伝統民芸彼女

臣桜

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死の影1

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 そして、それから四日後。
 ハヤテが倒れた。

 土曜日の朝、爺ちゃんがいつも通り散歩に連れて行こうとしたら、まだ暑くなっていないが蝉が鳴いているなか、ハヤテは小屋から出て来ずに爺ちゃんが不思議に思ったらしい。
 バタバタとした空気を俺は初め何なのか察する事ができず、いつも通り食卓で朝食をとっていた。
「ハヤテが――」
 けど、玄関の方からそんな声が耳をかすると、途中だった飯を放って慌ててハヤテの所へ駆け付けた。
「爺ちゃん! ハヤテは!?」
「大きな声出すな。まだ生きてるよ。今日午前中から病院連れてくから」
 不安そうな色を表情に滲ませたまま、そう言う爺ちゃん。
 玄関には使わないバスタオルを敷いた上にハヤテが寝かされ、ハッハッと浅い息を繰り返している。その舌の色はいつものピンクではなく、白っぽかった。
「ハヤテ、ハヤテ」
 泣き出しそうになった俺は、玄関の叩きの上に膝をついてハヤテを撫でる。毛皮があるからよく分からないけど、それでも心なしか体温が低い気がした。
「早く病院行こうよ! ハヤテが死んじゃう」
「病院は九時からなんだよ」
 苦虫を潰したような爺ちゃんの顔を見て、俺は思い切り自分の膝を殴った。
 頑張れ。
 頑張ってくれ、ハヤテ。
 ふと、玄関ドアの横にある擦りガラスの向こうに黒い影があった気がして、俺はハッとなりサンダルをつっかけてドアを開けていた。
「あっ……」
 クロがいた。
 まるでたった今玄関フードに立っていたように、玄関フードの外を真っ直ぐ道路の方へ向かって歩いている。
「どうした? 拓也」
「何でもない! ちょっと行ってくる! 病院行く時、俺も行くから!」
 そうまくし立てて俺は玄関フードの戸を開け、それから思い出してまた玄関に首を突っ込む。
「飯、食べるからそのまんまにしといて!」

「クロ!」
 玄関フードの戸をおざなりに閉めて黒い和ゴスの後姿を追い掛けると、黒いパラソルを差した後姿が面倒臭そうにこっちを見た。
「お前……」
「……残念だけど、あの子はもう手遅れだわ」
「嫌だ!」
 咄嗟に俺はそう叫んでいた。
「ハヤテは……俺たちの家族なんだ! 俺の弟なんだ!」
「誰にだって寿命はある。苦しませずに逝かせてやった方がいいわ」
 夏の朝の風が吹いて、俺の髪を逆立てるように撫でてゆく。けれど、目の前にいるクロの髪はフワリともなびく事はなかった。その鎮静の黒の中に、この世ならざるものを感じる。爽やかな夏の朝だというのに、俺の背筋の産毛がゾッと逆立った。
「……まだ死んでない」
「死の臭いが強い。……もう助からない」
 ハヤテの死を覆そうとしないクロに、俺はカッとなって声を荒げた。
「生きてる奴の根性舐めんなよ! この世界には奇跡って言葉があるんだ!」
 だがクロは感情の窺えない黒い目で俺を見たまま、やはり動じずに言う。
「奇跡っていうもののすぐ側には、絶望があるわ。それを忘れない方がいいと思う」
 言われたセリフの酷さに俺が言葉を失っていると、玄関が開いて爺ちゃんが怪訝そうな顔でこっちを見た。
「拓也ぁ、なぁに独りごと言ってるんだ。恥ずかしいからやめとけ。それより病院一緒に行くなら、飯食っとけ」
「あ、うん!」
 やっべ! 恥ずかしい。
 クロを見るとまだそこにいて、やっぱり感情が分からない顔をしているけれど、一言。
「ご飯食べてきたら?」
「…………」
 違う意味で恥ずかしい。
「人の子は食べないとお腹すくんでしょ」
 そう言ってクロは縁に黒いフリルがついたパラソルを少し揺らし、少しずつ強さを増そうとしている太陽を見上げてから――、また空気の中に姿を溶かしていった。

