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死の影4
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爺ちゃんが二番目の受診を勝ち取ってくれたお陰で、ハヤテを早い段階で診察台に乗せてあげる事ができた。
でもその頃には、ハヤテは自力では立つ事ができないほど消耗していた。
「舌の色が悪いのは、血液が全身に上手く回っていない証拠です。これから血液の巡りを良くさせる注射を打って、酸素を嗅がせますから、待合室で待って頂けますか?」
女性の獣医師はそう言って、俺たち三人は処置室を出ざるを得なくなった。
大丈夫だろうか? ハヤテ、寂しくないかな。
閉じてしまったドアの前で立っていると、藤紫が俺の顔を覗き込んできた。
「拓也はん、わてあの子についてたげるな。大事な子なんやろ。わての香りで少しでもあの子が楽になるなら、拓也はんが安心できるならそうしたい」
にっこりと優しく微笑む美女は、まるで女神様か何かのように見えた。
「ありがとう、藤紫」
小声で礼を言うと、藤紫はまたニコッと微笑んでからドアの向こうへすり抜けていった。
それから小さめの待合室で、俺たち三人は何となく前に置いてあるテレビを見て過ごす。周りには小さめの犬や、大型犬でも大人しい子を連れた飼い主たちがいて、少なくとも自力で動く事のできる子は元気なんだな、と俺はぼんやりと思っていた。
彼らには彼らの事情があるから、もしかしたら病気だったり怪我をしているかもしれない。
でも俺たちの大事な家族のハヤテが死神に魅入られている今、生きている事そのものがとてつもない『幸運』に恵まれている気がした。
俺の目の前には、槐とギンが立っている。
「拓也、そこに座ったままでも良い。また挑戦してみるか?」
ギンが手を差し出してきて、俺はその手を握ってみる。
「拓也、頑張れ」
槐までもが、そう励ましてくれた。
祈るようにギュッと目を閉じると、閉まってしまった処置室のドアが目蓋の裏に焼き付いている。
「拓也、雑念が多い」
ギンの声が聞こえた。
分かってるよ。
ギンの手をギュッと握って、腹の底に重力のある石が置かれたような気持ちで集中してみた。
黒い。
真っ黒な闇の中に俺はいた。
足元も真っ黒で、でもそこは水なんだと分かる。
一面の闇を映した、透明な水の上に俺は立っている。
手にあるギンの感触だけを頼りにその闇を見つめ続けていると、目の前にまた銀色の『もや』が蟠っているのが分かった。
これが――ギンの本体なのか。
いや、ギンの本体は家の床の間にある刀だ。
「そのまま、刀を想像してみよ」
またギンの声が聞こえた。
刀――ギンの本体は毎日あの床の間で見掛けていても、実際抜いたりとかは危ないからしちゃいけないと、きつく言われていた。けれど、何度か持たせてもらった事だけはある。
ずっしりと重たい、本物の日本刀の感触。
できるだけあの時の感覚を思い出し、リラックスして座ったままの俺の両手は、自然と刀を握るように前後していた。
もちろんそれも、想像でしかない。
剣術なんて習った事もないし、新年の時とかに神社で奉納の剣舞とかをしている人達を格好いいと憧れても、何年も修行している彼らと俺は違う。そう思って諦めた。
だから、俺が握っているその手も、想像でしかない。
刀身。
ギンの髪のように、日の光に当たって白く光る銀。スッと長く、刃こぼれ一つなく美しい一振りの日本刀。
「そうじゃ。美しい刀を想像してくれたのう」
闇の中で、ギンが嬉しそうな声で喜んでいるのが分かる。
「もう少し意識を研ぎ澄ませてみよ。そうしたら刀身がしっかりとした形になる」
言われるがまま俺は全神経を両手に集中させ、その先に細長い刀身が伸びているのを想像した。
凛としていて清々しいギンそのもののような、冴え冴えと冷たく光る銀色の刀身。
穢れたものを薙ぎ払い、忌まわしい存在を打ち払う美しくて神聖な武器。
暗闇の中で、ギンが満足そうに頷くのが分かった。
「目を開けてみよ」
