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暗い淵、見えた光

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 初穂が床についてしまってから、幾日か。病状は一進一退のまま時が過ぎていた。
 玖澄は様々なあやかしとやり取りして、貴重な薬の材料や滋養のあるものを集めてくれている。
 白妙もまめまめしく気を配り、小霊たちは玖澄の命に従いながらも、必死に元気づけようとしてくれた。
 身体に障らないように香りに気を配りながら、出来る限りに部屋に彩りをと庭の花を飾ってくれる。調子が落ち着いているときには、背もたれを用意して窓外の風景を眺められるようにしてくれる。
 様々な気遣いのお蔭で多少は持ち直す事があるけれど、初穂の身体は何かに引きずられるようにまた不調に戻されるのだ。
 時折、玖澄と白妙が難しい顔で視線を交わしているのを見かける。
 それほど初穂の病状は良くないのだろうか。力を尽くしてもらっているのに申し訳ないという思いで、初穂は唇を噛みしめる。
 元々、二十の年までは生きられないだろうと言われていたのだ。
 それを越えるまで生きのびてしまったのだ。来るべき時が来たのだろうと思う。
 だから、これ以上はもう。そう言おうとしても、玖澄は止めるのだ。
 悲痛な面持ちを押し隠して微笑みながら、安心させるように手を握りながら。
 初穂は、何時の間にか玖澄に触れられることに慣れている自分に気付く。
 触れた瞬間少しひやりとするけれど、滑らかでとても優しい手が、初穂の手を握ってくれると心に温かな何かが灯る気がする。
 もう少しだけ、もう少しだけ頑張ろうと思えてくる。
 けれどその思いとは裏腹に、初穂が意識を失う時間は少しずつ増えていったのだ。



 ――ここは何処だろう、と初穂は周囲を見回した。

 玖澄の屋敷にて寝付いていたはずなのに、見た事もない場所に居る。
 周りには誰も居ない。
 玖澄も居ない。白妙や小霊達も居ない。気配も感じない。
 靄が立ち込めたような薄暗い場所を、初穂は歩いている。
 迷い子のような頼りない足取りで、寄る辺ない思いを抱えながら歩く。
 何処に向かっているのか分からない。この先に何があるのか、初穂は知らない。
 ただ、そちらに行くべきだと思ったから歩みを進めている。
 周囲の景色も変わらず、行く先に何も見えてこないまま、暫し歩いていた。
 初穂は、ふと何かが聞こえた気がしたので足を止める。
 それは女と思しき声だった。それも複数の。
 ぼんやりと浮かび上がった影は、声を潜めながら何か話している。

『何だ。初穂様は峠を越えたの』
『そうみたい。はあ、人騒がせな』

 ああ、あれは地主の屋敷にて奉公していた女中達だ。
 それは、かつて初穂が実際に耳にした会話だった。
 何度目かもうわからぬ病の床からかろうじて持ち直した時の事。
 初穂は喉が渇いたので水を欲していたが、周囲には誰もいなかった。呼びかけても誰も来ない。
 自分から行かなくてはと思い、未だ怠い身体を引きずるように歩いていた廊下。曲がり角の向こうで女達が話していた。
 低い声に悪意をたっぷりと滲ませながら。

『今度こそ死ぬかと思ったのに』
『また生き延びて。何てしぶといのかしら』

 大仰な溜息と共に言われた言葉に、もう一人の女が同調するように応える。
 女達は初穂が命を永らえたのを忌々しく思っているようだった。言葉の端々に滲む面倒そうな様子から伺える。

『地主様もいい加減、無駄なのだから薬も医者も止めればいいのに』
『何時まで付き合わされるのかしら。振り回されるほうの身になって欲しいわ』

 初穂が寝込む度に、屋敷はあれやこれやと大騒ぎになる。
 看病のために女手は駆り出され、必要な品の調達や医者を呼ぶために男手が駆り出される。
 もう駄目かと囁く人々は、沈痛な面もちの下で期待を抱いていた。騒ぎが今度こそ終わるといい、と。
 しかし、初穂はそれを裏切るように命を取り留め、永らえる。
 人々が表では良かったと笑いながら、影で舌打ちしていた事に初穂は気付いていた。
 初穂は、抗議する事もなく、ただ言われるがままを受け止め沈黙している。
 感情の色が希薄になりつつある初穂が、ぼんやり眼差しで人影を見ていると、ゆらりと女達の影は揺れて、違う形を結んだ。

