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色褪せない思い出2
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「そうね……。大人たちも立ち話をしているようだし、ちょっとだけならいいわよ。あそこの木陰の岩に腰掛けてお話しましょう。この草原は風の通り道になっていて、とても気持ちいいの」
白いレースの手袋を嵌めたリディアは、眩しそうに太陽を見上げ歩き出した。
リディアの手を握ったままオーガストも歩き、ふと自分の身長が彼女よりもずっと低い事に気づく。
「ねぇ、リディアは背の高い男性が好き?」
サクサクと草を踏みしめ歩けば、爽やかな夏の風が通り過ぎる。緑の草が波のようにうねり、ザワザワと音を立てる。
「どうかしら? 私はまだ男の子を好きになった事がないし、社交界デビューをするのも十七歳。あと五年もあるわ」
斜め上のリディアの顔は、陶器でできた人形のように真っ白で日焼けを知らないかのようだ。
「僕が大人になってうんと格好いい男になったら、リディアは結婚してくれる?」
恋愛をした事はないけれど、オーガストはこれを運命だと思った。
こんな美しい少女は絶対に他にいない。おまけに話してみれば知性を窺わせる上品な性格。『お母様』――いや、あの女とは大違いだ。
リディアに出会って、オーガストの世界はグルリとと反転した。
『お母様』に好かれないと世の中の女性すべてと上手くやれないのでは? と不安に思っていた心は一転する。
あの女なんか足元にも及ばないこの素晴らしいリディアを手に入れれば、きっと自分の人生はすべて上手くいくように思えたのだ。
リディアの存在はオーガストの価値観を変えた。
あの女などいなくても、リディアさえいれば世界は輝いている。
風にそよぐシルバーブロンドも、角度によって青にも緑にも見える瞳も、笑うと絶妙に白い歯が見える美しい口元も。全部全部、完璧だ。
「ジュリアンはいま幾つなの?」
「五つ」
「なら……成人する二十一歳まではあと十六年あるわね。そうなったら私は……二十八歳だわ。……どうなのかしらね? 二十八歳と言えば『行き遅れ』だって叔母様が言っていたし。私はなるべく早めに結婚したいわ」
リディアが言っていた木陰の岩まで着き、二人は岩によじ登り地平線を見る。
「じゃあ、リディアが早めに結婚する望みを叶えたら、そのあと僕と結婚してくれる?」
「やだわ。結婚は二度もできないのよ?」
おかしそうに笑うリディアは、その時オーガストが考えていた事など知るよしもない。
――だって先に結婚した男が死んだら、『未亡人』になるんでしょう? そのあとに結婚したら、何の問題もないじゃないか。
リディアの望む事なら全部叶えたい。
けれど何番目でもいいから自分が最後の男になりたい。
五歳のオーガストの心に、黒い種が芽吹きスルスルと育ってゆく。
「……僕、今のお母様いらないんだ。今いらないと思った。だからリディアが僕のすべてになってよ」
「まぁ。お母様を『いらない』なんて思ったらいけないわ。私がもしジュリアンのお母様になって、『いらない』なんて言われたら悲しくて仕方がなくなるもの」
「リディアが僕のお母様に……?」
彼女の言葉を反芻し、次の瞬間オーガストは顔一杯に喜色を浮かべていた。
「……そうだ、それなら上手くいく」
一人呟いた『商人の息子ジュリアン』に、リディアは首を傾げる。
「どうしたの? ジュリアン。……っと、きゃっ」
次の瞬間オーガストはリディアの腰に抱きつき、彼女の香りを思いきり吸い込んでいた。
思い浮かべる計画を進めれば、彼女は自分のものになる。
それが嬉しくて堪らず、オーガストは勝利宣言の如くリディアに抱き締めたのだ。
ザァッと風が吹き抜け、二人の髪を揺らしてゆく。オーガストは頭部を帽子ですっぽり覆っていたので、前髪の先がほんの僅かにそよぐだけだ。
