蒼井はまた店内に意識を戻し、思いついたように手を叩く。
「そうだ、早食いのメリットとデメリットを調べてやろうか」
「調べるまでもないやろ。メリットがあるとは思えへん」
「僕は小学生の時、一口三十回噛むように言われたことがある、言わずと知れたカミングさんまる運動だよ、厚生労働省が提唱してる。いちいち回数なんか数える奴がいるとは思えないけど、有村君だって、とにかくよく噛めと小学生の頃に言われただろう」
「なんちゃら運動のことはあんまり覚えてへんけど、じゃあ、なんで大人が早食いとか大食いで競争してんのやろうな? 早く食べるには噛んだらあかんやん? 飲み込むのが鉄則やろ」
 すると蒼井はにやりと笑い、「人間なんてそんなものだね」と口を開いた。
「肥満予防だ脳の血流がアップだと言うけれど、実際にやっている人なんてどれだけいるだろうな? どうでもいい他人の脳の血流がアップしたところで、僕の人生には何の関係もないんだ」
 蒼井は弾丸のように話し続けている。学校では無口な人で通っている蒼井も、有村と一緒であれば、どこから言葉が湧いてくるのか不思議なほどに話し続ける。気が逸れれば一気にだんまり人間と化すが、調子が良ければ一時間でも二時間でも話し続けそうな時がある。今日はえらく調子が良さそうだった。
「大食いにチャレンジしている人たちは、案外身体が細い人が多いだろう、早食いは肥満に繋がり、かつ摂取しているカロリーはとんでもない量だ、じゃあ、食べたものはいったいどこへ消えているのかという話になるが、要は全て出てしまっているというわけだろう? そういう身体の仕組みが出来上がっている人は、いくら食べても出てしまうから痩せの大食いと化すわけだ、むしろたくさん食べないと生きていけないんだろう、飢饉の時には一番に死ぬだろうな」
「それ、僕のことを言ってんの?」
「そうだ」
 完食したての人間へ対する言葉としては、あまりにも優しさがない。しかし、蒼井とはそういう人間であった。
 有村は顔の前で手を組む。
「食糧難が起きませんように。世界の人々がみんな普通に食べて幸せに暮らしていけますように」
「世界なんて大それた願いを唱えるのは止めた方が良いぜ、どうせ叶いやしないんだ、食品ロスのくせして食糧難だなんて、馬鹿な話だぜ全く。そうだ、食糧難を見据えて昆虫食ってのがあるらしい、有村君はどうだ? いける口か?」
「この前、コオロギせんべい食べたで。普通に美味しかったわ。あんまり見た目がグロいやつはあれやけど、別にいけるんちゃう? 僕の舌って大雑把やし、美食家じゃないしなあ」
「それは頼もしい、有村君なら、火星でも生きていけるんじゃないか」
「何で火星?」
「まさか有村君、火星移住計画を知らないわけじゃないだろう」
「悪いな、僕は地球と共に滅ぶって心に決めてんねん」
「それも選択肢の一つだな」
 ずーっと蒼井は音を立ててメロンソーダを飲み干した。相も変わらずメロンソーダが好きな奴である。冬でも冷たいメロンソーダをわざわざ頼むのだから、愛は果てしない。そもそも炭酸があまり得意ではない有村には、考えられないことである。蒼井は、火星に行ってもメロンソーダを飲み続けるつもりなのだろうか?
