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唇かと思ったもの

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「お客様がお帰りだ」

 振り向きもせず、ジスランが使用人たちに言う。

 その後もクリステルは何か言っていた。だがこれ以上玄関ホールでわめき散らすのも淑女らしくないと察したのか、「また参りますわ! ごめんください!」と最後に大きな声で挨拶をし、城から出て行ったようだ。

「あ……、あの」

 女性とは言え、コレットは成人女性なりの体重がある。彼女がジスランにしがみつく助けがあるとしても、抱き上げる力はほぼ腕のみだ。申し訳なくて何か言いかけたコレットを、ジスランはジロリと睥睨して黙らせる。
 今まであまり感情の起伏の分からない彼と過ごしていたが、それなりにジスランが喜んだ顔や不機嫌になった時も理解していたつもりだった。だがいまは、いまだコレットが知らない〝怒った〟顔をしている。

 ようやっと解放されたのは、コレットの部屋として宛がわれているいつもの寝室だった。

「んっ」

 大きなベッドの上に放り投げられ、マットレスが軋む音と同時にコレットが弾む。

「あの」

 すかさず起き上がって何か言おうとしたコレットの目の前で、ジスランがコートを脱ぎ捨てた。帽子や襟巻き、手袋も放り、幾何学模様の絨毯の上に上等な品が無造作な形をとる。
 紺色のジャケットもソファの方に放り、底知れない怒りを秘めた目でコレットを見下ろしつつ、クラバットをシュルッと解いた。

「怒って……いらっしゃいますか? あの、お話をさせてください」

 これから待ち受けている折檻を想像し、コレットは必死に彼を宥め、平和的な話し合いをしようとしていた。起き上がってベッドから下りようとするが、グイッと腕を引っ張られて中央に戻されてしまう。

 挙げ句、コレットの腰の上に馬乗りになったジスランは、クラバットでコレットに目隠しをした。

 ギュッと布が擦れ合う音がし、後頭部でクラバットがきつく結ばれる。何も見えず怖くなったコレットは、仰臥したまま手を彷徨わせた。

「……お願いです。あなたと、ちゃんとお話をさせてください」

 震える声に、一瞬彼が息を呑んだ気配がする。中空を頼る手を握られ、甲に柔らかなものが訪れる。

 ――キスをしてくれた。受け入れてくれた。

 安堵したのも束の間、首元までボタンのあるデイドレスが、力任せに左右に引っ張られた。

「!」

 バリッと布地が破ける嫌な音がし、ポトポトと小さな音が幾つか聞こえたのは、ボタンが弾け飛んだのだろうか。薄いシュミーズもレースの部分から引き裂かれ、胸元から胃の辺りに外気が入り込んだ。

「ジス……ラン、さま」

 抱かれ慣れた相手でも、怒らせた状態だと何をされるか分からず恐ろしい。見えないから、彼が無言だからこそ、激しい怒りが肌を刺すように伝わってくる。
 次に何をされるのか怯えていると――、不意に剥き出しの胸に手が這い、何かがモフッと埋まってきた。

「…………?」

 そのままギュウッと潰されそうなほど、強く抱かれる。
 おずおずと手を伸ばすと、ジスランがコレットの胸元に顔を埋めていた。彼の髪に触れ、肩を撫でて気付く。

 ――震えていた。

「……ジスラン様?」

 あの、何があっても動じないような彼が、震えている?
 加えて、胸元に熱い雫が垂れ、不規則な呼気を感じる。

 ――泣いている?

 恐ろしさも忘れ、動揺したコレットは彼を撫でた。指通りのいい金髪や、形のいい耳。襟足から首、肩と。背中をポンポンと撫でるさまは、まるで母親になった気分だ。

「……っ、どこにも、行くな」

 声はそれほど乱れていない。さすがに嗚咽までしないようだ。
 だがとても熱く湿った声で言われ、コレットは自分の愚かな行動が彼を深く傷付けたのだと思い知った。

「……はい。ずっとお側におります」

 従順な返事をし、コレットまでもがクラバットの奥で涙を浮かべ、高級な布を濡らしている。

「……俺が許可しない人間と会うな」

 誰に取り繕うでもない、剥き出しの心が両手の中にあると思った。

「……はい。私にはジスラン様と、このお城だけです」

 軟禁されていると言ってもいい状況なのに、コレットはもう既にこの城の主を愛してしまっていた。

 決して「好き」と言わず、キスもしてくれない。
 だがそれ以外のすべてで、コレットを求め、執拗な情を傾ける不器用なひと。

 彼が身じろぎし、胸に熱い吐息がかかったかと思うと先端がパクリと咥えられた。いつものようにいやらしい舌技をひらめかせるでもなく、幼子のようにちゅうちゅうと乳首が吸われる。