「僕、幸せになるために頑張るよ。リディア」
「……そうね。幸せは待っているだけではなれないから、努力するのも必要ね」
リディアはこの商人風の男の子は、きっと家族と上手くいっていないのだろうと察した。
同行者に護衛がいるという事は、裕福な家庭の証拠だ。けれど彼の発言は少し不穏で、だからこんな場所で一人出歩いているのかもしれない。
彼女自身、一人になりたい時はこうして出歩く事もある。
出会ったばかりのジュリアンのすべてを理解するのは不可能だが、状況を察する事はできる。
「ジュリアン。あなたが将来私を必要とした時、まだ私を覚えていたのなら探して頂戴。あなたの名前はちゃんと覚えておくから、その時は力になるわ」
そう言ってリディアは髪に結ばれていたレースのリボンを解く。
「これをあげる。男の子には不要かもしれないけれど、このリボンがある限り、私がいつでも応援していると思って?」
「ありがとう。一生大事にするよ」
繊細なレースのリボンを受け取り、オーガストは幸せそうに笑う。
「うふふ、一生だなんて大げさだわ。あなたが私を思い出した時でいいのよ」
「そうだね。……きっと忘れる事なんてないけれど」
ギュウッとリディアの薄い体に抱きつき、最後の言葉は彼女に聞こえないよう呟く。
オーガストに生きる目的ができた。
何をしてでもやり遂げたい目標がこの日生まれたのだ。
彼女を騙してでも、自分の肉親を罠に掛けても、絶対にこの美しい少女を自分の側に置き、愛でてみせる。
その時は絶対に立派な体を持つ格好いい大人になっているのだ。
自分が理想とする『お父様とお母様』に、将来の自分たちはなっている。
トロリとした悦楽を得たオーガストは、リディアに抱きついたまま無垢な少年の顔を向けた。
「ねぇリディア。僕はお母様に『いらない』と言われているけれど、リディアがもし僕のお母様になったら、僕を必要としてくれる?」
推測した通りの家庭環境に、リディアは軽く瞠目する。
けれどリディアだって子爵家の娘として領民と接している。父が建設した孤児院で活動をしたり、恵まれない人に料理を振る舞うのを手伝ったりした。
だから裕福そうな五歳のジュリアンが、そのような事を言ってもあまり驚かない。
自分を慕う孤児院の子供を思い出し、彼らにするように優しく抱き締めた。
「大丈夫よ。私がジュリアンのお母様になったら、あなたを大事にするわ。毎日抱き締めて『愛している』と囁く。ずぅっと一緒にいて、夜眠る時もあなたが悪夢を見ないように側にいてあげる」
「……あぁ」
心にゾクゾクとした歓喜を覚え、オーガストは思わず声を漏らしていた。
――この人だ。
――絶対にこの人だ。
――僕に必要なのは、リディア以外にあり得ない。
――彼女さえいれば、他は何もいらない。
「大丈夫。あなたはいつか絶対誰かに愛されるわ、ジュリアン」
芳しい少女の体臭に包まれ、オーガストは小さな体を震わせていた。
――悔しい。
――早く大人になりたい。
――リディアをこの腕の中に包み込み、彼女から見上げられる存在になりたい。
――そのためには……。
「僕、頑張るね。いつか自分の幸せを掴み取るために。大事なものをちゃんと手に入れる未来のために」
リディアは少年の心の機微までは分からないが、辛い事があっても前を向こうという姿勢に微笑んだ。
「応援しているわ。私はいつでもあなたの味方よ、ジュリアン。私はこのランチェスターの屋敷にいるから、いつでも遊びにいらっしゃい」
白銀の睫毛に縁取られた目が細められ、オーガストの頬にちゅっと祝福のキスが訪れた。
「あなたの幸せを、ずっと祈ってる」
オーガストの前でリディアは完璧な微笑を浮かべ、ゆっくりと岩から下りた。
「行きましょう? あなたのお供が心配しているわ」
「……そうだね」
