蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の四 奇術師

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 とあるマンションの一室に、石井は暮らしているようだった。
 エントランスから、石井に案内されるままにエレベーターに乗る。
「両親と俺と弟の四人で住んでんねん。親はまだ仕事やからおらんけど。あいつ、帰って来てるかな」
 石井は慣れたように廊下を歩き、立ち止まる。この扉のようだ。
 安藤の家は一軒家なので、あまりマンションに立ち入ったことがない。つい辺りを見回していると、石井が鍵を回した。
 鍵が開いた音がすると、石井は扉を開けてそっと中を覗き込んだ。安藤の立ち位置からでは、中の様子は見えてこない。
 自分の家なのに、まるで泥棒のような風体に笑いかけた時、石井は「うわあ!」と声を上げた。
「な、何でお前玄関に突っ立っとんねん!」
 石井の慌てる声を聞いたのは初めてかもしれない、とどこか隅の方で冷静に考えていると、明るい声が聞こえて来る。
「へへ、こんにちは! お久しぶりです蒼井さん!」
 扉をすり抜けるようにして出て来たのは、可愛らしい小学生の男の子だ。一年生か、二年生か、まだまだ子供子供とした感じである。
 赤々とした頬と、きらきらした瞳は、全く兄とは似ていない。小学生的な笑顔は、直視するには眩しいほどだ。
「蒼井さんの声がしたような気がして、出て来たんですよ。まさか来てもらえるとは思いませんでした。すいません、中は散らかってますけど、こんなところで良ければどうぞ。お前は茶の用意をしろ、一番上等なやつ」
「おいおいおい、俺の拳ちゃんは、お前なんか言わへんぞ」
「蒼井さんを待たせるんじゃない」
 安藤は口を噤んだ。
 パワーバランスが、見た目のそれとは真逆なようだ。
 中身が別人と言っていたのは、嘘とか夢とか、頭がイカレているなんて話ではない、という気がしてきた。
「待ってくれ」
 蒼井が手を上げた。
「僕は君に会ったことはない」
 あらゆる衝撃で吹き飛んでいたが、安藤は思い出す。
 石井の弟は、確かに「お久しぶりです」と蒼井に話しかけたのだ。
 安藤は首を傾げた。
「ああ、そうですよね。そのはずです。すいません、混乱させちゃいますよね。でも、僕と蒼井さんは、会ったことがあるんです。夏休み中に」
「夏休みに?」
 蒼井は眉間に深く皺を作る。
 今は、夏休みが終わったばかりだ。夏休みの記憶は、まだ新しい。
 会ったのだとしたら、そう簡単に忘れているはずがない.
「いや、ない」
 蒼井は断言した。
「ない……はず」
 その後逡巡した。
 引っかかる点があったようで、少年を食い入るように見つめている。それから眉間を揉んだ。
 にこにこした小学生は、とにかく楽し気だ。
 蒼井に会えて嬉しいと、表情が雄弁に語っている。
 どうにも雰囲気は奇妙だった。
 安藤は考えながら、そっとじゃんけん小僧の様子を見た。
 一見、嬉しい感情だけのように見えたが、よく見ると困ったような、何とも言葉にし難い感情も散見される。哀れに似た感情も含まれているように見えた。
 蒼井への敵対心は一切見られない。
「よく覚えていない」
 ぽつりと聞こえた声には、苛立ちが混じっていた。
 もし蒼井がじゃんけん小僧に会っているのなら、蒼井はじゃんけんをしたことがあることになるのだろうか?
 そうだとしたら、蒼井の目的は果たせない。
 勝負は一回きりだ。
 じゃんけん小僧が勝負はしないと言えば、勝負は出来ない。
 願いは叶えてもらえない。
「そうですよね。そのはずです」
 じゃんけん小僧は続けた。
「とても残念です。僕としても、非常に残念ではあるんですが、勝負は一回きりなので。いくら蒼井さんでも、例外を作ることは出来ません。まあ、立ち話もなんですから」
 どうぞ、と中へ案内される。
 蒼井は腑に落ちない表情で、それでも案内されるままに入って行く。
 居間に通され、静かに座る。生活感のある部屋は、石井のイメージとはかけ離れていた。
 石井が粛々とした様子で「どうぞ」とお茶を運んでくる。礼を言って受け取り、一口だけ飲んだ。
 蒼井は難しそうな表情をして、口を付ける気配はない。
「いつ僕と会った?」
「初めて会ったのは、期末試験最終日です。僕たちはそれから日を分けて、千回勝負をしました」
「千回!」
 石井が叫ぶように言う。
「一回こっきりちゃうの?」
 じゃんけん小僧は微笑み、人差し指を突き出した。
「一回こっきりの、千回勝負」
「そんなんある?」
「ルールは僕」
 不服そうな石井は、口を閉じて頭を振った。
 あいこで勝負が終わった石井と千回の蒼井では、なぜか待遇が天と地ほども違う。
 理由は不明だが、じゃんけん小僧は蒼井をいたく気に入っているようだ。
「千回も勝負したら、普通忘れるわけないよな」
 安藤は呟いた。
 病でもないのなら、忘れるなんて、まず有り得ない。むしろ色濃く、十年経っても覚えていそうな記憶である。
