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過去4-2

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「葵さん、……あおいさん!」
 ボロボロと時人の目から涙が零れ落ち、彼の視界を滲ませてゆく。それを乱暴に拭い、時人は彼女を抱き起こそうとする。
「……うっ」
 だがどこか骨を折っている葵が呻き顔を歪めるのを見て、時人は泣き出しそうな顔で彼女の体を元に戻した。
「どうしよう……。どうしよう、葵さん」
 目の前で葵がまた死にかけている。
 強い血の香りがプンプンとし、時人を興奮させて彼の目が赤くなる。
 大事な人の命がかかっているというのに、時人は性的興奮を覚えていた。
「あ……、ぁ……。あおい……、さん……」
 血の色になった時人の目は化け物の本能を見せ、「誰もいない今なら、葵の首に牙を突き立てて血を吸える」と、異様な輝きを放っている。
「駄目だ……っ、駄目だ! あぁぁっ!!」
 あの夏の日も葵の血に酔ったが、刺された葵を救いたいという気持ちで打ち勝つ事ができた。
 だがあれから数か月、時人は病んだ葵を相手に心身共に疲弊していた。
 疲れ切った時人の目の前で、葵は死を望んでいる。何もかも、あの夏と違いすぎていた。
 魔が差す――、という言葉が一番相応しいのかもしれない。ほんの少しの心の緩みが、時人の中の化け物を解放させた。
「あぁ……、あ、……いやだ、嫌だ!!」
 涙を流す紅眼の時人の口元には、彼の意志に反して異様に発達した犬歯が覗いていた。八重歯と呼べるチャーミングな物ではなく、鋭く尖ったそれは『牙』だ。
 駅前だというのに、人ひとり通らなかった。
 数分歩けば辿り着く距離のコンビニエンスストアも、何か特別な結界に守られているように誰も出入りしない。
 はぁっ、はぁっ、と時人は荒い息を繰り返し、葵の上へ覆い被さって自分自身と戦っていた。地面に強くたてられた時人の指先は、化け物本来の力のままに爪でアスファルトを削り取っている。
「嫌だ……、嫌だ。こんな事したくない……」
 葵の顔の上にボタボタと涙を零し、時人は葵に震える顔を近付ける。戦慄いた唇が開き、葵の口から糸を引いている血を舐めとった。
「……っ、ぁ、……あ、あ!」
 ずっと彼女から香る匂いに憧れていた。
 まだ葵が普通に笑っていた時、二人きりになっては葵を抱き締め、思い切り彼女の香りを吸い込んで葵に笑われていた。
 葵の、血の香りに焦がれていた。
 だから彼女を好きになったんじゃない。
 化け物の本能のために『餌』を側に置いたのではなく、人として葵を好きになった。
 ずっとそう思っていたのに、自分はとうとう彼女の血を舐めてしまった。
「甘い……。おいしい……っ」
 生まれてこのかた、一度も「美味しい」という感覚を味わった事のない時人が、初めてその言葉を口にした。
 罪の味は昇天してしまいそうに甘美で、時人の脳天をジンと痺れさせる。
「いやだ……っ、美味しいなんて、嫌だ!」
 ――美味しいなんて知りたくなかった!
 体の反応に心が背き、時人は混乱して子供のように泣きじゃくる。
 その耳にそよ風のような声が届いた。
「ええですよ……。ときひとさん、わたしの、……ち、……のんで」
 理性と本能の狭間でぐらついている時人を、葵の微かな声が強く揺さぶった。
 驚愕のあまり飴色の目を見開いている時人の視線の先、顔を蒼白にさせた葵は昔のような微笑みを浮かべて誘う。
「あげます……。ぜんぶ、……あなたに。……みも、こころも」
 慈愛の籠もった目が細められ、葵の眦から涙が零れ落ちた。
 ――役立たずの私にできるのは、もうそれしかないから。
 昔二人で体を重ねた後、疲れ切った葵が幸せそうに微笑んだ――その顔にとてもよく似ていた。
 身も心も時人に捧げて、もうどうなってもいいという顔。
 その時の快楽、幸福感を時人も思い出してしまったからだろうか。
 時人の頭の中で暴れまわっていた絶望と恐怖が弾け、――本能に負けた。
 頭の中を真っ白にさせた時人は、大きく口を開き――。愛しい思い出に浸った目から涙を零し、葵の白い首筋に牙を突き立てた。
 ブツッと皮膚を食い破る音がした後、時人の牙が葵の血を吸い上げる。
「あっ……、あ、ぁ、――あぁ!」
 虫の息の葵は、最後の力を振り絞って細い悲鳴を上げた。その声に、時人は一瞬にして我に返る。
 ――ちがう!
