風と雨の神話

臣桜

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第三部・雨1

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「街」

 幽(くら)い街であった。
 一年中雨が降り続き、嫌でも陰気な雰囲気を出す。
 街で活発に動き回るものはなく、すべてがもったりとした愚鈍な動きで成されていた。
 人々は俯いて背中を丸めて歩き、酒場はいつも投げ遣りな喧燥に包まれている。濡れそぼった犬がゴミをあさり、屋根に当たる雨音は街に住む者の耳に染み付いている。
 そこは『終わりの街』と呼ばれた。
 特に決まった街の名はついていない。ただ、『終わりの街』。
 元々そこに名前など付いていなかった。
 年中雨が降り、到底人が住む様な場所ではないと判断されて、人々がそこにゴミを捨て、動物を捨て、すべてを捨てた者が集まった。
 何も始まらない。
 だから、『終わりの街』。
 世を捨てた人間や、借金に追われた人間。仕事を失った人間、生きる気力もなく余生をゴミの様に生きようと思った人間。そんな者ばかりが、そこに生きていた。
 街に笑顔などというものはない。あるのは乾いた笑い、嘲笑、哄笑、狂った様な笑い。
 希望という言葉を忘れ去った者達が、口を笑いの形に歪ませて悲鳴を上げるのみだ。
 誰もが狂った様に笑い、互いを罵り合い、殺し合い、そうやって与えられた生を過ごしていた。そういう者達しか生きる事のできない場所。
 狂気と狂乱の祝宴が、果てしなく繰り広げられる最果ての場所。
 ――それが、『終わりの街』。


「何だぁ? その目はぁ」
 泥酔した男の濁声が酒場に響き、給仕をしていた娘が肉厚な掌で頬を張られる。
 娘はトレーに乗せていたグラスを派手に割りながら、盛大に床の上に叩き付けられた。
 それを見て、周囲の者達がどっと沸く。哀れみの表情をする者など誰一人としていない。
「店のもん壊すんじゃないよ!」
 酒場の女主人らしき、厚化粧の中年女がヒステリックに娘を怒鳴った。
 女は若い頃は美人の部類に入る顔つきなのだろうが、その荒みきった生活と内面のものが滲み出て、かつては美人だった、というよりは、顔がかろうじて美人な女を留めようとしている感じであった。
 垂れかけた乳房を下着で強制的に盛り上げ、胸元の大きく開いたドレスを『はす』に着ている。ドレスのけばけばしい色がまた、女を退廃的なものに見せている。
 男に平手を食らい、女に怒鳴られた少女は、文句一つ言う事なく立ち上がり、割れたガラスの欠片を拾い集めた。
 歳は十七歳くらいだろうか。
 白に近い灰色の髪を無造作に垂らし、真紅の瞳はどんよりとしている。無気力、という訳ではない。どちらかと言えば周囲にあるものすべてを、激しく憎悪している目だ。
 ――暗い炎の灯った目。
 その真紅の目は、女主人と同じ色だった。
 娘は、相手となる男と共にこの『終わりの街』に逃げ延びて来た女が、ここで生んだ子供であった。
 顔つきもどことなく似ている。女の若い頃は、この娘の様な顔つきだったのだろうか。
 白い肌に、冷たく整った顔――。
 もっと違う生まれ方をしていれば、理知的な美人になっていただろう。
 だが、生まれながらにして『終わりの街』に生きる娘は、全てを憎み、嫌悪するしか感情はなかった。
 この街を出る事もできず、外の世界も知らず、ただ毎日を母の金を稼ぐために生きていた。
 どんなに酷い母だとしても娘にとっては、その女しかいないのだ。
 父であるはずの男は既にいない。街から出て行ったか、殺されたか、街のどこかで行き倒れているか、どれも定かではないが現実味のある予想だ。
 とにかく、今の母の『男』が父ではない事は確かだ。
 普通の母親というものがどんなものかも知らず、娘は毎日を母のために働き、男達に給仕をし、男達の望むままに脚を広げて金をもらった。それが母の望む事だったからだ。
 それが娘にとっての日常であり、普通の生活だ。誰もそれを否定する者はいないし、間違えているとも悪いとも、何も言わない。それが『終わりの街』の常識だからだ。
『終わりの街』の人間は、他にある普通の街の事を『晴れの街』と呼んだ。
 そして、普通の世界である『晴れの街』での常識を、この街に持ち込む者は誰一人として許さない。
 ここにはここのルールがある。
 外の世界から逃げ出して来たのに、わざわざこの街に来てまで捨てた世界のルールで縛られたくない。それが、彼らの言い分である。
 暴力も、殺人も、売春も、禁じられた武器や薬を使う事も、この街のルールに則っているのなら、すべてが許される。
 逆に、この街のルールに沿ってそれらを行使しなければ、この街では生きていけないという現実もある。
 暗い欲望に満たされた街。
 闇の自由に許された街。
 ――それが、『終わりの街』。
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