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救われた
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「ホテル業」
けれど思いのほか〝近い〟職種が出て、彼はギクッと身を強ばらせた。
「……意外。芳乃さんなら、もっと商社とか金融とかいきそうなイメージがあったけど」
「そう? ホテル業に就くのは、子供の頃からの夢だったんだ」
言ってから、芳乃は大切そうに思い出を語り始める。
「子供の頃、箱根にある〝海の詩〟っていう温泉ホテルに家族で行ったの。そのホテルがとても綺麗で、スタッフさんのサービスも最高で、『ああ、こういう所で働きたいな』って思ったの。それがきっかけ」
心臓が止まるかと思った。
〝海の詩〟は、仁科グループが経営しているホテルの一つだ。
同じ〝仁科〟だが、まさかこの家がその仁科だとは芳乃も思っていないだろう。
名字そのものは珍しくなく、彼女自身、富裕層の子供に教える事はあっても、その親がどんな仕事をしているかは知らないし、下手に探ろうとすれば失礼に当たる。
だから、目の前に居る仁科暁人が、その仁科グループの会長の孫だという事も分かっていない。
静かに動揺している暁人の前で、芳乃は〝海の詩〟がいかに素晴らしいホテルであったかという思い出を話している。
「フロントのお姉さんが英語ペラペラでね。観光客の外国人相手に笑顔で話していて、素敵だなぁって思ったの。大変な面もあると思うけど、誰かがとっておきのひとときを過ごすために、あらゆるものを提供する仕事って、とても素敵じゃない?」
「そう……、だね」
暁人は歯切れ悪く返事をするが、彼女は気付いていない。
「そういえば、神楽坂グループって今大変だよね」
芳乃の言葉に、暁人はギクリと身を強ばらせる。
「意図的なミスでもないだろうし、ミスをしたのはきっと一人、そして関わっている直属の上司とかだろうけど……。結局責任として会社が謝らなきゃいけないんだよね。仕方のない事とはいえ、ここまで大事になって気の毒だな……」
しかし彼女はとても冷静に事態を捉えていて、そのものの見方に暁人は泣き出しそうな安堵を得た。
「……叩かれるべきとか、思ってないの?」
そろりと尋ねた暁人の言葉に、芳乃は目を丸くした。
「何で? どこの企業でもあり得るミスで、やろうと思ってやった事じゃないんだよ? 被害を被ったなら怒る権利はあると思うけど、世間でワーワー言っている人たちの大半は、神楽坂グループのホテルに泊まった事すらないんじゃない? 関係ないのに他者のミスを責め立てるような人に、私はなりたくないなぁ」
彼女の素の言葉に、暁人の中でずっと渦巻いていた罪悪観が、フワッと軽くなった気がした。
芳乃は物事をとてもフラットに見る人で、感情的にならず冷静に判断をくだせる人だ。
そんな面に憧れるし、尊敬するし、心底好きだと思った。
(この人を好きになって良かった……)
心の中で彼女への思いを噛み締め、暁人は俯いて泣きそうになる表情を隠す。
――救われた。
心の底から、そう思ったのだ。
(芳乃さんがこう言ってくれるなら、学校でだって頑張れる。世界中の人が会社を責めても、芳乃さんが味方でいてくれるなら、立派に神楽坂グループの跡を継いで、もっと良い会社にしてみせる!)
その時、十七歳の少年の心の中で、一生を左右する固い決意がなされた。
彼を救ったと思っていない芳乃は、最後に明るく言った。
「こういう時は、私は〝買って応援〟してるよ。今回はホテルだから気軽に買い物とかできないけどね。卒業したらホテル業に就きたいと思っているし、いずれ勉強もかねてお金を貯めて泊まりたいなぁ」
そして芳乃は時計を見て「あっ」と声を上げ、「休憩時間終了!」と言った。
雑談は終わりまた勉強の時間が始まったが、暁人の心はやる気と幸せとで満ちていた。
T大受験は無事合格し、暁人は〝ご褒美〟として芳乃とデートしてもらう事になった。
彼女は少しお洒落をしていて、ボーダーのロングTシャツにブラウンのチュールスカート、その上にベージュのジャケットを着ていた。
「何だか照れるね。本当に私なんかとデートでいいの?」
「芳乃さんだからしたいんだ」
待ち合わせをした駅から、二人は千葉県にあるテーマパークに向かった。
チケットや飲食代などはすべて暁人の驕りで、二人は開園から閉園までたっぷりと夢の世界を満喫した。
タクシーを使って都心に戻った頃には夜も遅くなっていて、芳乃はとても疲れているように見えた。
「最後に、一箇所だけ付き合ってもらっていい?」
「うん。今日、沢山お金払ってもらったから、カフェとかなら私が払うからね」
