怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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三人目「彼女は桃の味がした」

相席してもいいですか、と愛想良く尋ねる若い男

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 まだまだ春は遠いな、と思わせるある日曜日。あなたは文庫本片手に『純喫茶・生熟なまなり』を訪れた。
 時刻はまだモーニングメニューを頼める頃。『純喫茶・生熟り』はひっそりした店だが、この曜日のこの時間帯はそれなりに賑やかだった。
 『純喫茶・生熟り』は固ゆで卵を出さないこだわりだが、ほかの卵料理は別だった。『純喫茶・生熟り』のオムレツトーストは絶品であり、隠れた人気メニューだ。これを食べたことがあるかないかで、このあたりで通を名乗れるかどうかが決まる。
 モーニングの時間に訪れたあなたが頼んだのは、もちろんオムレツトーストだ。いつものコーヒーも忘れない。
 あなたが持ち込んだ文庫本を読みながら朝食の到着を待っていると、ドアベルが鳴るのが聞こえた。迎え入れる店員の声に続いて「一人です」と答える声が店内に響く。静かな純喫茶に似つかわしくない、溌剌とした声だ。
 あなたが思わず顔を上げると、入店したばかりの男と目が合った。年はまだ二十歳を過ぎたか過ぎていないかといった、若い男だった。男はあなたを見て「おっ」と声を上げると、店員に一言断り、あなたのテーブルに近づいてきた。

「すみません、相席してもいいですか?」

 愛想のいい声で尋ねられ、あなたは店内をぐるりと見回した。普段より賑やかとはいえ、この若い男が座れないほどではない。普段のあなたならば、断ったかもしれない。しかしこの『純喫茶・生熟り』にいるあなたは、コーヒー以外の目的がある。

 ――この男からも〝いい話〟が聞けるかもしれない。

 そう思ったあなたは、男の相席を許した。男は「ありがとうございます!」と大げさにありがたがると、あなたの正面に座り、メニューを広げた。あなたはまた文庫本へ目を落とす。文庫本とメニューをめくる音が二人の間で微かに響く。
 先に注文を終えていたのはあなただ。店員が「お待たせしました」とモーニングセットを置いていく。文庫本を閉じてカップに手を伸ばしたあなたは、視線を感じて正面へ目をやった。
 若い男は、あなたの持つコーヒーカップを真っ黒な目で見つめていた。

「いい香りですねぇ」

 あなたはコーヒーに、フルーツのごとき香りと酸味を求める。ちなみに例の知人は、キレのある苦みと深みのある香りを求める質だ。好みの愛そうな発言に気をよくし、あなたはどの銘柄を頼んだか、メニューを差して教えた。男は「これにします」とうなずき注文したが、店員が運んできたコーヒーを一口飲むなり「あちゃあ」と残念そうな声を上げた。

「やっぱりだめだ」

 あなたはつい、何がだめなのかと勢い込んで尋ねてしまった。たった一口飲んだだけで〝だめ〟と言われるのは心外だった。あなたにとって、この店のコーヒーは〝いい話〟と同等に大切なものだ。それを馬鹿にされたような気がした。
 わずかに気色ばむあなたを見て、若い男はうふふと嬉しそうに笑った。

「いえね、別にコーヒーが悪いわけじゃありませんよ。俺の舌が悪いんです。とある事情でね。この香りなら飲めると思ったんだけどなぁ」

 ワイングラスのようにカップを回す男を、あなたはじろりと睨めつける。コーヒーを、いや提供されたものを蔑ろにする態度が、どうにもあなたの癪に障った。あなたのそんな様子を見て、男は肩を揺らした。

「ここに来れば、話を聞いてくれる人がいるって聞いたんです。どうやら、思った通りですね」

 何の話だ、とあなたが問い返す前に、男はもったいぶった声で「とぉっても怖い話を知ってるんです」とコーヒーカップを下ろした。男の態度はあなたの神経をいちいち逆撫でする。
 あなたは腕を組み、聞いてやるから話して見ろ、と背もたれにもたれてふんぞり返った。

「ええ話しましょう」と応じた男は、満面の笑みで話し始めた。
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