 血色の本能に満たされた時人の頭に、理性が蘇る。
 咄嗟に牙を抜き葵を見下ろすと、もう彼女は叫び声を上げる余裕もなく、時折小さく体を痙攣させているのみだ。
「駄目だ! 違う!」
 口元を真っ赤に汚した時人は悲痛な叫びをあげ、自分の手首の内側を乱暴に食い破った。
 雪の上に赤い血がバタタッと数滴落ち、時人は赤い目を涙に滲ませたまま、傷を付けた自分の手を葵の口元に押し当てる。
「葵さん、飲んで! 飲んでください!」
 自分がしている事を、冷静に見つめ直す余裕はなかった。
 葵を生かしたい。責ならすべて負う。その想いが、彼に行動を起こさせた。
 雪は深々と降り続け、時人と葵を白く染めてゆく。その中で、化け物が今にも死にゆく人に命を与えていた。
「葵さん!」
 時人の手首から滴った血が、葵の口腔に溜まったと思われる頃になって、彼女の喉が弱々しく上下した。
「飲んだ! そのまま、俺の血を飲んでください!」
 ともすれば全身の血液すら捧げてしまいそうな勢いで、時人は葵の口元に手首を押し付け、化け物の血を飲むよう促す。
「う……、ぅ、……げほっ」
 ゴクッと力強い音が聞こえた後、葵が咳き込む。その際に自分の手で口元を覆うほど、葵は生命力を取り戻していた。
(――よし、これなら……)
 対象の血を吸い、主である自分の血を与える。この手段は本来なら、吸血鬼が獲物の血を幾度となく吸って生命力を失わせた後、仲間にするための行動だ。時人は父からそう聞いていた。
 勿論聞いた時、時人は自分がそんな行為をする事など一生ないと思っていた。幼い頃から自身に流れる血を忌んでいた時人は、自分が吸血鬼としての行動を取るなどあり得ないと思っていた。事実、初心の通り生きてきた。けれど我慢すれば人間でいられると思うと、我慢し続ける生活にも慣れた。
 人並外れた五感を持ち、まだ自身の力を制御できていない頃は、余りある膂力により色々な物を壊してしまっていた。
 小学生中学年ぐらいになり、やっと人らしく目立たず生きられるようになった。
 そのまま自分の中に潜む化け物と折り合いをつけ、目立たず生きてゆくのだと思っていた。
 だが、人生は思いもよらない展開が舞い込む。
 葵の存在だ。
 自分が唯一「いい匂い」と感じた、彼女の血の香り。「欲しい」と思った存在。
 彼女のすべてに惹かれ、決意と理性の塊のようだった時人は、葵のためなら何をしたっていいと思うようになっていた。
 それが自分自身に課した誓いを破る事になるのも、時間の問題だったのだ。
(父さんの話では、肉体の再生が始まる前に吸血鬼の細胞が人の細胞を喰らい尽す戦いが始まるはずだ)
 葵が息を吹き返した事で、時人の頭は少し冷静になった。これから葵は叫び声を上げ、苦痛にのたうち回る事になるだろう。けれどここでそんな騒ぎを起こす訳にいかない。時人は葵の怪我が治りきっていないのを承知で抱き上げた。
「うあぁっ!」
 骨折し、内臓もどうにかなっているだろう葵が、無理矢理動かされて叫び声を上げる。その悲鳴を聞き、時人はぐっと奥歯を噛みしめた。
「すみません、葵さん。すぐにベッドに運びますから! 少しの間、我慢していてください!」
 彼女を襲う激痛を想像して時人は涙を流し、そのまま足早に自宅へ向かって歩き出す。
「痛いっ、いた、うぅっ、痛い!」
 一歩進む度に葵が叫び、子供のように泣きじゃくる。
 静かな住宅街に時人の呼吸音と葵の悲鳴が響き、歩幅の広い足跡が新たについてゆく。
 以前に抱き上げた時よりもずっと軽くなった体を運び、時人はそのまま宇佐美の家へと上がり込んだ。
「時人さん!?」
 玄関で家政婦がギョッとした顔で、帰ってきた二人を見る。時人は口元を真っ赤にさせ、目は爛々と赤く輝かせている。その腕にいる葵は、悲鳴を上げ暴れまわっていた。
「陣内(じんない)を呼んでください」
 父の側近であり父の従者。そして時人のじいや的存在を求めると、若い家政婦は「かしこまりました」と怯えた表情で屋敷の奥へ消えていった。
 その間時人は自室へ葵を運び、ベッドの上に横たえる。
「うぅーっ! あぁああぁ!」
 今や葵の体の中では、時人から送り込まれた吸血鬼の細胞が葵の人としての細胞を喰らい、彼女の体の組織を作り変えようとしている。葵が目の前で苦しんでいるのを見て、時人はギュッと彼女の手を握り涙を流していた。
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