芳乃は暁人にばかり金を使わせてしまい、とても気が引けているようだ。
けれど思いのほか〝近い〟職種が出て、彼はギクッと身を強ばらせた。
「……意外。芳乃さんなら、もっと商社とか金融とかいきそうなイメージがあったけど」
「そう? ホテル業に就くのは、子供の頃からの夢だったんだ」
言ってから、芳乃は大切そうに思い出を語り始める。
「子供の頃、箱根にある〝海の詩〟っていう温泉ホテルに家族で行ったの。そのホテルがとても綺麗で、スタッフさんのサービスも最高で、『ああ、こういう所で働きたいな』って思ったの。それがきっかけ」
心臓が止まるかと思った。
〝海の詩〟は、仁科グループが経営しているホテルの一つだ。
同じ〝仁科〟だが、まさかこの家がその仁科だとは芳乃も思っていないだろう。
名字そのものは珍しくなく、彼女自身、富裕層の子供に教える事はあっても、その親がどんな仕事をしているかは知らないし、下手に探ろうとすれば失礼に当たる。
だから、目の前に居る仁科暁人が、その仁科グループの会長の孫だという事も分かっていない。
静かに動揺している暁人の前で、芳乃は〝海の詩〟がいかに素晴らしいホテルであったかという思い出を話している。
「フロントのお姉さんが英語ペラペラでね。観光客の外国人相手に笑顔で話していて、素敵だなぁって思ったの。大変な面もあると思うけど、誰かがとっておきのひとときを過ごすために、あらゆるものを提供する仕事って、とても素敵じゃない?」
「そう……、だね」
暁人は歯切れ悪く返事をするが、彼女は気付いていない。
「そういえば、神楽坂グループって今大変だよね」
芳乃の言葉に、暁人はギクリと身を強ばらせる。
「意図的なミスでもないだろうし、ミスをしたのはきっと一人、そして関わっている直属の上司とかだろうけど……。結局責任として会社が謝らなきゃいけないんだよね。仕方のない事とはいえ、ここまで大事になって気の毒だな……」
しかし彼女はとても冷静に事態を捉えていて、そのものの見方に暁人は泣き出しそうな安堵を得た。
「……叩かれるべきとか、思ってないの?」
そろりと尋ねた暁人の言葉に、芳乃は目を丸くした。
「何で? どこの企業でもあり得るミスで、やろうと思ってやった事じゃないんだよ? 被害を被ったなら怒る権利はあると思うけど、世間でワーワー言っている人たちの大半は、神楽坂グループのホテルに泊まった事すらないんじゃない? 関係ないのに他者のミスを責め立てるような人に、私はなりたくないなぁ」
彼女の素の言葉に、暁人の中でずっと渦巻いていた罪悪観が、フワッと軽くなった気がした。
芳乃は物事をとてもフラットに見る人で、感情的にならず冷静に判断をくだせる人だ。
そんな面に憧れるし、尊敬するし、心底好きだと思った。
(この人を好きになって良かった……)
心の中で彼女への思いを噛み締め、暁人は俯いて泣きそうになる表情を隠す。
――救われた。
心の底から、そう思ったのだ。
(芳乃さんがこう言ってくれるなら、学校でだって頑張れる。世界中の人が会社を責めても、芳乃さんが味方でいてくれるなら、立派に神楽坂グループの跡を継いで、もっと良い会社にしてみせる!)
その時、十七歳の少年の心の中で、一生を左右する固い決意がなされた。
彼を救ったと思っていない芳乃は、最後に明るく言った。
「こういう時は、私は〝買って応援〟してるよ。今回はホテルだから気軽に買い物とかできないけどね。卒業したらホテル業に就きたいと思っているし、いずれ勉強もかねてお金を貯めて泊まりたいなぁ」
そして芳乃は時計を見て「あっ」と声を上げ、「休憩時間終了!」と言った。
雑談は終わりまた勉強の時間が始まったが、暁人の心はやる気と幸せとで満ちていた。
T大受験は無事合格し、暁人は〝ご褒美〟として芳乃とデートしてもらう事になった。
彼女は少しお洒落をしていて、ボーダーのロングTシャツにブラウンのチュールスカート、その上にベージュのジャケットを着ていた。
「何だか照れるね。本当に私なんかとデートでいいの?」
「芳乃さんだからしたいんだ」
待ち合わせをした駅から、二人は千葉県にあるテーマパークに向かった。
チケットや飲食代などはすべて暁人の驕りで、二人は開園から閉園までたっぷりと夢の世界を満喫した。
タクシーを使って都心に戻った頃には夜も遅くなっていて、芳乃はとても疲れているように見えた。
「最後に、一箇所だけ付き合ってもらっていい?」
「うん。今日、沢山お金払ってもらったから、カフェとかなら私が払うからね」
芳乃は暁人にばかり金を使わせてしまい、とても気が引けているようだ。
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