「おめでとうございます!」
 溌剌とした声が店内に響いて、有村は顔を上げた。
 一つ通路を挟んだ向こう側の席でも、大食いチャレンジをしている人がいたらしい。有村と同じく完食したようである。
「チャレンジャーはあちこちにいるみたいだ、有村君みたいな奴ばかりだったら、商売あがったりじゃないか?」
 有村は視線を向こうへ投げた。ちょうど人と壁が重なって、どんな人がチャレンジに成功したのか見えない。
 いかにも食べそうな大柄の人か、あるいは華奢なタイプか。
「見えへんな」
 座ったまま身体を左右に動かして、興味深々で有村は完食者を見ようとする。何と言っても同士だ。雄姿くらいは目に焼き付けておきたかった。
 蒼井はレシートを手に取った。
「どうせもう出るんだから、ついでに見て行けば?」
 蒼井は、成功者に興味はないらしい。目元は涼やかだ。基本的に、蒼井が他人に興味を示すことはない。子供は案外好きだと言うけれど、だからといって優しい態度で接するわけでもないのだ。
 有村は頷き、席を立った。
 通路を歩き、死角を抜ける。いったいどんな人が完食したというのだろうか。有村が興味の視線を向けると、そこには大人しそうな大学生風の女性が座っていた。
「あ、ありがとうございます」
 注目されて恥ずかしいのか、顔を赤らめ、消え入りそうな声でお食事券三千円分を受け取っている。
 まさか大食いチャレンジに成功したとは思えない華奢な身体つきと、可憐な見た目。有村は一気に目を奪われた。美人に引き付けられてしまうのは、どうしようもない性である。涼し気な白いワンピースには一つの汚れもなく、清楚という言葉がよく似合う。うつむくと、長い黒髪で顔が隠れてしまった。
 あんな綺麗な人が成功したのか――と有村が思っていると、前方で蒼井がぴたりと止まった。成功者に興味がなかったはずの蒼井が、彼女を凝視している。
「何?」
「いや」
 さすがに、蒼井も美人には弱いか。今までそんな隙を見せて来なかった蒼井にも、そういう感情があったかと感心していると、蒼井は振り向いた。表情のないまま、彼女を指差す。
「あれ、知ってる」
「知ってる?」
 有村は素っ頓狂な声を出した。
 まさか、蒼井があんなに清楚で可憐な女性と知り合いだなんて、思うはずがなかったからだ。見たところ大学生風で、高校生の蒼井と接点があるとは思えない。
 有村の声が聞こえたのかどうか、彼女は顔をそっと上げた。大きな丸い目が、こちらを認めるように動く。すると、沸騰したように顔を赤くして、突然立ち上がった。
「ご、ごごごごきげんよう、蒼井さん」
 目を見開いた女性は、緊張したようにぺこぺこと頭を下げる。顔は真っ赤だ。
 まじか、と有村は目を見開く。ただの顔見知りではなく、名前を知っている程度の知り合いという事実が、有村の心にずっしりと響く。どこで? どうやって知り合った?
「ごきげんよう」
 暑さまっしぐらの彼女に対し、蒼井は冷めきった対応である。挨拶をしないよりはよほどましだが、それにしたってそっけない。
 挨拶を返したのだから、蒼井にしては良く出来た方だと思わなくもないが、綺麗な人に挨拶をされたのだからもっと愛想よくしろというのが有村の本音だ。言ったところで、蒼井は聞く耳を持たないだろう。
 有村の動揺なんて素知らぬ様子で、蒼井はにやりとした悪役的な笑みを浮かべた。彼女へではなく、有村へ向けてだ。
 僕の言った通りだろう、やはり大食いの人はスリムな人が多い――そんなことを語り始めそうなどや顔である。
「そっちちゃうやろ」
 有村は蒼井の顔を掴むと、ぐいと彼女へと向けさせた。
 少なくとも二人は、名前を知っている仲である。会えば挨拶をする程度の関係性で、彼女からして蒼井はたぶん、どうでもいい人間などではない。興味がなければ顔を赤くするはずはないし、緊張するはずもない。
 彼女は蒼井を見るなりワンピースの裾を払い、前髪を恥ずかしそうに触っている。耳まで赤くして、「ええと」ともごもご口を動かしていた。
 遺憾である。
 有村は、隣の蒼井の顔をじいと見つめた。
 腑に落ちないが、この反応を見る限り、彼女は蒼井に気があると考えるべきだ。羨ましいやらなにやら感情が湧き上がってきたが、有村は広い心を持って表情に笑みを浮かべた。
 ぺこりと会釈をしてみせれば、向こうも同じように頭を下げる。どうしたものかと蒼井の反応を待ってみるが、取り立てて彼女に話しかけようという気はないらしい。
 奇妙な間が生まれる。
 彼女は彼女で、もごもごとしているばかりであるし、有村は「ええと」と困りながら口を開いた。生憎、膠着状態の空気に耐えられるようなマイペースさを、有村は持ち合わせていない。
「どうも、こんにちは。奇遇ですね。僕もさっき、大食いチャレンジしてたとこやったんですよ。な、蒼井君」
「首が痛い」
「ごめんごめん」
 蒼井が不満そうな顔をするので、有村は解放してやった。こんな仏頂面のどこが良いのか問い詰めたい気分ではあったが、有村は蒼井を連れて彼女へ近付いた。
 近付いても当然彼女は綺麗だった。そこはかとなく良い匂いもする。綺麗な人は、良い匂いがするものである。
「あ、そ、そうだったんですか。わ、私、蒼井さんとは、その」
 彼女の言葉をすくうようにして、蒼井が続けた。
「顔見知りだよ。僕の行きつけの店で店員をやっている」
「行きつけ?」
「あそこのメロンソーダは絶品だ」
「ああ、そうなんや」
 蒼井に行きつけの店などあったことが初耳である。当然違う人間同士、近い関係だったとしても知らないことなどいくらでもある。
 蒼井がこんなに綺麗な人と知り合いだったとしても、わざわざ有村に報告する義務などない。蒼井も蒼井で、別の場所でコミュニティを築いているのか――と、何とも言えない気持ちに浸ってから、なるべく穏やかな笑みを浮かべてみる。