『お姉様なんか、長女のくせにお嫁にもいけないのだから。姉なんて偉そうな顔をしないで欲しいわ』

 新たな人影は、初穂の妹達だった。
 長女である初穂が病弱故に縁談もなく嫁ぐ事ができずに居る中、健康に恵まれた妹達は次々に村の有力者の家に嫁いでいった。
妹達は程なく子を為し、大層喜ばれていた。
 あれは妹達が初穂の見舞いを理由に実家に戻っていた時だった。
 理由がただの口実である事が分かったのは、屋敷を訪れた妹達が一度として初穂の枕元に来なかったからだ。
 日頃は婚家で嫁として気を張っているので、実家で羽根を伸ばしたかったのだろう。
 妹達の顔を見たいと重い身体を引きずり向かった先の座敷にて、襖の向こうに居る姉に気付かず妹達は笑っていた。
 抗う言葉はやはり紡げない。紡ぐ資格がないのだから、当然だ。
 能面のような表情を浮かべて佇む初穂の目の前で、またも影はゆらりと揺れて違う形を結んだ。
 此度は男の――他ならぬ、初穂の父だった。

『先が短いというなら、いっそ諦めて早く死んでくれれば。面倒ばかりかかる』

 父が役に立たぬ娘など早々に切り捨ててしまいたがっているのは、幼い時分から気付いていた。
 女手として使う事もできない、嫁がせる事もできない、お荷物。先が短いという癖に、都度生き延びる面倒な娘。
 さりとて、娘が寝込んだというのに何もしなかったとあっては、情けのないことと体面が悪い。故に医者に薬にと人を遣る羽目になる。
 父にとって何の利も齎さない娘に、大枚をはたき、人手を割かなければならない。
 ある時、父が大きく嘆息しながら吐き捨てるように言っていたのを、生死の境を彷徨う初穂は聞いてしまった。
 そして、それを咎める声がない事も知っているのだ。
 だって、皆は同じように思っていたのだから。
 影は何時しか、幾つもに分かたれ、それぞれに形を為す。
 ざわざわと騒めきながら、ゆらゆらと揺らめきながら、口々にそれを口にする。

『贄は初穂様しかいないでしょう? 役に立たないのに生かされているんだから』

 続く災いに、山の大蛇に贄を出すべしという声が次第に大きくなっていた。
 村の人々は思っていた。贄に相応しいのは初穂だと。
 だって、働く事もできないのに。役に立たたないのに、生かされているのだから。
 着るものも食べるものも不自由なく与えられて、ぬくぬくと暮らしているのだから。
 だから、自分達の代わりに災いを引き受けてくれたっていいではないか。犠牲になるべきではないか。
 抗えない無言の圧力が示すのは、皆が望む初穂の『正しい姿』。
 常に他者を慮り、感謝を忘れず。皆が苦しむのなら、我が身を犠牲としてなげうつ事も厭わない。淑やかで健気な孝行娘。
 故に、初穂は押し出されるようにあの日、あの言葉を口にした――。
 影が更にざわめきをましていく。激しく揺れ動き、初穂を取り囲む。
 責めるように口々に叫び始める。

『贄としても役に立たないなんて』

 影は声高に、耳ざわりな甲高い音で、次々に初穂を責める。
 また役に立てなかった。役立たず、役立たず。
 声が礫のように初穂を打つ。次々に打ち付ける痛みに、耐えかねて初穂は走り出す。
 逃れようと走る初穂の背に、最早意味のない雑音と化しつつある声がぶつけられる。