 全員の視線が蒼井に向けられた。
 勝負をしたのなら、当然勝敗が決まっているはずだ。石井の場合とは違うのだから、千回やって勝負がつかなかったとは考えられない。
「僕は負けたんだな」
 蒼井は確信したように言う。
「それで、身体を盗られた。彼が、僕を元に戻してくれた」
 じゃんけん小僧は、何も言わなかった。ただ蒼井を見て、にっこりと笑う。
 蒼井は苛ついたまま続けた。
「彼は勝って、僕を戻した……だったら、どうして消えた? 勝ったのなら、何も取られるはずがない」
「あの人、良い人だったんですよね。言葉を変えるなら、甘い人間だった。そんな簡単にイエスなんて、言っちゃ駄目なのに」
 じゃんけん小僧は、すーっと視線を逸らすと、突然安藤へ話しかけた。
「そっちが勝ったら、願い、叶えてあげるよ?」
「え」
 小学生的な笑顔で、じゃんけん小僧は言う。無邪気な表情は、ぞっとするほど不気味だった。
「この中で、勝負をしたことがないのは君だけだから」
 突然の事態に、安藤は背中に汗をかく。
 まじか。
 そんなつもりでここに来たわけではなかった。
 物見遊山。そう、ただの観客として、安藤は来たのだ。
 突如として物事の中心に放り出され、困惑する。
 そこで手を上げたのは蒼井だ。
「待て、彼にそんなことをさせるわけにはいかない」
「でも蒼井さん、それしか方法はないんですよ。断言します、他にあの人を取り戻す方法はありません」
 じゃんけん小僧は安藤の袖を引いた。
 ぞっとして、飛びのく。
 安藤の行動が意外だったのか、はたまた別の理由か、じゃんけん小僧は笑い出す。けらけらとした笑い方は、安藤に恐怖を増長させるものだった。
「そんな顔しないで。蒼井さんの願いを叶えるために、君がやるんだよ」
「俺、が」
 引きずり込まれるような声だった。立っていたら、安藤は膝から崩れ落ちていたかもしれない。
 これがただの小学生なわけがない。
 じゃんけん小僧。
 目の前の存在は妖怪だと確信して、安藤は僅かに引き下がった。
 これは夢ではない。
 人が消えるとか、記憶が消えるとか、胸の奥にある違和感とか。
 すべては現実だった。
 そうでなくては、胸がこんなにざわつくはずがない。
 もし、負けたら?
 安藤は、いったい何を差し出せるのか?
 こんな空っぽの人間が差し出せるものなんて――。
「やめろ」
 蒼井の言葉が、思考を消した。
「勝負なんてやる必要はない」
「でも」
「君は覚えてすらいないんだろう」
 そうやけど、とは言えなかった。
 確かに忘れている。けれど、何かもやもやする。
 知らないはずだけれど、知っているのだ。
 六つの目がこちらに向いている。
 そんなに見たところで、安藤の気持ちが分かるわけでもないのに。
 言葉にならない感情が湧き上がってきて、安藤は拳を上げた。
「やってやろうやないか!」
「なっちゃん! 何言ってんねん!」
 石井がすかさず止めにかかる。
「止めんな! 俺はむしろ、その人を取り返さへんとあかん気がしてきた!」
「自暴自棄は最も馬鹿げてる」
「そんなことない! 俺は、たぶんその人を取り戻すために生まれてきてん!」
「なっちゃんあかん、変にハイになっとるで!」
「俺はいつも二番やねん!」
 安藤は腕を回した。
 やる。
 やるぞ。
 やるしかない!
 突如として湧き上がって来た強い気持ちは、安藤の心臓を鋼で固めていく。
 じゃんけん小僧の目を見ていると、頭がくらくらしそうだった。
「じゃんけん小僧! 勝負や!」
「いいね。待ってたよ」
 小さな手が差し出される。
「やめやめ!」
 石井の制止を吹き飛ばし、「最初はグーってやるんか! ん?」と叫ぶように言う。
 何とでも言うがいい、という気持ちだった。
 自分らしくない決断であることは重々承知だが、今やらなければ駄目だと思ったのだ。説明をしろと言われても、出来るものではない。
 突然そんな気がした。
 理由はそれだけである。
「じゃんけんぽん、で良いんじゃない?」
「じゃあそれで!」
「おいなっちゃん!」
「止めんなりっきー! 俺はもうやる!」
 安藤は勢いよく手を上げた。じゃんけん小僧は、にっこりと笑う。
「じゃあ掛け声は僕がやるよ。準備は良い?」
 不気味な声に、勢いが一瞬冷める。一秒だけ考えて、安藤は右手を握って前へ出した。
「……俺はグーを出す」
 駆け引きのつもりで言えば、じゃんけん小僧は「なら僕はパー」と手を開く。心の内は全く読めない。安藤は続けた。
「と言いつつ俺がチョキを出す可能性もある」
「いいよそういうの」
 じゃんけん小僧は「うざったいから」とはっきり言うと、手を振った。
 駆け引きなんて、じゃんけん小僧には通用しないようだ。
 安藤は諦めて、手を出す。
 一回きりの、真剣勝負が始まる。
 じゃんけん小僧は口を開いた。
「じゃんけんぽん!」
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