 曽根あずきです、と頭を下げた彼女へ、有村も慌てて自己紹介をする。
「僕は有村――です。蒼井君とは同じクラスで」
「ありむら、さんですね。ええと、初めまして」
 ぺこぺこと二人で頭を下げ合う。
 蒼井はじっと僕たちの自己紹介を聞いていて、ふと彼女の座っていた席を見た。空になった大皿は、綺麗なまでに食べ尽くされている。こんなに細くて綺麗な人が食べたなど、思えるはずもない。
 曽根は蒼井の視線を感じると、つーと、皿を隠すような位置へ自然に移動した。見られたくないのだろう。有村は察すも、蒼井は全く曽根の気持ちを推し量らない言動を取った。
「しかし、曽根さんが大食いだとは思わなかった」
 蒼井が感心した声を出す。声色には否定的な色合いはない。大食いが良いか悪いかという話ではなく、ただ感心しているのだ。
「あ、大食いっていうか、その」
 曽根はもごもごと容量の得ない言葉を吐く。意中の相手に大食いであることがばれて、何と言ったものか困っているといったところだろうか。
 女性と言えばダイエット、食事制限エトセトラ、という連想をされがちな世の中で、大食いであることは声を大にして言いたいことでもないのだろう。ましてや気になる相手の前となると、小食の女性を演じてみたいものなのかもしれない。
 曽根の内心を推し量ったはずもないが、蒼井は興味もなさそうに「ふうん」と言う。
「小食よりはずっと良いと思うぜ、食べないと誰だって死ぬからな、食べ過ぎても死ぬけど、僕もそれなりに食べる方だし、他人の食べる姿を眺めるのはけっこう楽しいものだよ」
「あんまりじろじろ見るのは失礼やけどな」
「僕だって、有村君は見るけど他の人をそこまでじろじろ見ることはない、さすがに弁えているよ」
「僕の時も弁えろや」
「だって、楽しいじゃないか」
「そうか?」
 食べている姿を見て楽しいだなんて、有村は思ったことがない。それよりも、食べ物を見て食べている方がよほど楽しい。腹も膨れる。
 全く同感出来ないと腕を組んでいると、「どうせ有村君はそうだと思っていた」などと言い出す。
「繊細なようでいて鈍感なんだよ有村君は」
「何の話?」
「じゃあ行こう」
 蒼井は、会話もそこそこに店の出口を指差した。ここで曽根とどうこうするつもりはなく、有村の質問に答える気もないらしい。あまりにも素っ気ない態度である。
 おい、と内心で小突くも、蒼井が気付くはずもない。
 すると曽根は、小さな鞄から小さな紙を一枚取り出した。よく見れば、百円引きと書かれている。
「わ、割引券、良かったらじ、次回来られるときに使って下さい」
「どうも」
 曽根の視線は、蒼井の胸の辺りにある。見つめ合うとよけいにお喋りが出来ないのかもしれない。
 存外、蒼井の声色は高かった。百円割引は、高校生にとって大きい。さっそく次回使うことだろう。
 蒼井は会計をすると、店を出た。
 帰り際に振り返り、店内を覗くと、曽根はまだ一人で席に座っていた。
「曽根さんって大学生?」
 冷えた店内を出ると、夢から覚めたような蒸し暑さが身体を覆う。人間を殺しにかかるような気温は、有村にとって憎しみの対象でしかない。冷たさの余韻はすぐに消え、有村はすぐさま陰に身を潜めるようにして歩く。
「そうだ」
「蒼井君と曽根さんの立場、逆ちゃう? 何で向こうが蒼井君に敬語使ってんの」
「僕だって最初は敬語だったよ、でも向こうがため口で良いっていうから、じゃあそれでって」
「変なの」
「そうか?」
 蝉の声が、さらに暑さを増してくる。一刻も早く家に帰らなくては、アスファルトに溶けてしまいそうだ。人間の大部分は水なのだから、蒸発して消えてしまったところで不思議でも何でもない。帰るまでに人間の形を保っていなければ、と有村は強く足を踏みしめる。
 蒼井は、クールな面差しでふんと鼻を鳴らした。
「有村君も所詮思春期か」
「蒼井君は何目線なん?」
 思春期に思春期と言われるのは心外だった。
 有村は身体を細くして、なるべく日光に当たらないように歩く。
「有村君は、そういうことに淡泊なのかと思っていた。クラスメイトにアピールされても反応ないだろう、年上好きか?」
「アピールって、何言っとんねん。普通に喋ってるだけやで。僕は常にノーマルですー」
「忍者のように歩く人間はノーマルとは言わないんだぜ」
「これは忍者じゃなくて、太陽を極端に嫌う人」
 しばらく歩き、無事に二人は有村家へ到着した。有村は蒸発して消えてしまうことはなく、きちんと人間の形のままだ。ミッションは達成である。
 蒼井は当然のように有村の部屋までやって来て、ごろごろとくつろぎ始めた。そのうち住み着くんじゃなかろうか、というほどのくつろぎっぷりだ。専業主婦の母である友恵は、どこの王族が来たのかと思うほど、いつも蒼井をたいそう喜んで迎え入れるので、蒼井も気分は良いだろう。案外母には礼儀正しいのである。父とも以前、二人で楽しそうに会話をしていたので、年上とは会話しやすいのかもしれないと思うこともある。
「ていうか曽根さんって、蒼井君から見て綺麗やと思う?」
 有村は、改めて蒼井を見つめる。
 一見お坊ちゃん風のこの見てくれは、おそらく悪印象は抱かれにくい。表情や態度が人を寄せ付けないだけだ。雰囲気というのだろうか、「僕に近づくな」という何かしらの空気が蒼井の周りを覆っている。蒼井が良いと思う人がいるのなら、そういう辛気臭さを気に入っているのだろうか。
 変な奴だなあ、と思う。普通ならもっと浮いた話の一つや二つあってもいいのに、蒼井の好きなタイプすら、有村は知らないのである。そんな話題になった覚えすらない。蒼井とするのはいつも、色気のない話ばかりである。真剣にじゃんけんの話をする高校生なんて、この国に何人いるだろう?