肩をポンと叩かれてゆっくりと目を開くと、俺の肩に手を置いているのは槐だった。
目の前にさっきまで立っていたギンはいなくて、代わりに俺の両手には日本刀が握られていた。
「……!」
とっさに隣に座っている母さんを見るが、母さんはぼんやりとテレビを見たままだ。そっと待合室を見回してみても、俺が日本刀を持っている事に気付く人はいない。
「誰にもギンの姿は見えていねぇから、安心しろ」
やっぱり微笑んだままの槐の声がするのと同時に、キィと小動物が鳴くような声がしてそっちを見ると、……何だ? 黒くて小さな、影絵でできたような『何か』がいる。
目をこらしてじっと見ているが、それは一貫性のない行動を取りながら、待合室にいる動物たちに纏わりついていた。
「拓也、わしの切っ先で穢れをつついてみよ。それで拓也がどの程度の力を持っているのかが分かる」
「うん」
やっぱり周りに不審者と思われない程度の音量で返事をして、そっと手元だけ動かして日本刀の切っ先でちょん、と影絵のようなソレをつついてみた。
「あっ」
と、ソレはあっという間に空気に溶けるようにして、姿を消してしまった。
「まずまずだな」
槐がそう言い、手にしているギンも満足そうにしているのが伝わってくる。
というかこのギンを手にしている状態は、ギンの存在を凄く近くに感じる。
藤紫の手を握った時に彼女の香りが強くなったのを感じたように、ギンの鋼のように真っ直ぐで強い意志をビシバシと感じる。
目の前で起きた事をあまり頭の中で理解していないまま、ぐるりと待合室の中を見回してみると、そこここにケガレのちっこいのがいて、俺はギョッとした。
「ここは死が付きまとう場所じゃから、穢れは当たり前のようにおる。絹が存命していた頃、前に飼っていた犬を医者に見せた時も同じじゃった」
ギンの声を聴きながら、俺は胸の奥からゾクゾクとしたものが体を震わせるのを感じていた。
なんだ、これは。
恐怖? 知らない世界を目にした驚き?
目に見えない『死』に付きまとう影を見た――異形への嫌悪?
「拓也。言っとくけど、小さな穢れを一匹消滅させる毎に、あんたの心身は消耗してく。新しい世界が見えて、命を救いたいという気持ちも分かるけど、分相応の事をしねぇと拓也が倒れるからな」
確かに、さっき小さいのを消した時に、一瞬だけ体が疲れを感じたような気がした。
でも……これでハヤテが救えるなら。
処置室の方を見ると、午前中だっていうのにそっちがやけに薄暗く見える。ドアの隙間から黒いものがはみ出ていて、それが気になって仕方がない。
藤紫は大丈夫なんだろうか?
ハッとなって彼女の存在を思い出し、心配になった。
だってケガレっていうのは、彼女たちのいい匂いを嗅いで集まって、襲ってくるんじゃなかったのか!?
「……!」
バッと立ち上がった俺を、母さんと爺ちゃんが不思議そうに見上げた。
「拓也、まだ呼ばれてないんだから」
真っ直ぐに処置室の方へ歩く俺を見て母さんが呼び止め、俺はハヤテと藤紫の二人分を心配してドアの前に立つ。
「今は下手な手出しはやめとけ」
槐が言う通り、ドアの向こうには小物のケガレとは圧倒的に存在感が違う、『大物』がいるのが分かる。嫌でも悪寒がはしり、少しでも気を緩めたら涙とかそういう生理的なものが出てしまいそうだった。
このドアの向こうに、――いる。
圧倒的な存在の『何か』が。
そしてそれは十中八九、死神だ。
「拓也、やめろ」
槐が止めようとするのを無視して、俺はゴクリと生唾を飲み込んでから、ギンの切っ先でドアからはみ出ている黒いヒラヒラをつついてみた。
「――ぁっ」
全身の力が一瞬で持っていかれるかと思い、俺は小さな悲鳴を上げてドアの側から飛び退る。
さすがにこれには待合室の後方にいた人が、チラッと俺を危ない人を見る目で見る。それでも不思議そうな顔をしてから、またテレビや同行者、ペットに意識を戻していった。
――やべぇ。
――今の、すっげぇやばかった。
一瞬で『持っていかれる』所だったのが、自分でも分かる。
「拓也、気持ちは分かるが今はお主の力不足じゃ」
「……でも!」
このドアの向こうには、ハヤテと藤紫が!
