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雨が近付けた距離1

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「でも丁度いいわ。なんていうか、こういう時に世話を焼く相手がいると『しっかりしないと』って思えるから」

「そういうものかい?」
「ええ」

 水瓶から汲んだ水でクレハは食器を洗い始め、ソファに戻ったノアはまた彼女に関する質問をし始める。

「失礼だが、何らかの能力は使わないのかい? 先ほどから何をするにも手作業だが……」

「私、血にはインキュバスの父さんの血が半分入っているけれど、私自身としては何の能力もないの。サキュバスの要素が少しあるのか、男性を引き寄せる魅力チャームのようなものはあるみたいだけれど、他は何も……」

 色々な種族がいるのだから、王国は「差別はいけない」と大々的に言っている。だがあくまでそれは魔族間でのことなのかもしれない。
 実際、何の特殊能力もないクレハが差別を受けているのは事実なのだ。

「君の名前は変わっているね」

「あぁ、母が東洋の人間なの。それで私も目や髪の色を濃く受け継いだわ。クレハというのは秋の紅葉のことを、あちらではそういう読み方もするんですって。母の名前はカエデ。こっちでは……メープルシロップの木のことね」

「メープルの木も確かに葉が色付くね」

「母は最初あまりこの国に馴染めなかったみたい。でも私は生まれた時からこのエイダ王国だわ。多少は外見で何か言われたりもあるけれど、人間中身よね。近所の人とは仲良くしてもらっているもの」

 そこでクレハは大学生活での交友関係については言わず、さり気なくごまかす。

「君は父君のように、逞しくて豪快な男性が好きなの?」
「え? 父と理想の異性像は別だわ」

 ノアが言ったことが意外だというように、クレハは軽やかに笑う。

「じゃあ、どういう男性が好み? いま付き合っている人はいるの?」

 随分グイグイとくるなと感じながら、クレハは緩く首を振る。

「私、大学では勉強ばかりであまりそういう付き合いはないの。それに周りの学生も貴族ばかりだわ。私のような勉強変人の一般人よりも、同じ貴族の学生と楽しそうに話をしているもの」

 食器を洗いながらそう言うクレハの背中は、どこか寂しそうにも感じる。だが同時に、彼女はあの気丈さで、その身分の差と孤独とを堪えてきたのだろうとノアは思う。

「じゃあ、僕が君の友人になろうか」
「そうだわ、あなたはどこの誰なの? 今さら……という感じだけれど」

「それは今は言わないでおくよ。だって僕のことを君が拾って助けてくれたのに、急に身分のこととかで変な空気になりたくないだろう?」

 ノアの言葉は暗に身分差があると示していたが、彼は今それを明かす気はないようだ。それはクレハも察しているようで、彼の気遣いに感謝する。

「そうね、無粋な質問だったわ。ごめんなさい」

 食器の後片付けも終わり、クレハは温かな紅茶を淹れてくれた。

「雨、やまないわね」
「提案なんだが、今晩はここに泊まってもいいだろうか?」
「え?」

 唐突なノアの提案にクレハは思わず大きな目を瞬かせる。

 それまで母のことで混乱していたのもあって思考がグルグルしていたのに、いまは驚きでそれがピタッと止まってしまった。

「不安定な状況にある君を一人にするのも心配だし、女性を一晩一人にしておくというのも不安になる。助けてもらっておいて勝手な言い分だが、用心棒ぐらいにはなるつもりだよ」

 赤髪をサラリとかき上げて、ノアは魅力的に笑った。その笑みのなかにも、決して押しつけがましくはない品がある。

「ありがとう、嬉しいわ。でもあなた、お家の方は大丈夫なの? きっとどこぞのご子息なんでしょう? ご両親も執事さんとかも……、きっと心配しているんじゃないかしら?」

「はじめに言っておくと、僕は母を病で亡くしている。父はいま隣国へ仕事に行っている。たしかに現在の屋敷の主人は僕だが、有能すぎる執事は僕が一日帰らないぐらいでは心配しないと思うよ」

「教えてくれてありがとう。あなたの家庭事情も複雑なのね。悪いけれど少し親近感を持ったわ」

 会話をしつつ、クレハはノアをどうしたものかと考える。
 確かに年齢よりもずっとしっかりとした人物のようだ。だが貴族の息子であろう彼が、屋敷を無断で一晩不在にしていいのだろうか?