「急に何だ」
「蒼井君って、そういう感情がなさそうやなーって」
 ロボットだと思っているわけではないが、感情が偏っている。変な奴で、底が知れない。それなりに付き合っては来たが、蒼井をちゃんと理解出来ているかといえば、そうではない。
「まさか、有村君は僕という人間を誤解しているね、綺麗、美しいっていう感情は、常に持つべきだと思っているよ、対象が人間でなくてもね」
「曽根さんのことは綺麗やと思ってるわけか」
「でも有村君だって見ただろうあれを、会話があんまり成り立たないんだ」
「成り立ってなくはないやん」
 曽根の、緊張した話し方を思い出しながら、有村は首を傾げる。会話が成り立たないとは、あんまりな言い方である。蒼井か美人、どちらかの味方をしろと言われれば、当然有村は美人の味方だ。
「ちゃんと会話は出来るし、控えめな感じってだけやろ。その言い方はないて」
「言い方と言われてもな、会話のキャッチボールのリズムが僕の理想とかけ離れている」
「蒼井君の理想は知らんけど」
「スコンパンって感じだ、分かるだろう」
「スコーンパン? 全然分からんけど美味しそうな響き」
「違う卓球だよ卓球、有村君も授業でやってた」
「さっきキャッチボール言うてたやん」
 つまり蒼井は、曽根は綺麗だがタイプではないと言いたいらしい。
 そういうものか、と有村は肘を付いた。よく考えずとも、あんな美人が蒼井となんて、もったいないのだ。曽根のような綺麗な人の隣なら、イケメンで性格の良い爽やか青年が良く似合う。どう考えても、蒼井とは正反対だ。
 蒼井はしばらく、目に見えないラケットを手に持っていたようだが、分かり合えないと気づくや否や、やれやれと肩をすくませた。
「これだから有村君は」
「そんなん言われても」
「一応言っておくと、有村君が曽根さんに言い寄ろうが僕は関知しない、好きにすると良いよ」
「えー?」
 有村が、曽根をよほど気に入ったように見えたのだろうか。蒼井は突き放すような言い方をした。本当に、曽根のことはどうでも良いと言わんばかりだ。完全なる脈なしのように見える。
 曽根さんは蒼井のことを気にしてるんだぞ、とは言いたくても言えなかった。負けた気がするし、曽根さんの心を勝手に代弁することも気が引けた。
 蒼井はたいがい朴念仁で、曽根に大して興味もないらしい。
 恋のキューピッドになるなんて真っ平御免なので、「じゃあ好きにする」と返答した。
 こんなチャンスはもう二度と来ないかもしれないのに、蒼井は全く気付くことなくふいにしようとしている。いい気味だと思うのと同時に、曽根が気の毒なような気がした。
「じゃあな有村君、せっかくの夏休みなんだ、可愛い彼女と過ごせると良いな」
「そっちもな!」
 蒼井はにやにやとしながら部屋を出て行った。階段を降りる音がする。一階で母と楽し気にお喋りしている声が聞こえた。
 こんな調子で曽根とも話せばいいのにと思うが、それもそれで何か嫌である。女子と楽しくお喋りをする蒼井は想像できない。それに蒼井に彼女が出来たら、ことあるごとに「有村君には彼女がいないんだったなははは」なんて言われそうで、癪に障る。
 有村は、遠くで聞こえる蒼井の声を聞きながら、むうと口を曲げた。
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