――その時だった。
「あっ」
ドアが開いて中から助手さんが顔を出し、ドアのすぐ外にいた俺に驚いた顔をしたが、「三神さん」と爺ちゃんと母さんを呼んだ。
ドアの中を覗いて――、俺は凍り付いた。
いる。
真っ黒な死の影が立っている。
でもその頃には、ハヤテは自力では立つ事ができないほど消耗していた。
「舌の色が悪いのは、血液が全身に上手く回っていない証拠です。これから血液の巡りを良くさせる注射を打って、酸素を嗅がせますから、待合室で待って頂けますか?」
女性の獣医師はそう言って、俺たち三人は処置室を出ざるを得なくなった。
大丈夫だろうか? ハヤテ、寂しくないかな。
閉じてしまったドアの前で立っていると、藤紫が俺の顔を覗き込んできた。
「拓也はん、わてあの子についてたげるな。大事な子なんやろ。わての香りで少しでもあの子が楽になるなら、拓也はんが安心できるならそうしたい」
にっこりと優しく微笑む美女は、まるで女神様か何かのように見えた。
「ありがとう、藤紫」
小声で礼を言うと、藤紫はまたニコッと微笑んでからドアの向こうへすり抜けていった。
それから小さめの待合室で、俺たち三人は何となく前に置いてあるテレビを見て過ごす。周りには小さめの犬や、大型犬でも大人しい子を連れた飼い主たちがいて、少なくとも自力で動く事のできる子は元気なんだな、と俺はぼんやりと思っていた。
彼らには彼らの事情があるから、もしかしたら病気だったり怪我をしているかもしれない。
でも俺たちの大事な家族のハヤテが死神に魅入られている今、生きている事そのものがとてつもない『幸運』に恵まれている気がした。
俺の目の前には、槐とギンが立っている。
「拓也、そこに座ったままでも良い。また挑戦してみるか?」
ギンが手を差し出してきて、俺はその手を握ってみる。
「拓也、頑張れ」
槐までもが、そう励ましてくれた。
祈るようにギュッと目を閉じると、閉まってしまった処置室のドアが目蓋の裏に焼き付いている。
「拓也、雑念が多い」
ギンの声が聞こえた。
分かってるよ。
ギンの手をギュッと握って、腹の底に重力のある石が置かれたような気持ちで集中してみた。
黒い。
真っ黒な闇の中に俺はいた。
足元も真っ黒で、でもそこは水なんだと分かる。
一面の闇を映した、透明な水の上に俺は立っている。
手にあるギンの感触だけを頼りにその闇を見つめ続けていると、目の前にまた銀色の『もや』が蟠っているのが分かった。
これが――ギンの本体なのか。
いや、ギンの本体は家の床の間にある刀だ。
「そのまま、刀を想像してみよ」
またギンの声が聞こえた。
刀――ギンの本体は毎日あの床の間で見掛けていても、実際抜いたりとかは危ないからしちゃいけないと、きつく言われていた。けれど、何度か持たせてもらった事だけはある。
ずっしりと重たい、本物の日本刀の感触。
できるだけあの時の感覚を思い出し、リラックスして座ったままの俺の両手は、自然と刀を握るように前後していた。
もちろんそれも、想像でしかない。
剣術なんて習った事もないし、新年の時とかに神社で奉納の剣舞とかをしている人達を格好いいと憧れても、何年も修行している彼らと俺は違う。そう思って諦めた。
だから、俺が握っているその手も、想像でしかない。
刀身。
ギンの髪のように、日の光に当たって白く光る銀。スッと長く、刃こぼれ一つなく美しい一振りの日本刀。
「そうじゃ。美しい刀を想像してくれたのう」
闇の中で、ギンが嬉しそうな声で喜んでいるのが分かる。
「もう少し意識を研ぎ澄ませてみよ。そうしたら刀身がしっかりとした形になる」
言われるがまま俺は全神経を両手に集中させ、その先に細長い刀身が伸びているのを想像した。
凛としていて清々しいギンそのもののような、冴え冴えと冷たく光る銀色の刀身。
穢れたものを薙ぎ払い、忌まわしい存在を打ち払う美しくて神聖な武器。
暗闇の中で、ギンが満足そうに頷くのが分かった。
「目を開けてみよ」
肩をポンと叩かれてゆっくりと目を開くと、俺の肩に手を置いているのは槐だった。
目の前にさっきまで立っていたギンはいなくて、代わりに俺の両手には日本刀が握られていた。
「……!」