『あっちへ行ってよ』
『もう、あっちへ行ってしまって』

 投げつけられる言葉が、初穂の身体に切りつけるような痛みを残していく。
 初穂は逃れる為に駆けながら、ふと足を止めて前を見た。
 そこに広がるのは、暗くて深い、光すら飲み込むような淵だった。
 飲み込まれたらもう戻れない、どこか……。
 初穂は悟った。自分が行くべきなのは、あちらなのだ。
 そうするべきなのだ。誰もが皆それを望んでいる。初穂には、それしかなかったのだから。
 感情の色を消し去った初穂が、そちらへと歩き出そうとした瞬間だった。

 何かが聞こえた気がして、ふと周囲に視線を巡らせる。
 気のせいかとも思ったが、確かに聞こえた気がするのだ。

 初穂の瞳に、戸惑いという感情が戻って来る。
 だって、聞こえたのは泣き声だったのだから。
 誰かが哭いている。
 初穂は黒い深淵に背を向けて、恐る恐る声のする方へと向き直り、歩み始める。
 少しずつ歩みを進めるにつれて、声が鮮明になっていく。
 泣いているのは、男性のようだった。

『殺したくなんてなかったのに』

 血を吐くような悲痛な叫び声が聞こえる。
 心から己のした事を悔い、己を呪ってすらいるのを感じる。

『私が死ぬべきだったのに』

 取り返しのつかない過ちをしてしまった自分に罰を求めている。
 命を奪ってしまった相手を大切に思っていたこと、代わりに自分が命を落していれば、と痛い程に願っているのを感じる。
 初穂の歩みが進む度に、慟哭は更に強く、悲しく初穂の胸に響く。

 ねえ、泣かないで。
 何故かこの『誰か』が泣いているのを感じるのが、哀しい。

 泣かないでほしいと思う。何故そこまで自分を責めるのか、と辛くなる。
 誰かもわからないのに、叶うならば笑って欲しいと願う理由が自分でも分からない。
 ただ、泣かないでほしいと願い、初穂がそっと手を伸ばした先で。
 彼は、一際強く悲しい叫びをあげた。

『ごめんなさい。抗うことすらできなくて。弱くて、ごめんなさい……くずみ……!』

 伸ばした指先が触れた気がしたのと同時に哀しみがその場に響き渡った。
 おその瞬間、渦を描くように世界が歪み、揺れた。
 薄暗く靄がかかった世界が崩れていく。
 剥がれ落ちていく欠片の隙間から、差し込んできたのは眩しい光。
 尚も伸ばし続ける指の先に確かに誰かの気配を感じながら、初穂は辺りに満ちた光の眩さに耐えきれず目を閉じる。
 そんな初穂の耳に、宙を裂く雷鳴のような声が響く。
 声は、初穂を呼んでいるようだ。
 驚いて目を開こうとしたが、すぐに開けない。
 もどかしく思いながらゆるやかに開こうとしていると、伸ばしていた手が握りしめられた感触を覚えた。
 今度は確かに聞こえた。
 初穂を呼んでいる、玖澄の声が。

「初穂さん……!」

 今度は、光が少しずつゆるやかに初穂の視界に満ちていく。少しずつ、世界が色を取り戻していく。
 ぼんやりとした眼差しが、徐々に確かなものになり行く。
 瞳を開いて見上げた先、そこには悲痛な眼差しで初穂を見る玖澄の姿だった。
 美しい顔は、どこか面窶れしているように見える。
 必死に祈るように初穂の手を両手で握りしめながら。瞳の端には涙すら滲ませながら。初穂の眼差しを感じた玖澄は、一度茫然と目を見開いた後、笑おうとしたようだった。
 だが、それは出来なかった。
 良かった、とそれ以外の言葉を失ったように繰り返しながら、玖澄は涙を流している。喜びと安堵に顔をくしゃくしゃにしながら、押し頂くようにして初穂の手を握りしめて。
 男性が泣くところなど、殆ど見た事がない初穂は驚いて目を瞬いてしまう。
 しかし、けして不快ではない。むしろ、初穂の胸もこみ上げてくる温かな何かでいっぱいになりそうで。
 初穂は、こんなに幸せな涙を感じるのは初めてだ、と思った……。

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