ストンと岩から下り、オーガストは手にあるレースのリボンを握りしめる。
リディアはいつでも来てくれていいと言ったが、真正面からジュリアンと名乗って会いに来る事はもう二度とないだろう。
白いレースの手袋を嵌めたリディアは、眩しそうに太陽を見上げ歩き出した。
リディアの手を握ったままオーガストも歩き、ふと自分の身長が彼女よりもずっと低い事に気づく。
「ねぇ、リディアは背の高い男性が好き?」
サクサクと草を踏みしめ歩けば、爽やかな夏の風が通り過ぎる。緑の草が波のようにうねり、ザワザワと音を立てる。
「どうかしら? 私はまだ男の子を好きになった事がないし、社交界デビューをするのも十七歳。あと五年もあるわ」
斜め上のリディアの顔は、陶器でできた人形のように真っ白で日焼けを知らないかのようだ。
「僕が大人になってうんと格好いい男になったら、リディアは結婚してくれる?」
恋愛をした事はないけれど、オーガストはこれを運命だと思った。
こんな美しい少女は絶対に他にいない。おまけに話してみれば知性を窺わせる上品な性格。『お母様』――いや、あの女とは大違いだ。
リディアに出会って、オーガストの世界はグルリとと反転した。
『お母様』に好かれないと世の中の女性すべてと上手くやれないのでは? と不安に思っていた心は一転する。
あの女なんか足元にも及ばないこの素晴らしいリディアを手に入れれば、きっと自分の人生はすべて上手くいくように思えたのだ。
リディアの存在はオーガストの価値観を変えた。
あの女などいなくても、リディアさえいれば世界は輝いている。
風にそよぐシルバーブロンドも、角度によって青にも緑にも見える瞳も、笑うと絶妙に白い歯が見える美しい口元も。全部全部、完璧だ。
「ジュリアンはいま幾つなの?」
「五つ」
「なら……成人する二十一歳まではあと十六年あるわね。そうなったら私は……二十八歳だわ。……どうなのかしらね? 二十八歳と言えば『行き遅れ』だって叔母様が言っていたし。私はなるべく早めに結婚したいわ」
リディアが言っていた木陰の岩まで着き、二人は岩によじ登り地平線を見る。
「じゃあ、リディアが早めに結婚する望みを叶えたら、そのあと僕と結婚してくれる?」
「やだわ。結婚は二度もできないのよ?」
おかしそうに笑うリディアは、その時オーガストが考えていた事など知るよしもない。
――だって先に結婚した男が死んだら、『未亡人』になるんでしょう? そのあとに結婚したら、何の問題もないじゃないか。
リディアの望む事なら全部叶えたい。
けれど何番目でもいいから自分が最後の男になりたい。
五歳のオーガストの心に、黒い種が芽吹きスルスルと育ってゆく。
「……僕、今のお母様いらないんだ。今いらないと思った。だからリディアが僕のすべてになってよ」
「まぁ。お母様を『いらない』なんて思ったらいけないわ。私がもしジュリアンのお母様になって、『いらない』なんて言われたら悲しくて仕方がなくなるもの」
「リディアが僕のお母様に……?」
彼女の言葉を反芻し、次の瞬間オーガストは顔一杯に喜色を浮かべていた。
「……そうだ、それなら上手くいく」
一人呟いた『商人の息子ジュリアン』に、リディアは首を傾げる。
「どうしたの? ジュリアン。……っと、きゃっ」
次の瞬間オーガストはリディアの腰に抱きつき、彼女の香りを思いきり吸い込んでいた。
思い浮かべる計画を進めれば、彼女は自分のものになる。
それが嬉しくて堪らず、オーガストは勝利宣言の如くリディアに抱き締めたのだ。
ザァッと風が吹き抜け、二人の髪を揺らしてゆく。オーガストは頭部を帽子ですっぽり覆っていたので、前髪の先がほんの僅かにそよぐだけだ。
「僕、幸せになるために頑張るよ。リディア」
「……そうね。幸せは待っているだけではなれないから、努力するのも必要ね」
リディアはこの商人風の男の子は、きっと家族と上手くいっていないのだろうと察した。