とっさに隣に座っている母さんを見るが、母さんはぼんやりとテレビを見たままだ。そっと待合室を見回してみても、俺が日本刀を持っている事に気付く人はいない。
「誰にもギンの姿は見えていねぇから、安心しろ」
やっぱり微笑んだままの槐の声がするのと同時に、キィと小動物が鳴くような声がしてそっちを見ると、……何だ? 黒くて小さな、影絵でできたような『何か』がいる。
目をこらしてじっと見ているが、それは一貫性のない行動を取りながら、待合室にいる動物たちに纏わりついていた。
「拓也、わしの切っ先で穢れをつついてみよ。それで拓也がどの程度の力を持っているのかが分かる」
「うん」
やっぱり周りに不審者と思われない程度の音量で返事をして、そっと手元だけ動かして日本刀の切っ先でちょん、と影絵のようなソレをつついてみた。
「あっ」
と、ソレはあっという間に空気に溶けるようにして、姿を消してしまった。
「まずまずだな」
槐がそう言い、手にしているギンも満足そうにしているのが伝わってくる。
というかこのギンを手にしている状態は、ギンの存在を凄く近くに感じる。
藤紫の手を握った時に彼女の香りが強くなったのを感じたように、ギンの鋼のように真っ直ぐで強い意志をビシバシと感じる。
目の前で起きた事をあまり頭の中で理解していないまま、ぐるりと待合室の中を見回してみると、そこここにケガレのちっこいのがいて、俺はギョッとした。
「ここは死が付きまとう場所じゃから、穢れは当たり前のようにおる。絹が存命していた頃、前に飼っていた犬を医者に見せた時も同じじゃった」
ギンの声を聴きながら、俺は胸の奥からゾクゾクとしたものが体を震わせるのを感じていた。
なんだ、これは。
恐怖? 知らない世界を目にした驚き?
目に見えない『死』に付きまとう影を見た――異形への嫌悪?
「拓也。言っとくけど、小さな穢れを一匹消滅させる毎に、あんたの心身は消耗してく。新しい世界が見えて、命を救いたいという気持ちも分かるけど、分相応の事をしねぇと拓也が倒れるからな」
確かに、さっき小さいのを消した時に、一瞬だけ体が疲れを感じたような気がした。
でも……これでハヤテが救えるなら。
処置室の方を見ると、午前中だっていうのにそっちがやけに薄暗く見える。ドアの隙間から黒いものがはみ出ていて、それが気になって仕方がない。
藤紫は大丈夫なんだろうか?
ハッとなって彼女の存在を思い出し、心配になった。
だってケガレっていうのは、彼女たちのいい匂いを嗅いで集まって、襲ってくるんじゃなかったのか!?
「……!」
バッと立ち上がった俺を、母さんと爺ちゃんが不思議そうに見上げた。
「拓也、まだ呼ばれてないんだから」
真っ直ぐに処置室の方へ歩く俺を見て母さんが呼び止め、俺はハヤテと藤紫の二人分を心配してドアの前に立つ。
「今は下手な手出しはやめとけ」
槐が言う通り、ドアの向こうには小物のケガレとは圧倒的に存在感が違う、『大物』がいるのが分かる。嫌でも悪寒がはしり、少しでも気を緩めたら涙とかそういう生理的なものが出てしまいそうだった。
このドアの向こうに、――いる。
圧倒的な存在の『何か』が。
そしてそれは十中八九、死神だ。
「拓也、やめろ」
槐が止めようとするのを無視して、俺はゴクリと生唾を飲み込んでから、ギンの切っ先でドアからはみ出ている黒いヒラヒラをつついてみた。
「――ぁっ」
全身の力が一瞬で持っていかれるかと思い、俺は小さな悲鳴を上げてドアの側から飛び退る。
さすがにこれには待合室の後方にいた人が、チラッと俺を危ない人を見る目で見る。それでも不思議そうな顔をしてから、またテレビや同行者、ペットに意識を戻していった。
――やべぇ。
――今の、すっげぇやばかった。
一瞬で『持っていかれる』所だったのが、自分でも分かる。
「拓也、気持ちは分かるが今はお主の力不足じゃ」
「……でも!」
このドアの向こうには、ハヤテと藤紫が!
――その時だった。
「あっ」
ドアが開いて中から助手さんが顔を出し、ドアのすぐ外にいた俺に驚いた顔をしたが、「三神さん」と爺ちゃんと母さんを呼んだ。
ドアの中を覗いて――、俺は凍り付いた。
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