**

 その後、俺は家の中に戻ってほとんど味を感じないまま朝飯をかき込み、後はただ玄関の上がり框に座ってハヤテを撫でていた。
 後ろに彼女たちの香りを感じた気がしたが、俺は振り返らなかった。
 ただ今はハヤテが心配で堪らない。
「死なないよな、ハヤテ。ちょっと具合悪いだけだよな。病院行って点滴とかしてもらったら、元気になるよな」
 いつも撫でた時に温かくて毛が気持ちいいと思っていたハヤテの体は、動物特有の体温の高さが失われていて、まるで人肌のような微かなぬくもりがあるだけだ。
 苦しそうにハッハッと白っぽくなってしまった舌を出して息をするのも、時折ハァッと疲れたような大きな息を吐きだす。
「ハヤテ……」
 嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 ふと、何だか視界の端に黒い物が入った気がして、俺は思わず目をこすった。
 けれど、視界の端にチラチラと黒い――布を引きずって歩いているような物の『名残り』みたいなものが見える。
「クロ?」
 彼女かと思って呼びかけるも、返事はない。
 不思議に思いながらもハヤテの側に付き添っているが、その『黒い何か』は絶えず視界の端に入っていて、おまけに何て言うか嫌な臭いがする。
 腐臭――に似ている。
 一度七海に「ちょっとこれ駄目になってないか確認して」と、色の悪くなった肉の臭いを嗅がされた事がある。あの時の臭いに似ていて、とても――匂いに温度があるのかは分からないが、冷たい臭い。
 凄く嫌な感じだ。
「槐……、藤紫、ギン」
 廊下の方へ身を乗り出してひい婆ちゃんの部屋の方を向き、そう呼び掛けると襖をすり抜けて彼女たちが姿を現した。
「助けてくれ。何か……凄く嫌な感じがするんだ」
 三人は俺とハヤテの側に来て、じっと玄関のドアの方を見ていた。
「そこに何かいるのか? 何か――悪いものが来ているのか?」
 不安を隠せない俺の声を聴いて、藤紫がその場にふわりと座り、途端に彼女からいい匂いが香ってきた。
「わてにはこないな事しかできひんけど、すこぉしでもこの子が楽になれればええね」
 そう言って藤紫は俺の目を見つめながら手を差し出してきて、無言で「手を握って」と訴えているのだと察した俺は、そっと白くて細い手を握った。
「……!」
 途端に、藤紫のいい匂いが強くなった。
「う……」
 目の奥熱くなって、鼻がツンとする。
 懐かしくて、安心して堪らない。
 もう覚えてないけど、まだ幼稚園とかそういう年齢の頃に母さんにベタベタに甘えていた時のような、甘くてくすぐったいような、そんな匂い。
 目の前に大きな藤棚が現れて、一面の花房のカーテンが揺れたような気がした。
 そして、目の前に寝ているハヤテが、弱々しくパサリと尻尾を振る。
「きっとこの子にもええもんが見えてはるえ」
 藤紫がそう言いハヤテを撫でようとするのだが、その手はスッとハヤテの頭をすり抜けてしまった。
「……クロは撫でてた気がするけど、藤紫は触れないんだね」
「わしらとイミとは、似ているが異なる存在じゃからの」
 正座をしているギンがそう言い、ふと彼女の方を見てその隣に座っている槐を見て、俺はギョッとして「あぁっ」と変な声を出していた。
 ――槐が、微笑んでる。
 こ、怖い……。
 普段無表情か、怒っているような無表情しか印象のない槐が微笑んでいると、ほんっとうに怖い。
「ど、どうしたの? 槐。何かいい事があった?」
「その子、もうそろそろだべな」
 顔は笑っていても、槐の冷静な声はそのままだ。だから余計に薄気味悪い。
「拓也、槐は何の九十九神か覚えておるか?」
「え? ニポポの……」
 と言われて、ニポポという物が大抵の物は小さく笑っている物だと思い出した。
「拓也はん、目の前に何やいてるの分かる?」
 俺の手を握ったまま藤紫が言い、それに俺は頷く。
「さっきから何だか変な黒い物がチラチラ見えるんだ。ハッキリ見えないけど……黒くて長い服を着た何かの裾……っていうか。クロなのか?」
 俺の言葉に三人は顔を見合わせ、ギンが答える。
「まだハッキリは見えておらんのじゃな。イミはあの世への道案内であり守護者だが、今目の前におるのは……死そのものじゃ」
 また、夏だというのに冷たい手で首筋を触れられたような感じになり、俺は知らずと藤紫の手を強く握っていた。
「ハヤテは……連れて行かせないぞ」
 振り絞った声は、情けないけど震えていた。
 まだ視界の端に黒い物は見える。
 金魚の尻尾のようにヒラヒラとしているそれは、まるで強がる俺を嘲っているようにも見えた。ぐっと奥歯を噛みしめ、俺はひたすらに片手で藤紫の手を握り、片手でハヤテを撫で続ける。幸いだったのは、藤紫が発するいい香りが死の臭いを打ち消し、ハヤテは変わらず息を浅くしながらも、穏やかそうな目をしていた事だった。

**
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