「クレハ、君が考えているだろうことは察する。けれど、僕を受けた恩を返さない人間にさせないでくれ」

 質素なソファに二人は並んで座り、ほんの少し空けられた距離からノアの熱が伝わってくる気がする。

「……分かったわ。一晩、私の用心棒になってちょうだい」

 クレハが了承するとノアは「良かった」と破顔した。それは年相応の無邪気な笑顔に見えて、クレハはますます親近感を覚える。
 不意をつかれたようにクレハは彼の笑顔に見入り、それから少し心が温かくなる。

 貴族の子供たちは、みな同じようないけすかない人かと思っていた。
 だが中にはこうやって、ちゃんと一対一で向き合ってくれる人もいる。

「あなたは……、どうしてケンカをしていたの? それもあんな多数対一で」

 今まで少し訊きにくかったが、行きずりの関係なら訊いてもいいのかもしれないと、クレハは質問する。

「あぁ、彼らは……、僕が気に喰わないんだろう。こう見えて、位の高い人と親しくしていてね。それは取り入ったとかではなくて、自然と馬が合っただけなんだが、彼らにはそう見えなかったらしい」

 静かな表情のまま笑い、ノアは少し赤毛をつまんでみる。

「僕の見た目……。この赤毛も生まれつき色が薄いだけなのに、『不義の子だ』と言ってくる。勝手なものさ」

 外見で陰口を言われているのは自分だけではないと知り、クレハはますますノアに親近感を持つ。

「けれど僕はこの色に誇りを持っているんだ。亡くなった母も、それは綺麗な赤毛だった。コンプレックスにすることなく、『太陽の色』『血潮の色』と例えては笑う母を見ていて、僕だってこの赤毛を気に入っている」

 そう言って琥珀色の目を細めるノアは、二十一歳という年齢以上に大人びて見える。

「私、この短い間であなたから色々学べた気がするわ。人ってきっと身分や少しの年齢の差ではないのね。個人個人が、自分というものをどう受け止めながら生きているかなのよ」

 こういうところにまで学ぶ姿勢を見せるクレハに、ノアはおかしそうに笑う。

「君は本当に変わっているね。とても魅力的なのに、外見を気にせず向学心ばかりだ」

 サラリと言われた言葉にクレハは目を瞬かせ、それから眉間にしわを寄せてもう一度尋ねる。

「魅力的……?」

 目を眇め、まるで異国の言葉を訊き返すような彼女に、ノアは笑いながら事実を突きつけてやる。

「君はとても魅力的だよ。美人だし頭もいい。冷静で気丈で、必死に隠そうとしている弱さを思わず守りたくなる。その黒髪も、黒い目も、なにもかも魅力的だ」

 最後にはノアはクレハの三つ編みをそっと手にして、彼女の目を見つめたまま――上目遣いに黒髪にキスを落とした。

「――っ!」

 瞬間、クレハは一気に赤面してプルプルと震えだした。

「かっ……、からかってもらっちゃ困るわ!? そ、そそそそんな……」
「おや、照れているのかい? 可愛らしいな」

 ノアの手から自分の長い三つ編みを取り戻し、クレハは大きな胸の前でそれを両手でギュッと握りしめる。
 それまでの理知的な雰囲気はどこへやら、彼女は年相応の清純さを見せていた。

「じゃあ、僕が君にもっと美しくなる魔法をあげよう」
「な、何よ、魔法って……。そんなもの……」

 赤くなっているクレハをノアはソファの背もたれに押し付ける。

 ノアの大きな手が彼女の大きく丸い胸に這い、彼女の前髪をかき上げてそっと額にキスをした。
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