上 下
48 / 63

救われた

しおりを挟む
「ホテル業」

 けれど思いのほか〝近い〟職種が出て、彼はギクッと身を強ばらせた。

「……意外。芳乃さんなら、もっと商社とか金融とかいきそうなイメージがあったけど」

「そう? ホテル業に就くのは、子供の頃からの夢だったんだ」

 言ってから、芳乃は大切そうに思い出を語り始める。

「子供の頃、箱根にある〝海の詩〟っていう温泉ホテルに家族で行ったの。そのホテルがとても綺麗で、スタッフさんのサービスも最高で、『ああ、こういう所で働きたいな』って思ったの。それがきっかけ」

 心臓が止まるかと思った。

〝海の詩〟は、仁科グループが経営しているホテルの一つだ。

 同じ〝仁科〟だが、まさかこの家がその仁科だとは芳乃も思っていないだろう。

 名字そのものは珍しくなく、彼女自身、富裕層の子供に教える事はあっても、その親がどんな仕事をしているかは知らないし、下手に探ろうとすれば失礼に当たる。

 だから、目の前に居る仁科暁人が、その仁科グループの会長の孫だという事も分かっていない。

 静かに動揺している暁人の前で、芳乃は〝海の詩〟がいかに素晴らしいホテルであったかという思い出を話している。

「フロントのお姉さんが英語ペラペラでね。観光客の外国人相手に笑顔で話していて、素敵だなぁって思ったの。大変な面もあると思うけど、誰かがとっておきのひとときを過ごすために、あらゆるものを提供する仕事って、とても素敵じゃない?」

「そう……、だね」

 暁人は歯切れ悪く返事をするが、彼女は気付いていない。

「そういえば、神楽坂グループって今大変だよね」

 芳乃の言葉に、暁人はギクリと身を強ばらせる。

「意図的なミスでもないだろうし、ミスをしたのはきっと一人、そして関わっている直属の上司とかだろうけど……。結局責任として会社が謝らなきゃいけないんだよね。仕方のない事とはいえ、ここまで大事になって気の毒だな……」

 しかし彼女はとても冷静に事態を捉えていて、そのものの見方に暁人は泣き出しそうな安堵を得た。

「……叩かれるべきとか、思ってないの?」

 そろりと尋ねた暁人の言葉に、芳乃は目を丸くした。

「何で? どこの企業でもあり得るミスで、やろうと思ってやった事じゃないんだよ? 被害を被ったなら怒る権利はあると思うけど、世間でワーワー言っている人たちの大半は、神楽坂グループのホテルに泊まった事すらないんじゃない? 関係ないのに他者のミスを責め立てるような人に、私はなりたくないなぁ」

 彼女の素の言葉に、暁人の中でずっと渦巻いていた罪悪観が、フワッと軽くなった気がした。

 芳乃は物事をとてもフラットに見る人で、感情的にならず冷静に判断をくだせる人だ。

 そんな面に憧れるし、尊敬するし、心底好きだと思った。

(この人を好きになって良かった……)

 心の中で彼女への思いを噛み締め、暁人は俯いて泣きそうになる表情を隠す。

 ――救われた。

 心の底から、そう思ったのだ。

(芳乃さんがこう言ってくれるなら、学校でだって頑張れる。世界中の人が会社を責めても、芳乃さんが味方でいてくれるなら、立派に神楽坂グループの跡を継いで、もっと良い会社にしてみせる!)

 その時、十七歳の少年の心の中で、一生を左右する固い決意がなされた。
 彼を救ったと思っていない芳乃は、最後に明るく言った。

「こういう時は、私は〝買って応援〟してるよ。今回はホテルだから気軽に買い物とかできないけどね。卒業したらホテル業に就きたいと思っているし、いずれ勉強もかねてお金を貯めて泊まりたいなぁ」

 そして芳乃は時計を見て「あっ」と声を上げ、「休憩時間終了!」と言った。

 雑談は終わりまた勉強の時間が始まったが、暁人の心はやる気と幸せとで満ちていた。





 T大受験は無事合格し、暁人は〝ご褒美〟として芳乃とデートしてもらう事になった。

 彼女は少しお洒落をしていて、ボーダーのロングTシャツにブラウンのチュールスカート、その上にベージュのジャケットを着ていた。

「何だか照れるね。本当に私なんかとデートでいいの?」

「芳乃さんだからしたいんだ」

 待ち合わせをした駅から、二人は千葉県にあるテーマパークに向かった。

 チケットや飲食代などはすべて暁人の驕りで、二人は開園から閉園までたっぷりと夢の世界を満喫した。

 タクシーを使って都心に戻った頃には夜も遅くなっていて、芳乃はとても疲れているように見えた。

「最後に、一箇所だけ付き合ってもらっていい?」

「うん。今日、沢山お金払ってもらったから、カフェとかなら私が払うからね」

 芳乃は暁人にばかり金を使わせてしまい、とても気が引けているようだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

婚約者にざまぁしない話(ざまぁ有り)

恋愛 / 完結 24h.ポイント:71pt お気に入り:115

悪役令息の義姉となりました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:23,056pt お気に入り:1,360

【R-18・短編】部長と私の秘め事

恋愛 / 完結 24h.ポイント:71pt お気に入り:203

会社を辞めて騎士団長を拾う

BL / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:33

言いたいことはそれだけですか。では始めましょう

恋愛 / 完結 24h.ポイント:5,575pt お気に入り:3,572

処理中です...