同行者に護衛がいるという事は、裕福な家庭の証拠だ。けれど彼の発言は少し不穏で、だからこんな場所で一人出歩いているのかもしれない。
彼女自身、一人になりたい時はこうして出歩く事もある。
出会ったばかりのジュリアンのすべてを理解するのは不可能だが、状況を察する事はできる。
「ジュリアン。あなたが将来私を必要とした時、まだ私を覚えていたのなら探して頂戴。あなたの名前はちゃんと覚えておくから、その時は力になるわ」
そう言ってリディアは髪に結ばれていたレースのリボンを解く。
「これをあげる。男の子には不要かもしれないけれど、このリボンがある限り、私がいつでも応援していると思って?」
「ありがとう。一生大事にするよ」
繊細なレースのリボンを受け取り、オーガストは幸せそうに笑う。
「うふふ、一生だなんて大げさだわ。あなたが私を思い出した時でいいのよ」
「そうだね。……きっと忘れる事なんてないけれど」
ギュウッとリディアの薄い体に抱きつき、最後の言葉は彼女に聞こえないよう呟く。
オーガストに生きる目的ができた。
何をしてでもやり遂げたい目標がこの日生まれたのだ。
彼女を騙してでも、自分の肉親を罠に掛けても、絶対にこの美しい少女を自分の側に置き、愛でてみせる。
その時は絶対に立派な体を持つ格好いい大人になっているのだ。
自分が理想とする『お父様とお母様』に、将来の自分たちはなっている。
トロリとした悦楽を得たオーガストは、リディアに抱きついたまま無垢な少年の顔を向けた。
「ねぇリディア。僕はお母様に『いらない』と言われているけれど、リディアがもし僕のお母様になったら、僕を必要としてくれる?」
推測した通りの家庭環境に、リディアは軽く瞠目する。
けれどリディアだって子爵家の娘として領民と接している。父が建設した孤児院で活動をしたり、恵まれない人に料理を振る舞うのを手伝ったりした。
だから裕福そうな五歳のジュリアンが、そのような事を言ってもあまり驚かない。
自分を慕う孤児院の子供を思い出し、彼らにするように優しく抱き締めた。
「大丈夫よ。私がジュリアンのお母様になったら、あなたを大事にするわ。毎日抱き締めて『愛している』と囁く。ずぅっと一緒にいて、夜眠る時もあなたが悪夢を見ないように側にいてあげる」
「……あぁ」
心にゾクゾクとした歓喜を覚え、オーガストは思わず声を漏らしていた。
――この人だ。
――絶対にこの人だ。
――僕に必要なのは、リディア以外にあり得ない。
――彼女さえいれば、他は何もいらない。
「大丈夫。あなたはいつか絶対誰かに愛されるわ、ジュリアン」
芳しい少女の体臭に包まれ、オーガストは小さな体を震わせていた。
――悔しい。
――早く大人になりたい。
――リディアをこの腕の中に包み込み、彼女から見上げられる存在になりたい。
――そのためには……。
「僕、頑張るね。いつか自分の幸せを掴み取るために。大事なものをちゃんと手に入れる未来のために」
リディアは少年の心の機微までは分からないが、辛い事があっても前を向こうという姿勢に微笑んだ。
「応援しているわ。私はいつでもあなたの味方よ、ジュリアン。私はこのランチェスターの屋敷にいるから、いつでも遊びにいらっしゃい」
白銀の睫毛に縁取られた目が細められ、オーガストの頬にちゅっと祝福のキスが訪れた。
「あなたの幸せを、ずっと祈ってる」
オーガストの前でリディアは完璧な微笑を浮かべ、ゆっくりと岩から下りた。
「行きましょう? あなたのお供が心配しているわ」
「……そうだね」
ストンと岩から下り、オーガストは手にあるレースのリボンを握りしめる。
リディアはいつでも来てくれていいと言ったが、真正面からジュリアンと名乗って会いに来る事はもう二度とないだろう。
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