怖いもののなり損ない

雲晴夏木

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三人目「彼女は桃の味がした」

その女性は桃の味がしたそうです、と男は語る

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 それは、とある地方の小さな町の話だった。町の規模を思えば大きな事件が起きた。老若を問わず、女性が刃物を持った男に襲われる事件だ。
 犯人は女性の手を切りつけ、血を飲む。しかしすぐ吐き出し「これじゃない」と言って逃走する。そんな事件が、十数件繰り返された。
 死者こそ出なかったものの、大変悪質な事件だ。すぐに捜査本部が立ち上げられ、ベテランから若手まで幅広い年代の警察官が集められた。彼らの正義感と義務感、そして彼らの大切な日常を犠牲にした結果、犯人は現行犯で逮捕された。
 犯人はまだ二十歳そこそこといった見た目の、見るからに大人しそうな青年だった。捕まる際も犯人は言い訳一つせず、されるがまま警察車両に乗り込み、連行された。
 犯人の逮捕後、取り調べを命じられた巡査部長たちは腕まくりをした。

「さあ、これからが長いぞ」

 犯人と巡査部長が向かい合う。部下である巡査長は、緊張した面持ちで調書と向かい合った。対する犯人は、落ち着いた様子で椅子に深く座っている。

「えーまず、お名前は郷野理さんで間違いな――」
「それより僕の話を聞いてくれますか、刑事さん」

 巡査長が怪訝そうに犯人――郷野を見る。巡査部長は不快を露わに郷野を見る。郷野は微笑みすら浮かべて、二人の顔を順番にゆっくりと見た。

「小学生の頃、僕はあるお姉さんと出会ったんです」

 名前も知らない人ですが、と前置きし、郷野は小学生の夏に出会った女性について語りだした。

「本当に、本当にきれいなひとでした」

 郷野が小学三年生の夏。少年だった郷野は、虫取りのため早朝から家を出た。
 田舎道を歩き、涼しい朝の空気を吸いながら神社を目指す。神社に植えられた大木には多くの虫が集まる。幼い郷野の狙いはカブトムシだった。
 今日こそ虫相撲で勝つんだと息巻く郷野は、強い桃の香りを感じて足を止めた。桃の香りは、郷野が歩いてきた道から漂っている。いったいなぜこんなにも強い桃の香りがするんだろう――と思い振り向くと、知らない女性が歩いてくるのが見えた。
 白いワンピースに、大きな麦わら帽子を被った女性だった。散歩の最中なのか、女性は殊更ゆっくり歩いてくる。
 郷野は焦れったく思いながらも、女性がすぐそばまで来るのを待った。桃の香りは、今やそれ以外考えられないほど強くなっていた。
 麦わら帽子の下の顔は、それはそれは整っていたらしい。しかし冷たい印象は受けなかった。表情から漂う愛嬌と、輪郭の丸みからうかがえる幼さのせいかもしれない、と郷野は語った。
 女性――少女かもしれない――は、少年の郷野ににこりと微笑み、手を差し出した。
 真っ白い指は、ほんのりと赤みがかっていた。桃の香りがますます強くなり、郷野は溢れる涎を抑えきれなかった。
 顎を伝い、地面にぼたぼたと水玉模様ができあがる。女性は笑みを深め、無言のまま郷野へ手を近づけた。桃の香りが、瑞々しい甘い香りが、鼻先へ近づけられる。
 郷野は我慢できず、女性の指にかぶりついた。
 驚くことに、噛みついた指からは血ではなく透明な液が滴り落ちた。口の中に満ちるのは、桃の香りと甘さだけ。
 これは果汁だと、郷野は感じた。女性の皮を、果肉を咀嚼し、果汁を啜る。飲み込みきれず一度口を離すと、女性の手は見る見るうちに茶色く変色していった。

「あーあ」と女性がいたずらっ子のような声で笑う。

「早く食べないと、傷んじゃうよ」

 ――無駄にするなんてありえない!

 慌てた郷野は、再び女性の手にかぶりついた。色づいた皮の渋みが、果汁の甘さと果肉の柔らかさにアクセントを加える。どれだけ食べても飽きの来ない味に、郷野は時間を忘れ貪った。
 気づけば、田舎道で立っているのは郷野だけだった。
 女性の姿はない。あるのは、女性が身に着けていた衣服と帽子だけだ。桃の香りはすっかり薄くなっている。
 散らばる衣服と帽子を見つめ、郷野はいっぱいになった腹をさすった。
 郷野の苦悩は、その日の昼から始まった。
 何を食べても味気ない。何を食べても物足りない。
 あの甘みを。
 あの香りを。
 あの柔らかさを。
 もう一度、一度でいいから味わいたい!

「食べているだけで夢心地になれるあの味を、もう一度味わいたかった。それが――僕が犯行あんなことに及んだ、たった一つの動機です」

 語るだけ語った郷野は、それ以降、巡査部長がどれだけ水を向けようと一言も語らなかった。時間だけが過ぎていく中、巡査長が郷野の話を調書にまとめる。
 結局、その日の取り調べは郷野の語った思い出話以外に何も収穫はなかった。
 デスクに戻った巡査部長は、腕組みをしながら回転椅子に腰掛けた。

「あいつの話、どうにも嘘くせえな。鑑定狙いか?」
「嘘くさい? 俺はそう思いませんでしたけど」

 こぽこぽとお湯を入れる音がする。お茶を入れているであろう巡査長の返事に、巡査部長は不満そうに顔をしかめた。
 椅子を回した巡査部長が「あのなぁ」とくるり振り向く。
 そこでは、湯飲みを持った巡査長が立っていた。
 じぃっと、底のない井戸のような目が、巡査部長を見つめている。ぞわりと寒気を感じた巡査部長は、言葉を続けられなかった。代わりに、巡査長が話を続ける。

「それより部長。何か、やたら甘い匂いがしませんか?」

 そう言った巡査長の口の端を、透明な雫が伝う。あとからあとから溢れ出すのは涎だ。ぽたぽたと落ちる涎が、床に水玉を浮かび上がらせる。
 弾かれるように巡査部長が立ち上がった。巡査長が湯飲みを放り出す。巡査長の獣じみた動きの前に、巡査部長はあまりに遅すぎた。
 巡査長の大きく開けた口が、そこに並ぶ健康な歯が、巡査部長の首に走る血管を破った。
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