「……外に出るな」

 掠れた声が命じる。
 コレットを、豪奢な城の奥に閉じ込める命令だ。

「仰せのままに致します」

 やわらかに応える女の声は、自ら安寧な虜囚になる運命を受け入れていた。

 ――そんなことで、この人の心の平安が保たれるのなら。
 ――この豪奢な牢獄にいれば、体だけでも愛してくれるのなら。
 ――どうぞ、喜んで私という名の供物を捧げます。

 自分の身を捧げ誰かを愛するということが、こんなに高尚な気持ちになると思わなかった。
 たとえそれが普通ではない関係だとしても、コレットは確かに命の恩人を愛しているのだ。ジスランは自分のすべてを文字通り見た。それでもなお、側に置いて求めてくれる。ならば彼に対し、コレットだって何を拒絶することもない。

「……ジスラン様」
「……なんだ」

 愛しさが溢れ彼を呼ぶと、乳首から唇を離したジスランが少し不機嫌に応える。

「好きです」

 口にした想いは、目隠しの勇気を借りてのものだ。
 いつのまに呼吸が震え、感情が高ぶり手までもが震えていた。

 その両手でジスランを抱き、自ら膝を立て彼を包み込む。

「好き。……なんです」

 ――どうしたらこの想いは届くのだろう?

 秘めていた想いを口にし、コレットの感情はさらに高ぶる。ギュウッとジスランの頭を抱き、今まで言いたくても言えなかった言葉を迸らせた。

「好きなんです……っ。あなたが私を愛人としか見なくても、体だけと思っていても……っ。どうしても、想いが止められません……っ。こんなに誰かに優しくされたのも、大切にされたのも、きっと初めてです……っ」

 今度はコレットのほうが泣き出し、嗚咽する。激しくしゃくり上げ、縋るようにジスランを撫で続けた。

「……あなたは記憶がないだろう」

 どこか勃然とした声に、コレットはブンブンと首を振る。

「そんなのっ、なくたって分かります! 優しくしてくれたかもしれない両親の記憶を忘れ、いまの私にはジスラン様だけなんですもの。胸の奥にあるはずの温かなものより、あなたとの毎日が鮮烈すぎて、他に何も考えられません……っ」

 顔が撫でられ、ジスランの指が涙の雫を拭い取った。コレットの顔の輪郭を辿り、柔らかな下唇を何度も指がなぞる。

 そして、唇に何かが押しつけられた。

 ほんの僅かだけ温もりを預け、すぐに離れてゆく。

「……え」

 ――キスをされた?

 一瞬歓喜するも、目隠しをされているので分からない。

「ジスラン様……、いま、キスをしてくださいましたか?」

 期待を込めて問うコレットに、ジスランは少し黙し――、答える。

「指だ」

 ふふ、と微かに笑い、また唇に何かが訪れた。
 指だと言われると、確かにそれは二本揃えられた指先なのかもしれない。でも――。

「……着替えてくる」

 マットレスがたわみ、ジスランの温もりが離れてゆく。
 先ほどばらまいた衣服を簡単にソファの上にまとめる音がし、彼の気配が続き間の方に向かってゆく。

「……あの!」

 起き上がったコレットは、目隠しを取ってジスランの背中を目で追った。
 今のを、どう捉えたらいいのだろう?

 困惑しきったコレットに、扉框に手を掛けたジスランが振り向き、僅かに微笑んだ。

「すぐ戻る。これから夕食だろう」

 いつもの彼だ。でも、何かが違うと信じたい。

「……はい!」

 返事をしたあとジスランは自室へ向かい、コレットはベッドの上で呆けていた。

「……指、だったのかしら」

 呟いて、自分の指を二本揃えて唇に当ててみる。
 似ている……気がするけれど、違うかもしれない。そもそも、コレットは唇のキスを知らない。

「……もう。意地悪」

 呟いてからむくれてみせ、その後クシャッと破顔した。手に握ったままのクラバットを見つめ、続き間のほうを気にしてからそっと匂いを嗅いだ。
 ジスランからいつも仄かに香る、ウッディムスクが鼻腔を刺激する。それだけで組み伏せられ、コレットが甘く喘ぐ場所を刺激される時を思い出し、体が熱くなった。

(嫌だわ。私、はしたない)

 下腹部で蜜が滴る感覚があり、コレットは一人赤面する。

「……私も着替えないと」

 心許ない胸元を押さえてベッドを下りるが、ジスランに服を破られたことを不快だと思っていなかった。
 使用人に言われたことに逆らい、クリステルと話し玄関に近付いた自分が悪いのだ。

(もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなければ。ジスラン様に嫌われてしまうわ)

 そうなってしまえば、ここから放り出されるよりもっと恐ろしい心地になると思う。

「……愛人だもの。ご主人様の言いつけはきちんと守らないと」

 自らに言い聞かせてから、コレットはエマを呼ぶためにベルを鳴らした。
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